第6話 なにもない

「へ、へえ。なにそれ」


裏返った声が出た。


「あのね、知ってると思うんだけど、この世界は『小説家になろう』って言うサイトに投稿されたある小説の世界で、あたしはそれの悪役なの。でも、その小説では悪役はヒロインをいじめた事をみんなに暴露された後、…あ、もちろんいじめなんてしてないよ。で、それで退学させられて、レイプされて殺される運命だったの」


桃井さんは確信に満ちた声で諭すように言う。

なんて恐ろしい世界なんだ、学園もの。

誘拐やレイプが日常的にある学校なんていやだ。そんな学校あってたまるか。


「あたしは死にたくなかった。だからフラグを折ったんだ」


わかってくれるよね、と言うふうに黒目がちな瞳で桃井さんが僕を見る。


「え、じゃあ、葛切さんは」


桃井さんが悲しそうに微笑んだ。

どうしてなにも言わない。

分からない。

分からない、

彼女は悲しんでいるように見える。

でも、ほんとうに悲しんでいるんだろうか。


「主人公だよ。この世界の」


頭が混乱する。

葛切さんは自分が悪役令嬢だと言っていた。

けれど桃井さんは自分こそがそうだと言う。

一体どういうことなんだ。


「で、でも、桃井さんはいろんな人に囲まれているし、ぜんぜん悪役って感じがしないけど」

「それはフラグを折ったからだよ。どうしたら回避できるか試していたら自然と仲良くなっちゃった」


桃井さんがすこしおどけたように言った。

どうしよう。

桃井さんが言っていることは、そこまで不自然じゃないように思える。

桃井さんも葛切さんも言っていることが突飛な事に変わりはないのだ。


「信じて、くれる?」


小鳥がさえずるような声で桃井さんが僕を絡め取った。

僕の頭の中で一つの可能性が浮かんだ。



もしかして、二人がグルで僕は担がれているんじゃないか。

そうなんだ、信じるよ、と言った途端に、「ドッキリ成功」と書かれたプラカードを持った葛切さんが出てきてもおかしくない。

でも、こんな手の込んだ事をするだろうか。ただのいじめで。

背筋が震える。


「でね」


桃井さんの声にはっと引き戻された。


「かすみくんに助けてもらいたいの」

「え、何を?」


そういえば相談のために呼ばれたのだった。

少なくとも、そういう名目で。


「葛切さんが野中くんを殺そうとしているの」

「え、なんで?」


素で問い返してしまう。

葛切さんには野中くんを殺す理由なんてないように思える。


「あたしが立場を入れ替わって主人公の場所に立っちゃったから。葛切さんはね、仕返ししようとしているの」

「な、なにを根拠に」

「分かるの。そういうシナリオだったから」

「…」


つもり、桃井さんは葛切さんがシナリオに沿って動く人間だと考えているのだろう。葛切さんが言うところの『駒』だ。

でも、あんな風に誰かに支配されることを嫌がっていた葛切さんがシナリオに操られているというのだろうか?

それってヘンな気がする。だって、最初から世界なんかに疑問を抱かないようにプログラミングすれば済むことなのに。わざわざそう言う風に思考させるなんて。それとも普段の人間性を問わず、そのシナリオと言うものは強制力を発揮するのだろうか。

頭がこんがらがってきた。


「野中くんを助ける方法がひとつだけあって、でも、それが分からないの」


桃井さんは悲しそうに俯く。


「どういうこと?」

「葛切さんが持っているスケッチブック、あれに解決方法が載っているんだ」


どうして彼女のスケッチブックのことを知っているのか、それを聞いてもきっと意味はないのだろう。

きっと、なにもかもがシナリオと言う返事で片付けられてしまう気がした。

確信に満ちた様子で桃井さんは僕に言った。


「あれを、持ってきて欲しいの」


黒目がちな双眸が僕を見つめる。

じぃっと。

僕は、身震いしそうなほどの恐怖に襲われた。

葛切さんが僕を嵌めようとしているのか、桃井さんが嘘をついているのか分からない。でも、もし桃井さんが言っていることも、葛切さんが言っていることもほんとうだったら。

それは成立するのだ。

葛切さんがしらずしらずのうちに『悪役令嬢な主人公』としての行動をとっている可能性も、またその逆もある。二人が二人ともシナリオを進ませるために、見えない糸のようなもので操られているかもしれない。

その糸を操っている人類を超越した存在がいないと、どうして言い切れる?

