第16話 胡蝶の夢

「これはテキストタイプの情報だよ。読むかい?」


 ヒナが僕に尋ねた。

 僕は唾を飲み込み、頷いた。


「うん、お願い」

「らじゃー!」


 可愛らしくヒナが叫ぶと、ウインドウがポンと表示された。

 どうやら小説家になろうのページがそのまま保存されたものらしい。

 僕の手が緊張でじっとりする。


「ねえ、ヒナ。最後に君が使用されたのはいつ?」

「ざっと五十年前だね。正確には五十年三ヶ月十五時間前。秒までいるかい?」

「ううん、いらない。ありがとう」


 僕がお礼を言うと、ヒナが胸を張る。

 いちいち仕草が可愛らしいのは、これを組んだ人間が女性だからかもしれない。

 今使用しているパソコンは、そもそもこの旧型のパソコンでは使用しにくいせいもあって、ネットにアクセスしていない。僕がヒナを起動させてから、文章がネットを介して改ざんする余地はなかったと言うことだ。

 つまりこの小説は、少なくとも五十年前のものそのままだ。

 …神様ならネットを介さなくても、改ざんできるかもしれない。そういう可能性を考えたらきりがないのだけど。とにかく。


「……」


 小説を読み始める。

 平易で分かりやすい文章で書かれたそれは読みやすい。しかしなにぶん量が多いので、時間がかかる。気がつけば真夜中はとっくに過ぎていて、それでもまだ読んでいた。

 それは散々僕が読みふけった小説とほとんど変わりがない。ありきたりで、普通で。だからこそ人の望むものが詰め込まれている。

 気がつけば夢中になっていた。人の持つ本能に忠実な欲望に僕は取り込まれる。


 「特殊な能力を持つ」、「平凡」で「普通に可愛い」主人公の周りには、いつだって魅力的な男性が集まっている。彼らは、他の異性を眼中に入れず、主人公に甘い言葉を囁く。

 まるで蜜に群がる虫のように。

 これは別に僕の感想ではなく、作中の地の文でそう説明されている。少々シニカルなのが、多少特徴的ではあるのかもしれない。


 この作品の場合、主人公がばらまくのは蜜ではなく、その他の利点、例えば、心理的な安らぎだったり、見た目的な優位だったりする。

 それが普通の恋愛と違うとは言わない。もちろん、普通の恋愛だってそういうものだろう。何かしらの利益があるから、人は人と一緒にいるのだ。性欲を満たすことでも、支配欲を満たすことでも、寂寥感をごまかすためでも。理由はいくらでもある。


 僕は葛切さんのことを考える。

 …僕は葛切さんと一緒にいたい。彼女と一緒にいることは僕に利益があるからだ。僕はそれを明確に自覚している。そして、その利益にあやかりたいが為に、彼女のそばにいる。

 葛切さんといると僕は満たされる。

 僕が存在してもいいと思わせてくれる。

 だから葛切さんが僕を信頼してくれたら嬉しいし、頼られたい。もっと欲を言うなら、お互いだけを必要として、そうやって満たし合えたら、きっと僕は幸せだ。沼にずぶずぶと沈んでいくようなそんな関係が、健全な関係であるとは思えないけど、僕はそうしたい。なんて、おぞましくて、卑怯な考えなんだろう。

 でも、僕はそんな暴挙に出ない。彼女とはそんな関係にならない。

 僕の理性がそれを押しとどめているからだ。僕の理性がちゃんと機能しているからだ。


 もっとも、僕がそんなことしようとしても、彼女には敵わないだろうけど。


 でも、だからこそ、理解している。きっと僕はいつか彼女から離れる日が来るだろう。彼女が僕がそばにいることを許してくれても、僕がそれをするべきではない。僕という存在で彼女を満たしてしまって、貶めたくない。彼女を変容させてしまいたくない。僕は一人で立てるようにならなくてはいけない。

 それが、僕の理性なのだ。


 だけど、この物語内ではそんな理性はない。

 まるで薬物中毒者が薬物を、アルコール依存症の患者が酒を求めるかのように、主人公の少女を貪り、求める。男性側に立ってみると、他と変わらない少女の何が魅力的なのかわからない。けど、主人公の立場に立てばこれほど自尊心が満たされる状態もないだろう。

