第三部 解放
その日は、雨漏りのうるさい日だった。この笛吹会の建物は、非常に粗末に作られていて、本当にちょっとしたことで雨漏りがした。それくらい、この建物は、劣悪であった。と、いう事はつまり、雨が降っているという事であり、雨が降っていることは、湿気が強くべたっとした、じめじめとした日だったような気がする。まあこういう日が苦手という人は本当に多いだろう。健康な人でもそんなことをいうんだから、体の弱いひとにとっては、まさしく非常につらい時期であるのかもしれない。
その日の夜だった。暫く小康状態が続いていたと思った水穂が、また激しく咳き込み始めた。
隣の部屋でさえも、出入りの認められないこの建物は、誰も、夜間に廊下を歩くということはないが、この時はまた別であった。多くの信徒が、水穂の寝ている部屋へやってきた。
「水穂さん、大丈夫ですか。」
信徒たちは、水穂の部屋に入ってきて、口口に声をかける。何を声をかけても、水穂は全く反応しない。時には背中をさすったり、たたいたりする信徒もいるけれど、治まらない。
「おい、いく先生、呼んできてくれ。」
一人の男性信徒が、急いでそういうと、別の女性の信徒がわかりましたと言って、急いでいく先生の下へ猪突猛進に走っていった。
その数分後。彼女と一緒に、いく先生がやってきて、水穂をとりあえず診察して、睡眠薬を注射してくれて、やっと咳き込むのは、治まった。それではよかったと思うのだが、いく先生は、厳しい観察を続けている。
「どうですか、先生。」
男性信徒が、いく先生に聞いた。
「いや、もうこの体では無理でしょう。」
いく先生はそういった。というよりそれしか言いようがなかった。
それくらい、水穂さんは、進んでいた。
「そうなるとつまり、水穂さんの先に待っているのは。」
別の男性信徒がそういうと、全員が黙り込んだ。
「先生、何とかならないのでしょうか。」
女性信徒がそういっても、いく先生は、黙ったままだった。
「つまり、水穂さんは、俺たちと同じ環境にいたとしても、変われないんだ。それは、水穂さんにはそうなんだ。」
「いや、水穂さんだけじゃない。俺たちも同じだ。」
全員、それを強く感じた。
「先生。それは、勘弁してくださいよ。なんとかして、この人をごみとして捨てないようにしてやって下さい。俺たちは、この人に、何十回もぐちを聞いてもらったし。そんな中で、そういう人が俺たちの前で逝ってしまうのは、絶対に避けたいと思いますし。」
いく先生は、困った顔をした。自殺者ならまだしも、こんな形で、死者を出すのは、笛吹会の最大の恥である。そして、遠藤千沙総大将が、自分に恥をかかせるなと何か、いい寄ってくるに違いない、、、。何とかしなければ。
「わかりました。私も手を尽くします。できるかどうかわかりませんが、できる限り長く、水穂さんを生かして差し上げられるように。」
いく先生は、きっぱりといった。
その間に、水穂さんは、静かに眠ったまま、何も言わないでいたのだった。
「結局、俺たちは何のために生きてきたんだろうな。もう結局さ、何をやっても成功しなくて、家族に迷惑な存在として、こうして隔離の施設に連れてこられて、結局ここで閉じ込められるだけじゃないか。其れでは俺たち、何をしたって、もう何も意味がないんだよ。結果として俺たちは死ぬしか何じゃないか。もうさあ、生きてもいい奴は、働ける奴だけにして、俺たちは死んでもいいという法律作ってくれないだろうかな。」
とある男性信徒が、廊下を歩きながら、そういい始めた。
「でも、あたしたちは、生きていなければ、いけないって、遠藤総大将は言っていたわね。」
別の女性信徒がそうつぶやく。
「そんなこと迷信よ。それは、ただ偉い人が、自分を偉く見せたいがために、そういっているだけのことだわ。」
「それでは、あたしたちは、もう死ぬしかないってことかしらね。」
女性信徒は、静かに答えた。
「あたしたちは、何にもなれないで、何の足しにもなれずに消えていくってわけか。せめて、水穂さんみたいに聞くことが上手になれればなあ。」
遠藤千沙の演説を散々聞きすぎたあまり、彼女たちは、もう自信を無くしていた。それどころか、彼女たち自身のアイディンティティすら、持つことを忘れていた。其れすら持つことは出来なかったのだ。
