第4話 哀れな野中くんと、バケモノに魅入られた僕

 僕はその日、野中という少年を探してみることにした。

 野中少年は隣の三組にいるという情報をかずやから聞いた僕は、早速昼休みに教室に向かう。入り口から隠れるようにして中を覗いてみると、真っ先に視界に飛び込んできたのは桃井さんがいた。彼女はインパクトが強いから、どこにいても目を引く。


「あのね、今日、海堂くんのおうちに行ってもいい? 飼ってる猫ちゃん見てみたい!」


 彼女の声は高いから、廊下の僕まで聞こえてきた。

 桃井さんは海堂くんと呼ばれた男子の隣に座り、そのくりくりとした瞳をさらに大きくして見上げている。海堂くんが背が高いせいもあって、すごく綺麗な絵になっている。

 その少し離れた位置にしょんぼりしている男子がいた。どうやら3人で輪になって昼食を摂っていたようだけど、彼らが描く円はいびつだ。桃井さんと海堂くんの距離が近すぎるのだ。そのせいで彼を締め出す形になっている。

 彼はちらちらと海堂少年と桃井さんを見つめていた。


 きっと、この人が野中くんだ。


 そう思った。

 あんな風に居心地が悪そうで、あんな風に悲しそうで、あんな風に少し怒ったような顔するんだからきっと野中くんだ。人気投票で最下位だったという野中くんだ。

桃井さんを奪われて悲しんでいる。


 案の定、野中どうしたんだよ、と海堂くんに話しかけられた野中くんは、別にとぶっきらぼうに返事をしている。 

 かわいそうだな、そう思った。

 僕はいつの間にか野中くんに感情移入していた。

 このまま死ぬんじゃ、あまりにも野中くんがかわいそうだ。

 助けたいな、そう思った。

 拳を軽く握る。

 まさかその決意が目に入ったわけでもないだろうけど、「あ、かすみくんだ」という高い声が教室に響いた。

 桃井さんが僕を見ていた。

 その視線を追って、クラス中の男子が僕を見た。


「知り合い?」


 海堂くんが桃井さんに聞く。


「うん、とっても親切な人なの」


 羞恥だろうか。マグマのようなドロドロとした感情で、急に体温が上がった気がした。


「かすみくん、このクラスに知り合いいるの?」

「あばっ」


 喉から変な声が出た。


「あば?」


 海堂くんが綺麗な眉をひそめる。


「ま、間違えた。教室間違えたんだ。戻らなきゃ」


 えー、と桃井さんが声を上げる。

 僕は不自然なくらいな不自然な撤退の仕方をしたのだった。



✴︎

 放課後。


「それで逃げ帰ってきたんだ」

「う、うん、ごめん」


 あははは、とお腹を抱えて笑う葛切さんの前で、僕は背中を縮こまらせる。

 あまりにも笑うものだから、背もたれのない木製の椅子がガタガタ揺れた。


「変なことにならなきゃいいけど」


 勝手な行動した申し訳なさがこみ上げてくる。


「大丈夫だって。なったらなったでその時だよ」


 葛切さんは軽い。

 図書館では静かに、司書さんが僕らに注意する。すみませーん、と葛切さんが軽やかに返事した。


「で、野中はどんな人だったの?」


 僕は野中くんの丸まった体を思い出しながら、彼女に言う。


「多分結構身長は大きいと思う。百八十センチはあるかなあ。ボクシングとかやっているのか結構筋肉質で体格いいかも」


 だからこそ丸まった背中は余計に哀れだった。


「へえ、じゃあ、彼を殺すのは結構手間が入りそうだね」


 葛切さんがまるで殺人鬼のような発言をする。そうだね、と僕は頷いた。


「ていうか、ほんとにいるんだ、野中」


 葛切さんが小さく呟く。それからしばらくの間、何かを考え込んだ。

 そして、テーブルの上で開いていた本をぱたんと閉じて、僕を見る。

 その動作は唐突で。

 でも、様になっている。


「突然なんだけど」


 急に温度が切り替わった。


「う、うん」

「かすみくんは、もうこれ以上関わらなくていいよ」


 思ってもいなかった言葉だった。

 口調は軽いけど、ふざけているわけじゃないのが分かる。


「よくよく考えたんだけどね。人が死ぬかもしれない。そんなことに他人を巻き込んじゃいけないって気がついたんだ」


 まるで老年者のような話し方だ。

 自分の意思を通すために正論を使う。

 普段だったらこんな話し方をする子に僕は萎縮してしまって、そのまますごすごと引き下がっていただろう。

 でも、なんでか、この時の僕は抵抗した。


「で、でも女の子一人じゃ危ないかもしれないよ」


 そうだね、と葛切さんが頷く。


「でも、わたしはきっと殺されないと思うんだよね。これはあくまで勘だけど」


 あっけらかんと言い放たれたその言葉に僕はムッとした。

 なんだそれ。


「小説じゃないんだから。人は死ぬよ」

「だからだよ。わたしはかすみくんを巻き込みたくない」


 今更言うのもなんだけど、と葛切さんが言う。