 視界の奥の方で自分の快適な部屋のイメージが明点する。


「かすみくんには、たくさんお世話になってるからこんなこと頼みたくないんだけど」


声と桃井さんの唇の動きが乖離している。


「でも、あたし、葛切さんのことも助けたくて。葛切さん、野中くんを殺すために怪しい男の人たちに体を売ってるっていうんだよ。こんなこと、もうやめさせなくちゃ」


まるで故障したビデオに音声が遅れてやってくるように。


「こんなことをわかってくれて葛切さんに近づけるのはかすみくんしかいないの。お願い。聞いてくれたらちゃんと、かすみくんを葛切さんからたちから守ってあげるから」


「ね、ねえ待って、桃井さん。そもそもどうして桃井さんがそんなシナリオだの、なんだのって知っているの?」


ようやく僕は桃井さんの時間に追いつく。

ずっと気になっていたことをようやく聞けた。

僕の疑問に桃井さんはにっこりと笑って、ああ、それはね、と教えてくれる。


「『カミサマ』があたしに教えてくれたからだよ」


まるで背中を舐められたかのようにゾワっとした。

なんだこの返答は。なんだこの態度は。

桃井さんは僕をからかっている様子も、嘘をついている様子もない。

それなのに『カミサマ』だなんて!

一体なにがどうなればそんな存在が出てくるのだろう。

得体の知れなさに胸焼けがする。


この世界は本当に存在しているのだろうか?

葛切さんの疑問はいつの間にか僕のものへとなっていた。

無意識に呟く。


「…世界五分前仮説」

「え…?」


桃井さんが綺麗なまゆをひそめる。


「ご、ごめん。帰る!」


僕は自分のカバンをひっつかみ、慌てて教室からかけだした。

1秒でも長くいたら、自分が失われる気がした。

安全な場所。

早く自分の部屋に帰りたい。

僕を守ってくれるのはあの、小さな自分の部屋だけなような気がした。



✴︎

「かすみくん、今日は先に帰るね」


野中くん殺害まであと一週間だというのに、葛切さんは放課後になると教室からさっさと出て行ってしまった。

いや、葛切さんは心配そうに僕を伺っていた。彼女をわざわざ避けているのは僕だ。

桃井さんから話を聞いて数日。葛切さんにこの話はしていない。

僕は誰もいなくなった教室で、葛切さんの机に近く。

スケッチブックはこの中だろうか。


「やめとこう」


人の机を漁るのは、良くないよな。

僕は結局近づいただけで、なにもせず学校を出る。

そういえば一人で帰るのなんて久しぶりだな、と気がついた。

最近は葛切さんに振り回されてあっちこっちに行っていたから、一人の帰り道は思ったよりも寂しかった。

駅まであと五十メートルと言うところで、葛切さんを見つけた。

葛切さんの方がだいぶ先に出たのに、と思ったところで彼女が誰かと待ち合わせをしているのだと気がついた。左手首に嵌めた腕時計をちらちらと見ている。

僕はなんとなく足を止めてその光景を眺めていた。


『葛切さん、野中くんを殺すために怪しい男の人たちに体を売ってるっていうんだよ』


頭の中で桃井さんの言葉が反芻される。

たぶん、時間は十分もかからなかった。

黒塗りの車が駅のロータリーに止まり、葛切さんはそれに向かって駆け寄った。ちらりと見えた横顔はいつもの明るい笑顔だった。助手席に乗り込むと、車が発進する。運転席に座った男の顔が一瞬、見えた。

四十がらみの小太りの中年の男だった。

僕はただ立ち尽くしてその車を見送った。

それから。

僕は意図して葛切さんと口を聞くのを避けた。葛切さんはなにか言いたそうに僕を見ていたけど、桃井さんがまるで僕を守るように阻んでいた。僕にスケッチブックを取ってきてほしいと頼んだくせに、近くのを阻むなんて奇妙な態度だったけど、僕はそれを気にする余裕がなかった。

車を見てから3日後。

ついに野中くんが行方不明になった。


✳︎

「おい、知ってるか。野中が消えたってよ」

「うん、廊下で話しているのを聞いたよ」


 かずやの問いに僕はのろのろと頷く。

 ついに、 野中くんが消えた。

 それは学校中の騒ぎになった。

 僕はその話を聞いた時、どん底に落ちたような気分になった。

 野中くん、どこに行っちゃったんだろう、朝方、僕に雑用を頼みに来た桃井さんも途方にくれた様子で呟いていた。僕はただただ曖昧に笑って、頼まれた雑用をこなしたのだったけど。

