逃げた英雄(10)

 六年の歳月が流れた。

 四年前にアーネストとフェニシティの間に生まれた男の子はリューンと名付けられ、そしてディドとペギーの間に一年遅れで生まれた女の子はフィーナと名付けられている。

 ただし、表向きは二人ともがディドの子供ということになっている。リューンはバレル姓を名乗り、フィーナの兄として暮らしていた。フィーナに至っては彼を実の兄だと信じ込んでいる。


 三歳になるリューンは普通にアーネストたちを両親として過ごしているが、一歩外に出ればディドの子供として振る舞っている。最初は不思議がったものだが今は納得したようだ。

 まだ足元の怪しいフィーナと手を繋いで歩く姿は普通の兄妹にしか見えない。近所の者もバレル家に住み着いている変わった夫婦の存在には気付いているものの、複雑な事情が察せられて踏み込んでは来ないようだった。


「出張指導ですかい?」

 アーネストの言葉にディドは首をひねる。

「招かれたんだ。報酬もそれなりの額だし、そろそろほとぼりも冷めた頃合いだろう。多少は活動範囲を広げても大丈夫だと思う。先方は私をアレッサンドロ・ビューレイという画家としか思っていない」

「アレスがそう決めたんなら仕方ないですけどねぇ」


 アーネストはアレッサンドロとして画壇にデビューしていた。それなりに人気を博しており、生活できるくらいの報酬を得ている。

 生活費まで全てバレル家の世話になるのは心苦しくて、多少は報酬を得るために始めた職業なのだろうが、熱心なファンも付いているようでバレル家の財政はかなり楽になっていた。

 そのうちの一人の要望で、絵の出張指導を頼まれたようだ。依頼人も国内、王都ウルリッカの住人らしく、ゼムナとの関係を疑う部分が無い。


「君に恩返しがしたい」

「気を回さんでくださいや」

 ディドは遠慮するが彼の気持ちは嬉しく感じる。

「セトの言った通り、君の焼くパンは芸術品だ。相応に人気があるのに、儲けが上がらないのは私たちが負担になっているからだろう。そんなもったいない話はない。この出張で儲かったら新しく大きな店を構えようじゃないか」

「欲張っても良いことにはなりませんぜ」

「もっと多くの客に喜んでほしい。そう思うのは我儘なのかな?」


 二人は共通の友人を話題に上らせても笑顔で話せるようになっていた。


   ◇      ◇      ◇


 一年後、リューンは荒れる気持ちを抑え切れないでいた。いつまで待っても両親が帰ってこないのだ。最初は心配だけが先に立っていたが、いつしか捨てられたのではないかと思うようになってしまう。


「そこに座りなさい」

 暴れて部屋を荒らすのを見かねたのかディドに呼ばれた。

「部屋の物を壊すのはやめるんだ。フィーナも怯えていると分かっているんだろう?」

「でもっ! 帰ってこないじゃんかよー! 俺は捨てられたんだ! 邪魔だったんだ! 親父もお袋も二人で暮らしたかったんだ! だから俺にはビューレイを名乗らせてくれなかったんだ!」

「絶対にそんなことはない。ご両親はちゃんとお前のことを愛していた。嘘は言っていないぞ」


 簡単に信じられるものではない。リューンは涙の滲む目でディドを睨み返す。すると彼は一つ溜息をついてから切り出した。


「本当の事を話そう。いいか? これから話すことは誰にも言ってはならないぞ。お前が大人になって、しかるべき時だと思うまでは内緒にしておくんだ」

「え、なんで?」

「いいからまず聞きなさい」


 ディドはリューンの両親の正体を教えてくれた。どんな経緯があって今の暮らしをしていたか。そして、彼自身が伝説の英雄の血を受け継ぐ子供だということも。彼の本当の名前がリューン・ライナックだということも。


 そして、ずっと隠されていた一年前のクラフター事故のニュース記事を見せられた。被害者名簿の中には確かにアレッサンドロ・ビューレイとニース・ビューレイの名前が並んでいる。


「…………」

 驚きのあまり言葉が出ない。リューンとてライナックの伝説くらいは知っている。

「お前がこれからどうするのかは分からない。いつまでも両親の振りをして縛り付けるつもりも無い。恩に感じろとも言わない。だが、大人になるまではオレのところにいなさい。分かったな?」

「はい……」


 崩れ落ちたリューンは悔しさで何度も何度も床に拳を打ち付ける。流れ落ちた涙が水溜まりを作り、それが飛沫となって散るようになっても止めなかった。

 いつか両親が死ななくてはならなかった理由に辿り着く決意をする。四歳の少年にもクラフター事故などあり得ないというのは常識だからだ。


「お願いします」

 リューンはそのまま床に頭をこすり付けて懇願する。

「お金を稼ぐのは無理です。でも、フィーナの面倒はちゃんと見ますから一人前になるまで居させてください」

「馬鹿なこと言うな。お前は今までも、そんでこれからもオレの息子だ。何を遠慮する必要があるもんか」

「そうよ。そんなふうに言われちゃったらお母さん、悲しいな」

 いつの間にか横にいたペギーが優しく肩を抱く。

「ごめん……。俺、ちゃんと親孝行するから。本当の親父とお袋の分まで親孝行するから待っててくれよ」

「期待しちゃおっかな」

 立たせてもらった少年は、ペギーに縋り付いて号泣する。


 少しふくよかになった母の身体は温かかった。

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