「あたしたちは、何かできることってあるかなあ。もう、生まれてくるべきじゃなかったって言うか、それでも、生きていく必要なんてあるかしら。」
「もう人生終わりにできたらいいのにねえ。」
そんなこと、それではもう無理なんていいながら、彼女たちは、廊下を歩いて行った。ほかの信徒たちも、もう完全にあきらめきっていた。もう、生きていてもしょうがない。いずれはどこかで集団自決してしまおう。彼ら、彼女たちは、そう考えていた。
その翌日の事である。
杉三は、というと、のんきな顔をして、のびるとか、ヤブガラシの入った雑炊を作っていた。それだけは、ほかの信徒たちも黙認していた。あの例の遠藤千沙総大将が、どうかかってくるかは疑問であるが。
「杉ちゃん、よく平気で何でも作れるのね。そんな顔して、よくここで暮らしていけるわ。あたしたちにも、食べさせてよ。」
信徒たちが、そういっているように、杉三は、信徒たちの人気者であった。
「ほんと、料理の達人だし。杉ちゃんにはずっといてほしいな。」
女性信徒が、そういってにこやかに杉三のほうを見たが、
「いや、僕は、こんなところにはいたくないなあ。」
と、杉三は言った。
「なんで?」
「いや僕は、誰でもうまい飯を食っていいと思うし、静かに生活していいと思う。そりゃ確かに、働いてなくて、いろいろ不自由なこともあるかもしれないよ。だけど働いてないと生きていけないという事はない。其れは、新たな仕事を生み出すきっかけになったりすることもあるんだ。全部のやつが働ける奴でないとダメだっていうのは、僕は違うような気がするんだよね。」
「杉ちゃん。あたしたちはね。もう向こうの世界では生きていられなくなったから、ここに来たのよ。それを救ってくれたのは、遠藤千沙総大将じゃない。あたしたちは、今までの世界だったら、間違いなく殺されるか、自ら死ぬ以外、家族もあたしたちも助かる道はないって、そういっていたの。でも、家族が、離れることで、そうしいて幸せになるんだったら、それが一番いいんだって、あたしたちはそう教わってきたの。」
「うーんそれはどうかな。あの千沙という女は、そういう所は頭が利くのかもしれないが、本当に偉いとは思えないな。僕らは、そんなに悪い奴らだったかな。だってさ、考えてもみろ。悪い奴らも、平気で殺し合いする奴らも、こうして収容されることなく生きているんだぜ。だったらそっちの方を始末してくれと思うのだが。どうだろう。」
「そうなのね、、、。」
女性信徒は、少し肩を落とした。
「それに、何のためにここへ閉じ込めておいて生かしているんだろ。そこが強制収容所とは違うところだよな。もしかして、僕らは頭が悪いから、そこまで教えておかなくても、いいってバカにしているんだろうか。あ、きっとそうかもよ。」
杉三はからからと笑った。
「杉ちゃん、何でも笑いごとで済ませて、すごい楽しいでしょうね。そうやって、明るく生きていくことができたら。」
「あの、この中に、影山杉三という人は、おりませんでしょうか。」
不意に、ハチが、食堂にやってきた。ほかの信徒たちも、ハチは特別な存在とされているので、全員敬礼した。でも、ハチは返答を返すどころじゃなさそうだ。
「はい、影山杉三は僕だけど。」
ハチに杉三がそういうと、ハチはあれれという顔で杉三を見た。多分車いすの人間とは思わなかったのだろう。
「あの、すぐに解放棟に来てくれませんか。」
「なんだ一体どうしたの?」
「水穂さんが大変なんです。すぐに来てくれませんか!」
杉三は、すぐに顔色を変えた。
「わかったよ!すぐ行く。」
ハチは、杉三の車いすを押しながら、急いで食堂を飛び出していった。解放棟の一室だけが、人が沢山集まっている。ハチは、その群衆をかき分ける様に杉三を無理やり中に入れた。
水穂さんはベッドに寝かされているのだが、いく先生が、一生懸命聴診している。
「呼びかけても何の反応もしないんです。皆さんも、水穂さんが心配なので、今日の講義は受ける気がしないって、いう事聞かなくて。」
「どうですか、いく先生。」
ハチが、静かに聞いた。
「そうですね。」
いく先生はぼそっと答える。
「心臓がね、かなり弱ってます。もう、疲労がたまりすぎているんでしょう。もしかしたら、このまま。」
「馬鹿野郎!」
と、杉三が、いく先生に食ってかかる。
「お前さんは、それでも医者か?医者というのはな、ここで、一生懸命何とかしようとしてやるのが医者っていうもんだ。わかるか!」