 野中君が消えてしまった。

 原因はこれ以上ないくらい明確だ。

 僕が他のことに気を取られて、なにもしなかったからだ。

 もうすでに彼が行方不明になってから二日もたっている。彼はまだ生きているんだろうか。


「おい、どうしてそんな顔色悪いんだ。拾い食いでもしたのか?」


休み時間。

かずやが期待に満ちた顔で僕に問う。

なんか最近変わった?とも聞く。どういうことだろう。


「眠れなかったんだ。かずやはどうしてそんなに元気なの」

「そりゃあ、学校中がお祭り騒ぎになっているからな」


顔立ちが良すぎて目障りな奴が消えた、きひひひと悪魔のような笑い声をあげる。


「不謹慎だよ」

「なんだい友よ。具合が悪そうなきみを心配してあげているのに」

「きみが寄ってくるのはこういう時だけじゃないか」


それを友達と言うのか。

そりゃあ、根が善良な友人達にはこんなこと話せないからな、とかずやが嘯く。


「それにしても顔色が悪いな。何かに悩んでいるんだろ。よし、相談に乗ってあげるからカラオケに行こう」

「いいよ。大丈夫。…今日は予定があるし」

「ん…? 嘘だろ」

「うっ」


 すぐに見破られた。


「それに、もう決めた。俺は今日絶対お前とカラオケに行く」

「…カラオケ行ったことないから」

「じゃあ、一回くらい行ったっていいだろ」

「…ええ」


 結局、放課後。

 こっそり逃げかえろうとした僕を、和也が強引な誘い方で彼は僕を連れ出したのだった。

 今にして思うが、僕のクラスにはかずや然り葛切さん然り強引な人が多い、ようだ。


「で、お前はなにに悩んでるんだ。話したまえ。面白そうだ」


きーん、とハウリングするマイクが僕に向けられる。

僕はしぶしぶと話せる部分、つまり葛切さんと見かけた男性についてぼそぼそと述べる。かずやは人の話を聞くのが上手い。僕はいつのまにか本音を語っていた。


「僕は誰を信じたらいいんだろう」


 はあ、とため息をつく。


「葛切にしとけば?」

「どうして」

「だって可愛いじゃん」

「ああ、うん」


かずやは人の話を聞き出すのがうまいが飽きるのも早い。

規則正しいものを見るとめちゃくちゃにしたくなるんだそうだ。だから、授業を礼儀正しく受けるのも苦手で、たまにふらりといなくなる。

 先生も生徒も、またあいつは…、と口では言いつつ、なんだかんだ許されている。それがかずやだった。きっと、彼は「なにか」を掴むのがうまいのだろう。僕には分からない「なにか」。


「葛切が援交ねえ」


 意外だなあ、とかずやがぼやく。


「ちがうよ。そう言っている人っがいたってだけで」


 かずやがニヤリと笑う。


「それって桃井だろ」

「え」

「だってあいつら仲悪いじゃん」

「そうなの?」


 僕からしたら、二人とも高嶺の花だから気がつかなかった。

 たしかに仲がいいとは思わなかったけど、それは二人の間に関わり合いがないからだと思っていた。


「ていうか、あれは多分桃井が葛切を敵視してんだよ。美人だから嫉妬してんじゃね。葛切は興味ない感じだな。もっと言うと、あれは八方美人だけど案外人に興味ないタイプだね。絶対そうだ」

「そうかな」

「女ってそんなもんだぞ。ていうかお前が見る目なさすぎんだよ。もっと人を見る目を磨け」

「う、うん」


 かずやがニヤニヤ笑った。


「最後は経験に基づく勘がものを言うんだよ。俺はそうやっておっぱいの大きさを見分けてきた」


 いやらしく笑うかずやは変態親父みたいだ。


「まるでもう経験したことがあるみたいじゃない」

「あ、あるぞ」


 強がりだろうか。


「でもさ、葛切さん男の人と一緒だったんだ」

「それだって同じだよ。親かもしれないだろ」


 ていうかさ、ともはやかずやはめんどくさそうに言った。


「なんで直接本人に聞かないんだよ、お前」


 そんなこと言われたって、本人に聞けるわけもない。

 本当に売春をしていたら気まずいに決まってる。


「そんなことできないよ」


 かずやじゃあるまいし。

 僕は手元のマイクを見つめる。


「聞かなきゃわかんないだろ。聞いたところで殺されるわけでもないし」


 ところがどっこい、殺される可能性もあるんだから、どうすればいいのか分からない。

 僕はごめんね、と謝ると、なんで謝るとだけ返された。

 だから代わりにありがとうとだけ伝えると、ふんと鼻息の音がした。



✴︎

 家に帰ると母親が台所で夕飯の準備をしていた。


「かすみ、おかえり。もうすぐでご飯できるから着替えたら下りておいで」


 顔だけをこちらに向けて言う。


「はーい」


 言われた通りに、制服からジャージに着替えて台所のある一階に降りる。

 ダイニングテーブルの裏面についているボタンを押して消毒を済ますと、箸やコップを並べていく。母がカセットコンロを持ってきた。


「今日は鍋よ」

「もうすぐ夏だよ」

「鍋はいつ食べてもいいでしょ」

「お父さんは?」

「仕事で遅くなるってさ」


 父は仕事が忙しく滅多に家に帰ってこない。


「ふーん。母さんもこんな時間にいるのって珍しいね」

「そうなのよ。仕事が早く終わってね。あんた、最近学校どうなの」

「別に。楽しいよ」

「そう」


 僕は決まり悪くなって、キッチンに逃げる。

 ついでに皿に並べられた肉や、ボウルに入った野菜を運んだ。

 母がカセットコンロに火をつける。


「あんた、変わったね」

「なにが」

「表情が明るくなった。可愛い彼女でもできた?」


 僕は親を軽く睨む。こんな大変な時だって言うのに。


「そりゃあね。せっかく学校に通わせてもらってるんだから楽しまなきゃ損でしょ」


 母親が大きく口を開けて笑った。


「いったいなにがあったんだかね」


 僕は渋面を作りながらも、内心なんだかホッとした。 

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