 魅力的な異性に求められることで、主人公の欲望は満たされていくのだ。

 よく考えたら、これはなろう小説だけではなく、他のどんな小説とだって変わらないのかもしれない。かぐや姫だって、源氏物語だって、一人の人間がさまざまなタイプの異性に囲まれる話だ。そうして大抵の場合は、その社会的なフィールドで通用する強い人間が選ばれる。王子も、社長令息も記号的な意味としては同じだ。

 読み終わって、息をつく。

 ヒナは液晶の中で、丸まって眠り込んでいる。

 窓の外を見ると、空が白み始めていた。

 小説の内容はどこにも変なところはなかった。

 ただ、問題は、あった。

 小説を読み終わったある種の興奮と陶酔が体から抜け始める。

 僕は少し疲れて、目を閉じた。



✳︎

 白い空間。

 僕はどこか美術館のような場所にいる。

 周囲にはガラスケースの中に大小さまざまなオブジェが展示されている。

 翡翠の髪飾りだったり、パピルス紙だったり、どこか異国のお面だったり。

 展示品はすでに死んだ時代のものを展示しているくせに、そこだけがまるで生きているように色がある。

 パラドクサルで滑稽な眺めだった。

 けれど、僕はそれらを見て安心した。なぜなら、それ以外のものが真っ白だったからだ。

 白い壁、白い床に広い窓。この材質は、大理石だろうか。

 僕は台座の目の前に立っていた。やはり、これも白だ。

 彫刻の施された立派な台だというのに、上にはまだ、なにも乗っていない。

 大きな半円の窓からは外光がこれでもか、と取り込まれていて、それが空間の白さを強調させる。

 外は、晴れているのだろうか。

 とても美しい場所だと思った。

 けれど、だれも生きた人間がいない。

 心細いと言うより、寂しくなった。


 外に向かう。


 外に向かう木製の扉はすでに開け放たれている。

 庭につながっていた。

 緑の芝。道には白い砂利が敷き詰められている。

 透明な風が僕の髪の間をすり抜けていった。

 僕は見えない糸に引かれるようにして歩を進める。

 美術館は街中にあったらしい。すぐに公園から抜け出て、舗装された道路にたどり着く。

 漠然とした寂寥感がどうしても拭えない。

 アスファルトの色を除いては、やっぱり街が白いせいだ。多分。

 オスマン様式。頑丈で、そして白い、豪奢な建物が通りに軒を並べている。

 どの建物も見渡す限り四階建くらいの高さのようだった。

 僕は一度もこんなところ、来たことがない。見覚えがない。

 ここは、日本じゃないのか?

 ところどころに石像が飾ってある。

 どれもが街と調和していて、そこにあることにまるで違和感を感じさせない。だから展示してあるのかと思った。でも、もしかして、置いてあるだけなのだろうか。これじゃ雨ざらしだ。

 皆、一様に裸だ。

 そしてやっぱりどこも白い。

 建物の間をすり抜けるようにして存在する小さなアーケードがある。

 そこを抜けると、たどり着いたのは広場だった。

 神殿。…いや、教会?

 大きなそびえ立つような教会が、僕を見下ろしている。

 それが教会だと分かったのは、それに類似したものを僕が見たことがあったからだ。その時は写真でだったけど。でも、写真で見たものと違って、やはりこの教会も純白だった。

 この広場には、街中より、より一層石像が立ち並んでいた。老若男女それぞれ。

 その真ん中に葛切さんは、いた。

 そこに彼女がいることで、僕の中で何かが腑に落ちた。

 少しもそれが驚きじゃないと感じている自分に、むしろ驚いた。


「あれ、かすみくんだ」


 彼女は、ふくよかな中年女性と連れ立って歩いていた。

 葛切さんも僕に気がついて元気よく腕を振る。

 しかし、僕に近寄って来ようとはしない。

 僕らの間には距離がある。

 葛切さんが妖艶に言った。


「ここはね、わたしのお気に入りの場所なの。昔のギリシャ人はね、像を作るとき、ブロンズを利用したんだよ。石膏は、あくまでそのレプリカ。模倣なんだよ。ここにある石膏も、そう。雨が降り続けたら、壊れちゃう。そんな存在なの」


