第4話

 

 パン屋で働いている、といっても彼女の仕事は少ない。幾つかのパンを作るのは確かに彼女の仕事だがほとんどのパンは店主が作る。彼女は店主が居ない間店番をし、パンを売るためにレジを叩く。


 暇だった。どうしようもなく。ただ、店主に恩があった。恩を返したいといった時、彼はじゃあ店番を頼むと言ってきた。その足でも、座っていることと少しだけ歩くことは出来るだろうと。


 振り続ける雨を眺めて溜息をつく。


「暇ね」


 最近、二日に一度は彼が来ていた。それは確かな退屈しのぎ。


 けれど雨が降り続いている間、彼は来ない。来ない所で問題はない。売上が一人分減っても問題ないほどに上客は居る、らしい。


 正直なところ店主であるあの人がどこにパンを売りに行っているのかは遥も知らない。


「こんにちは……」


 扉の鈴の音と、聞いたことのある声。


 目を向けて驚いた。


 『彼』は雨に濡れていた。髪はしとどに濡れて水滴を店に落としていて、非番の日に来ていたような淡い栗色のコートも水を吸って色が変わっている。


 どうしたの。そう聞きそうになって口を閉じた。


 大して知った仲でもない。心配するほど仲が良いわけじゃない。


「ねえ、床が濡れるんだけど」


 少し間を開けたがいつもの様にそう言えば、彼は困ったように笑ってコートを肩から落とした。


「悪いね。店主、呼んでくれるかな?」


 いつもより、粗暴。呼んでくるといえば彼はじゃあ外にいる、といって店を出て行く。


 休憩室で仮眠をとっている店主の肩を叩くと酷く不機嫌そうな店主が薄く目を開ける。いつも温厚な店主でもこうなることがあるのか。


 外に来客があることを告げると店主は弾かれたように起き上がり、椅子を倒した。倒れた椅子を直すこともせず適当なタオルを引っ掴むと勢い良く店を出て行く。


 二人してわけがわからない。


 見ると雨の中、店先の屋根のある場所で何かを話している。何を話しているかは分からないが、二人とも珍しく酷く真剣な顔をしているように見える。


 タオルを叩きつけられた龍騎は髪の毛の水気を絞り、拭き取りながら店主の話を聞いている。話の内容までは聞こえてこないが笑顔ではないところを見るとどちらにとっても良い話ではないのだろう。


 そのまま龍騎は帽子の中へ赤い髪を収めると店を離れ、店主は濡れたタオルを片手に苦々しい顔で店に戻ってくる。


「何か企みごと?」


 そう、声をかけると店主は目に見えて驚く。


「何で、あ、いや、企みごとというより、ただ……世間話です」


「ふうん? 隠し事が下手なのね?」


 怯えたように視線をそらすから、それが真実だと言っているようなものなんだよ。口に出さないが、遥は笑った。


「遥さん、アイツのことは、その、あまり……」


「興味ないわ。警備の人ならともかく騎士なんてどうでも良い」


 からん。店の扉が開き、二人の意識は騎士から逸れる。いかにもパンを食べ無さそうな体格のいい黒い服を着た男が無表情に店内へと入ってくる。


 いらっしゃいませ。店主が人の良い笑みを浮かべる。


 どこかでみたことのある黒い服。男は店の中を一瞥するときびすを返して立ち去った。何だったんだろう。


 龍騎を店を離れてすぐ空から雲は退き、空は青く染まった。


 その日の夕方、パン屋の主人はパンの配達に出かけ、パン屋に戻った時。店番をしているはずの遥は居らず、売り物のパンと遥の体を支えるはずの杖が床の上に転がっていた。


 

 ずぶ濡れになったコートを適当にハンガーへ引っ掛ける。これだけ濡れているのにも関わらず、外では日が差している。にわか雨だったのか。傾きかけた日は赤く騎士隊舎の壁を染める。


 晴れると機嫌が悪くなるからな。


 不思議な感性を持つ彼女を思い出して笑う。日を嫌い雨を好いて、騎士を憎む。


 あとは、少しパンを焼くのが下手だ。店の棚に並んだパンを何度か見ていると分かる。少し形の歪なパンが混ざり込んでいる。


 貴族の案内があって上機嫌では無かったが、様子を見ることが出来たのは楽しかった。


 くしゅっ、と小さくくしゃみを漏らしてようやく外が黒くなっていることに気づいた。雨に濡れたままろくに乾かすこと無く仕事に入ってしまったからか、体が芯から凍えているような気すらする。


 さっさと体を温めて寝よう濡れたコートを腕に引っ掛け、別のコートを背中に羽織る。


 隊舎の外は黒く、街灯も敢えて少なくしているため少し先の風景も見えない。誰かが、何かが潜んでいたとしても気づくことはない。


 彼のように余程気配に聡くなければ気付かないだろう。


「制服を脱いだが、得物は持ってるぞ。この場所で襲ってくるつもりなら相応の覚悟をしてもらおうか」


 暗闇に笑いかける龍騎に、潜んでいた影はびくりと体を震わせた。


「りゅ、龍騎!!」


 影は切羽詰ったような声で叫んで隠れていた物陰から飛び出し、龍騎の仕合の及ぶ場所まで駆け寄る。


 だらしなく見える格好に少し跳ねた髪。


「お前……こんな所で何してる。隊舎には近づくなと言ってるだろ」


「それどころじゃないんだよ! 遥さんが――」


「お前煩い、こっち来い」


 知った名前に一瞬龍騎の表情が変わるが男はそれに気づかず、ただ強く握られた手を引かれるままに更に暗い暗闇の中へと足を進ませる。


 連れられている間もどうしてそんなにも冷静なんだ、と龍騎へ文句を送る。


 騎士隊舎から離れ、建物の影に身を隠すように入り込んだ龍騎はようやく男の手を離し、かすかに街灯の光が届く場所で男に向き直った。不機嫌にすら見える、やけに真剣な表情だった。


 彼の表情を見て男は初めて口を閉じた。


 落ち着いたか? 龍騎の言葉にひとつ頷く。


「それで、あの人がどうしたって?」


「ああ……、配達から戻ったら、遥さんが、居なくて」


「……気まぐれなサボりじゃないのか?」


 彼女ならそういうこともしそうだが。そういう意味で言うも、男は首を振った。少なくとも自分があのパン屋を営んでいる間、彼女の勤務態度は真面目とは言えないが前触れも無く居なくなるような人ではない。


 それに、店のパンを床に散らかし傷付いた杖を置いていくような人でもない。


 男の言葉に龍騎はひとつ頷いた。


「じゃあお前は帰れ」


 龍騎の言葉に男は間の抜けた声を返す。


 帰れ。二度目の言葉は笑顔のおまけ付き。


「なんでっ!」


「お前に表立ってそういう動きをされると困るんだよ。……明日の朝、いや、昼までにはもとに戻してやるから」


「っー、わ、かった」


「分かってない顔だな? 絶対に動くな、俺を信用しているなら、絶対にな」


 最後に男の肩を小突き、龍騎は笑った。


 だが、内心は穏やかなものではない。男からパン屋の鍵を譲り受け、ひとつくしゃみをした彼は未だ片付けが済まず散らかったままの部屋に足を踏み入れた。


 思わず舌打ちをひとつ。静かな場所に龍騎の不機嫌だけが染み渡った。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る