 彼女は僕の言葉を一つ一つ潰そうとしている。

 さっきまで親しげに話していたのに、急に大きな壁を作られた。

 裏切られた。そんな気分だ。


「それでも、僕も何かしたい」


 野中くんの丸まった背中を思い出す。

 僕はスクールカーストっていう言葉が嫌いだ。

 だから、できればそんな考え方を持ち込みたくない。だって否応無く自分の居場所の居心地の悪さに目がつくから。

 だけど、あえて言葉にするなら野中くんは、彼は、普段はスクールカーストの上にいるタイプだろう。そして、僕は、その正反対の位置にいる。

 だからこんな感情をいただくのが間違っていることはわかっている。下が上に同情するだなんて。

 でも、


「こんな風に何かをしたいって思ったのは初めてなんだ」


 葛切さんは、いかにも困ったと言う風に目を伏せた。


「でもなあ」


 それは、どうしようか迷っていると言うより、どうやって、僕を説得しようか考えあぐねているように見えた。

 今日の僕はおかしい。

 桃井さんの時から体の内側でくすぶっていたマグマがここで、本当に爆発してしまった。


「葛切さんだって高校生のくせに! どうせ影で僕のこと、笑ってるんだ」


 わー、とまくし立てると、図書室の外へ飛び出す。

 葛切さんのぽかんと開いた口が最後に目に入った。



 やってしまった。

 僕はカバーを閉じた便器の上で膝を抱えて座り込む。

 今度は葛切さんに見つからないように、二年生ではなくて三年生のいる一階のトイレに駆け込んだ。 

 僕は羞恥と悔恨と自分の情けなさに悶えた。


「あばばばばば」


 僕は子供か。こんなこと小学生だってやらないだろう。

 しかも切れた相手は母親でも家族でもなく、同級生だ。

 何やってんだ、僕。

 はあ、とため息を漏らす。


「あとで置いてきたカバン、取りにいかなきゃ…」


 ここから出なきゃ、そう思うほどトイレのドアを開ける気にならなかった。

 うじうじと無為に時間を過ごす。


「かすみくんは、何かあるとトイレにいるんだね」


 そうこうしていたら、扉の向こう側から声が聞こえた。

 ちょっと呆れてる。


「葛切さん、ここは男子トイレだよ」

「知ってるよ」


 あっけらかんとしている。


「…どうしてここが分かったの」

「こう見えてもわたし、結構友達多いんだよ。トイレに駆け込んだ人いなかったか聞いたらすぐ分かった」


 葛切さんに友達が多いのは、見なくてもとっくに知っている。


「おーい。かすみくん。出ておいでよ」


 とんとん、とノックの音が聞こえる。


「…」


 僕は動かなかった。

 開けたくないのではなく、どうしたらいいのかわからなかったからだ。それに、すごく恥ずかしい。


「開けてー」


 葛切さんがドアをガンガン揺さぶる。

 葛切さん、絶対レストランとかで行列に並ぶの嫌いなタイプだ。全然待とうとしてくれない。


「ま、待って」

「いやだ」


 間髪入れずに返事が帰ってきた。


「ご、ごめん」

「かすみくんは謝るようなことしてないよ。でも、とりあえずここ、開けてよ」

「…」

「じゃなきゃ、」


 嫌な予感がした。


「わたしがそっちに行く」


 その言葉が聞こえてきた時には、もう葛切さんが上から降ってきた。華麗に床に着地する。


「ひいい」


 僕は後ろに飛びのく。

 後頭部を壁にぶつけて、僕はさらに蹲った。

 痛みはすぐに引いたけど、顔が上げられない。


「ど、どうやって飛び越えたの」

「どうって、そこに掃除用の脚立あったけど」


 どうやらよじ登ったわけじゃなかったらしい。てっきりそうしたのかと思った。




「どうしたの」


 葛切さんが僕に尋ねる。

 母親が幼児に問いただすような優しさが声に滲んでいる。


「葛切さん、情けないって言ったっていいんだよ」

「え、あ、うん。わりと情けないね」


 容赦がない。

 聖母の優しさは張りぼてだった。


「やっぱり言わないで…」

「どっちなの」

「ごめんなさい」


 僕はまた謝罪をする。

 葛切さんはどんな顔をしているんだろう。


「さっきも言ったけど」


 ふう、と息を吐き出す音がする。


「かすみくんは悪くないよ。かすみくんがそんなにこの話に興味があるとは思わなかっただけで、悪いのはわたしだよ」


 わたしが衝動的だったから、と葛切さんが呟く。


「もしかしてこれってドッキリなの? 異世界も小説もなにもかも、ウソ?」


 そうじゃないかと考えてたことは何度もある。と言うか今でもそう思っている部分がある。

 これはタチの悪い嘘で、適当なでまかせを言って僕をからかっているんじゃないかって。

 でなきゃ、どうして葛切さんがわざわざ僕なんかに話しかけるのか分からない。僕が彼女の秘密を知る人物じゃないとわかった時点で、彼女はそれ以上僕に興味を持つ必要がないのだ。