「いや、無理なものは無理ですよ。もうここまで衰弱しきっていると。」
「ははんそうかい。お前さんは、ここにいる囚人たちはみな、働かないで悪い奴だから、何もしないで放っておくつもりなんだな。それはな、確かに合理的な方法なのかもしれないが、其れのせいでひどく悲しむやつも、いるってことも忘れないでくれよ!」
「そうだよね、、、。」
一人の女性信徒が、そうつぶやく。
「あたしたちは、そこまでの能力は無いのかもしれないけど、水穂さんはそうじゃないかもしれないからね。あたしたちの話を、ちゃんと聞いてくれたもの。」
「そうだよな。それを亡くしたら俺たち、ほかに聞いてもらうやつ何かいないもんな。水穂さんは、そういう中では貴重な存在だぜ。」
男性信徒がそういうと同時に、
「当り前だ。いくら何でも、こいつをこっちで逝かせるわけにはいかん!おい、頼むから何とかしてもらえないだろうか!」
杉三がいく先生に食って掛かった。
「おい!」
「わかりました。じゃあ、このくすりがうまく効いてくれればいいのですが。」
いく先生は、もうほとんど意識のない水穂の腕に、また太い注射を打った。もういたいなと反応を返してくれることはなくなってしまうのではないか、とみな、おもった。
「しっかりせい!お前さんは、まだ逝くには早すぎるぞ!」
杉ちゃんがでかい声でそう呼びかける。少しの間、沈黙が続いた。しかし、数分後には。
「お、お、おう、目が開いたぞ!」
と杉三の言う通り、水穂はうっすらと目を開けた。
「おい、バカ!こっち見ろ!わかるか!」
水穂は静かに、杉三のほうに目を向ける。
「ごめん。」
「謝って済む問題じゃないよ!しっかりせいよ!」
「持ち直してきましたかね。」
いく先生が、杉三たちに向かって、そういいなおすと、全員、やっとよかったという
顔をして、大きなため息をついた。
「それでは、もう持ち直したんだから、みな、講義に戻るように。」
いく先生は、そんなことをいったが、誰も講義なんか受ける気にはならなかった。其れよりも、水穂さんのことが心配で、仕方なかったのだろう。
とりあえず、良かった、、、。
その後、食事のため、信徒たちは、食堂へ行ってしまったが、杉三は、いつまでもそこにいた。カッツもハチも、心配になってその場に残った。
「本当によかった。たいへんなことになるところでしたね。まあ後は、彼の生命力に感謝という事になりますが、其れにしても本当によかった。」
ハチは、同じく大きなため息をつく。
「まあ、今回は、いく先生の処置が早かったから。」
カッツが、そういうと、
「いや、カッツさん、いく先生の処置ではありません。杉三さんが呼びかけてくれなかったら、間違いなくだめだったでしょうから。」
ハチはあらためて訂正した。たしかに杉ちゃんのいう事のほうが、正しかったのかもしれなかった。
「一体何をいうのです?いく先生がああしてくれたから、水穂さんは助かったのではありませんか。」
カッツがあらためてそういうと、
「いいえ、違います。いくら医療がどうのこうのと言っても、最終的には、本人の意思と、周りの声掛けでなりたつものです。」
ハチは、静かに言った。
そのことば、なんだか聞き覚えがある。
あれ、誰の言葉だったんだろう。
「ハチさんっておっしゃってましたよね。」
思わずそれが出てしまうカッツ。
「そうですが。」
と、ハチの顔をまじまじと見つめると、何か見覚えのある顔だ。でもなぜか思い出せない。
「それでは、もうこれで大丈夫だと思いますので、ひとまず撤退しましょうかね。」
いく先生は、聴診器をもって、部屋を出て行った。
後には、水穂と杉ちゃんがひさびさに再会できてうれしいと、言葉を交わしている。
「あなた、長くしゃべっていたいのは分かりますが、ちょっと前まで、意識がなかったのですから、もうそこまでにしてください。水穂さんに負担がかかりすぎます。」
カッツはそれが心配で、二人を制止しようとするが、二人はしゃべったままだった。
「ほんとに、もうやめて下さいよ。水穂さんがかわいそうでしょう?」
「いや。そんなことありません。」
水穂は静かに言った。
「かつ。」
不意に、誰か知っている人物の声がする。
「かつ。」
そこにいるのは、、、。
「兄ちゃん!」
カッツは、あらためてこの人物が誰なのか、わかったような気がした。