 葛切さんが女性を振り返る。

 女性は薄布のドレスを一枚、身にまとっている。


「かすみくん、面白いもの、見せてあげるよ」


 葛切さんが、少し背伸びをして女性にキスをする。

 優しい、啄ばむようなキスだ。

 すると、みるみるうちに女性が白に染まっていった。

 彼女はあっという間に、他と同じような石膏になってしまった。

 ね、面白いでしょ、と葛切さんが笑って見せた。

 おぞましいような、羨ましいような、そんな気持ちになった。


「服はもう、いらないね」


 彼女は肩の紐をずらすと、ストンと女性の着ていたドレスは床に落ちた。

 彼女は、石膏は、ハダカになった。

 丸いお腹も、垂れた乳もやっぱりふくよかで、石膏の肌は触ってみたくなるくらい、とてもなめらかだ。原初的な美術品のようだ。


「かすみくんも、こっちにおいで」


 葛切さんが僕に手招きをした。

 僕が身じろぎせずに硬直していると、彼女は待ちくたびれたらしい。

 噴水のヘリの上で直立している男性の石膏の前に立つと、彼の腿にキスをして、体の中心を口に含む。それはすぐに離されたけれど、先端部分が唾液で濡れて白から灰に変色した。


「わたしのものになって」


 僕はたまらなく悲しい気持ちになった。

 あっちに行けば救われるのだろうか。 

 僕も仲間に入れてくれるのだろうか。

 その誘惑にグッと堪える。


「葛切さん」

「なあに、かすみくん」


 葛切さんがまっすぐに僕を見る。

 こんな時でも、彼女の目はまっすぐだ。

狙うように、見定めをするように、そしてどこか心もとないように、僕を射抜いてる。

 どこか痛々しい彼女に、僕はゆっくりとぎこちなく、笑いかけた。


「戻ろうよ」


 手を彼女に向けて伸ばす。

 彼女の大きな目がさらに大きく見開かれた。

 限界まで見開かれた目は、驚きか、恐怖を表してるのか。

 途端に意識が表層に向かって引っ張られる。

 竜巻が巻き起こったのだ。その旋風に巻き込まれる。

 そのあまりの荒々しさに悲鳴を上げてしまった。


「う、うわあああああ」









「ああああああ」


 机に突っ伏していた僕は、跳ね起きた。


「かすみくん。どうしたのー? 寝ぼけた?」


 隣に座っていた葛切さんが僕の様子に目をまん丸にしている。

 制服から、いい匂いがする。


「お? なんで赤くなってるの?」

「な、なんでもない」


 僕は慌ててごまかした。

 さっきの夢の内容を言えるわけがない。

 …そういえば、どんな夢を見ていたんだっけ?

 夢を見たときにありがちな、内容が起きた瞬間から記憶からほろほろとこぼれ落ちていっている。


「昨日、どうだった?」

「わたしはぼちぼちだよ」

「そっか」

「桃井から離反する人間が現れはじめてる。やっぱりこの見た目の利用価値は高いね!」


 葛切さんが自慢げに胸をはる。

 僕は思わず顔をしかめた。


「それだけじゃないと思うけど」


 もちろん、その容姿が人に近づくのに有利に働くのは間違いないだろう。

 でも、きっとすぐに人はわかるだろう。葛切さんがどんなに生きるのに懸命で強い人か。

 美人でも、性格が合わない人はいくらでもいる。

 僕とは違って、彼女のそういうところをちゃんと見れる人間は、間違いなく、いる。


「利益とか…、見た目とかじゃなくて…」


 伝えたい気持ちがあるのに、はっきりと言葉にできないのがもどかしい。


「そうだね。ありがとう」 


 それでも、葛切さんは優しく微笑んだ。

 それから、この話はこれでおしまい、というように手を軽く叩く。


「それで、桃井はどうだった?」


 僕は手短に出来事を説明した後、言った。


「葛切さん。小説、見つけたよ」

「小説? もしかして『乙女ゲームの平凡主人公に転生してしまった』?」

「うん」

「そっかあ。あったかあ」


 彼女は頷いた。


「ただ、ヘンなんだ」

「ヘン?」

「まず、主人公の名前は出ていないから分からないんだけど、海堂くんの名前も出てきたし、葛切さんの名前も出てきたけど、それ以外の登場人物の名前が違ってたりする。例えば、僕の立ち位置にいるっぽい助っ人キャラの苗字は佐藤だけど、名前はかすみじゃない。でも、それ以前に」


 ゴクリと喉がなった。


「物語の中で、野中くんは死なないんだ。代わりに別の生徒、つまり佐藤かずやが死んだことになってる」

「それは、」


 葛切さんが腕を組んで、盛大に、大げさなくらいに顔をしかめた。


「どういうことだろう」


 僕らは物語を書き換えようとして、却って物語通りにことを勧めていたということなのだろうか?

 耳奥から、あの金属音じみた笑い声が聞こえた気がした。


「ヘンだな」

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