「残念ながら違うんだなあ、これが」


 のんびりと葛切さんが否定した。


「じゃあ、どうして葛切さんは僕にかまうの」


 全然わからなかった。

 周知の通り、僕には全然魅力がない。外見もダメだし、内面もダメだ。でも多分、そういうことじゃなくて。誰かを魅了する力が圧倒的に欠落している。

 それに、気が付いた。

 そもそもこの話題に食いついているのは僕なのだ。

 葛切さんは僕に付き合ってくれているだけだ。


 僕はこんな風に執着するべきじゃなかった。

 思い出すべきだったのだ。何かに執着するのが、どんなに浅ましいことなのか。

 物事にこだわろうとするのが、どんなに無意味なことなのか。


「中学生の時、からかわれた」


 胃がキリキリと痛む。


「僕に優しくしてくれたクラスメイトがいた。でも、そうやって優しくして、裏で僕のことをからかっていたんだ」


 それはいじめじゃなかった。

 ただのイタズラだった。身内で最高に盛り上がれるいたずら。

 僕は、ただ、その身内という線引きの中にいなかっただけだ。だから、いたずらの対象になったし、イヤな思いをした。でも、あくまでイタズラだった。

 実際、教師が彼らに注意をしたら、それはすぐに止んだ。

 脆い僕の内側に、引っかき傷を一つ増やしていったけど。

 僕は自分が過ごしてきたからっぽの時間を思い出す。

 胃酸が喉元までせり上がってきそうだ。


「これもそれと同じなんじゃない。目的があるなら早く言ってよ」


 弱々しい声で絞り出されたそれは、逆ギレだった。

 まごう事なき逆ギレだった。


「あまえんな」


 ぴしゃりと葛切さんが跳ね除ける。


「不満があるなら怒ればいいじゃん。こんなふうに逃げたりしないで」


 あ、もう怒ってるのか、と葛切さんが呟いた。


「かすみくんに話したのは、たまたまだし、全部話したのもわたしが適当だからだよ。別にこの世界がどうなってもいいって思ってたから、かすみくんにも色々話をした。本当に申し訳ないと思う」

「世界はどうなってもいいのに謝るんだ」

「うう…、でも、そんなふうに泣かれると、流石にかすみくんは生きているんだろうな、って思うよ。だって、こんな変な状況、わたしの脳じゃ想像できないもん」

「泣いてない」


 思わず顔を上げる。

 にんまりした葛切さんと目があった。

 鼻水がずーっと下に垂れた。



「ごめんなさい」

「はいはい謝らないの」


 下駄箱脇のベンチに腰を下ろした僕に、葛切さんが、自販機で買ってきた缶ジュースを差し出してくれる。それをありがたく受け取って、プルトップを開け、舐めるように飲んだ。我ながら気持ちの悪い飲み方だと思うけど、ラクだ。

 葛切さんがあまりにも優しくてまるで、


「お母さんみたいだ」

「きみは幼い子供みたいだねえ」


 すぐに切り返された。

 なんでだろう。

 最低なことをしたのに、却って距離が近づいた気がするのは。

 とはいえ、流石にもう信用はされない気がした。

 だから僕は卑怯な方法をとった。拒否されるくらいなら、自分から拒否したい。


「葛切さん。もし迷惑だったら、僕は抜けるよ」


 だから言って欲しい、そう続けようとしたのだけど、それより先に葛切さんが返事をした。


「え、別にいいよ。もう全部かすみくんに全部話しちゃったし、代わりを探すよりはかすみくんがいいかな。いつ人手が必要になるか分かんないもんね。ただ死んじゃっても恨まないでね」


 あははと葛切さんが笑う。

 どうやら僕は少なくともいつか必要になるかもしれない人手程度にはカウントしてもらえるようだ。…ほんとうに葛切さんは僕とはどこか世界の捉え方が違うのかもしれない。


「と言うわけで、今日はどこに行こうか? 作戦会議をしよう!」


 葛切さんがにこ、と笑う。

 気負いのない軽やかな笑い方。どうすれば僕もこんな風に笑えるようになるんだろう。

 そこまで見惚れて、思い出した。

 そうだった。こんなに大泣きした後で、恥ずかしい…。


「あ、その、ごめん」

「うん?」

「あまり、小遣いがなくて、いま。その…」


 そう、今月の僕の小遣いはピンチに陥っていた。

 葛切さんとパンケーキを食べたりしたせいでもあるけど、気になっていたゲームを買ってしまったのだ。

 葛切さんがうーん、と唸ると


「きみんち空いてる?」


 にんまりと笑って僕に提案した。

 桃井さんが海堂くんちで何をするのか知らないけど、これよりはもっと色気のあることだろうな、僕はそう思った。

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