「そか。それでやっとわかってくれたんだねえ。」
杉三は、二人の素性がわかった様な気がして、にこやかに笑った。
「兄ちゃん、どうしてわざわざこっちまできたの。まるで、飛んで火にいる夏の虫のような。」
カッツは、そう尋ねると、
「お前ほど、単純な頭だじゃないよ。だから、お前を、取り戻すために、一見悪い奴にみせかけて、洗脳されないように、気を付けながら、慎重にこっちでやっていたんだ。」
ハチはにこやかに言った。
「どうだ。兄ちゃんも、頭の悪い奴と言われていたけれど、そうでもないだろう。どうやって、侵入しようか、ずっと頭をひねって考えていたんだぜ。」
「あの、ハチさん、ここは一体どういう組織なんでしょう。」
水穂は、ハチに聞いた。
「ああ、もう外の世界ではうわさになっています。誰か、精神的に弱い人を連れ去って、役に立たないと、すべて処分してしまおう。という魂胆だと思います。多分、働かざる者食うべからずを大幅に強調してるんだと思うのですが。」
「そうですか、、、。そんな危ない所に僕らは来たんですか。」
「水穂さん、元に戻ってほんとによかった。」
杉三は、ほっとした顔でいった。
「でもどうして、水穂さんだけはみんな生かしておこうとするんだろう?」
杉三はどうしてもそこが不安だった。
「多分ですね。いい顔していますから、宣伝媒体として使いたいと思うんじゃないでしょうか。」
ハチは、自身の推量としてそういったが、
「なるほど、プロパガンダにしようという訳ね。」
杉三はすぐに結論を出してしまった。
「じゃあ、僕らは、どうやって、脱出したらいいだろう?」
「そうですね。僕もそれを考えてこっちに来たんですが。今のところ、何も思いつかないのです。」
ハチは、そう答えるしかできないのだった。
「何とかしてくれよ。脱出できる方法を考えねば。それでは、みんな、本当に洗脳されて、ひどいことを平気でするようになってしまうぞ。」
「そうですけどね。杉三さん。もう、僕らは洗脳されてしまって、みな多分、、、外へ出るのはむずかしいんじゃないかなあ。外の世界から、誰かが、解放を求めてもうちょっとやってくればいいのだけど。多分、遠藤千沙総大将が、利用者の家族にあれだけ大げさに宣伝している以上、ここでこんなことが行われていることは信じないイでしょう。みんな、疫病神みたいな子供を収容してくれて、本当にいい組織だと思っていると思いますよ。それが、笛吹会のやっている一番の洗脳じゃないかと思うんじゃないかと思うんです。」
ハチは、そんなことを言った。確かに、こうなってしまうと本人もつらいが、最もつらいのは、家族の人たちかもしれない。そういう人たちを支えていく機関はいまのところ、どこにもない。
「それでは、僕らは手も足も出ないってことか。」
杉三は、あーあとため息をついた。
「でも、なんとかして、僕らは脱出しなければなりません。こんなところ、いつまでもいたら、僕らまで頭がおかしくなってしまいます。」
それでは、いけないのだ。でも、もう世論が許さないだろう。
もしかしたら、本当に、こういう人間はどこかへ閉じ込めておくしか、方法は無いんだろうか。
「それではいけないよ。本当は、どんな奴でもおんなじところで暮らしていくというのが社会だろ。」
「でも、それは、いけないことになっているんでしょうか。僕も、カッツも、水穂さんも、挙句の果てには杉三さんまで、こういうところに、閉じ込められてしまうのが、社会というものなんでしょうかね。」
それが本当に社会なら、僕らはとっくにだめになっているんだろうなと思いながら、杉三も、ハチも、大きくため息をついた。
「でも、なんとかしてでなくちゃ。やっぱり僕たちは、外へでて、いろんな人に交じって暮らさなきゃいけないんだ。だって、そういう人もいないと社会とはいえないからな。やっぱりできるやつだけの世界だと、必ずどこかでおかしくなっていくんだよ。」
杉三はもう一回そういうことを言った。
「でも、もう無理じゃないですかね。遠藤千沙総大将が、あれだけお前たちはだめだと訴え続けている以上だめですよ。」
ハチは、とりあえずの現状を言ってみた。それは、誰でも、確信して言えることだった。どうしたらいいのだろう。杉三たちは、すっかり希望をなくしてしまった。
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