エルシ・フェトレル(2)

「うーん、この香ばしくも甘い香り。微かに香る、森で落ち葉を踏んで歩いた時のような発酵臭。奥深く、それでいて……」

 青年は鼻をくんくんと鳴らす。

「って、ブリッジここはいつからカフェになったんだ!」

 ダイナ・デズンは盛大に突っ込んだ。


 艦長と女史、観測員ウォッチが常駐四人に操舵員が二人。火器管制員も待機組が最低二人。通信員とオペレーター待機は一人。必ずと言っていいほどに艦橋ブリッジに詰めている人数といえばそのくらいになる。少人数だが、紛う事なく500m近い戦艦の中枢。

 なのに、彼に視線を返す皆が皆、口をもぐもぐとさせ頬を綻ばせている。呆れても仕方ない状況といえよう。


「お前の焼いたパンを食うのも何度目かになるが、相変わらず見事な腕前だな」

 少年と一緒に居ることの多いヴェートでさえ感嘆する。

「もっと他にも褒めるとこあるだろうがよー?」

「確かに優れた部分は多々ある。だがな、あまりにも雑だ。それなのにこんな繊細な味わいのパンを作れるのが不思議でならん」

「うるせえ、このでかぶつ! 努力の賜物だっつーの! 手前ぇだって人のこと言えんのか? その羨ましいくらいパワーもスタミナもある筋肉だって、エルシっていう頭脳がなきゃ宝の持ち腐れだろうがよ!」

「俺は女史の実行力であれば構わんのだ。聞き分けの悪い誰かさんとは違う」


 別に言い争っているわけではない。二人してゲラゲラ笑いながら言い合っているのだから冗談なのだろう。何一つ互いをけなしていないのだから、むしろ気が合っているというほうが正しいのかもしれない。

 それにしても……。


「がさつすぎる。教授プロフェッサーでなくとも閉口するぞ」

 苦言の一つも呈したくなる。

「こいつの口にもパンを放り込んでやれ、フィーナ。そうしたら小姑みてえなことは言わなくなんだろ」

「小姑……」


 ずいぶんな言われようだ。組織の要だったガイナス・エストバンを喪って、動揺が広がったり分解しないよう走り回っているのはダイナである。それなのに、艦橋の緩んだ空気を引き締めようとしただけで非難されては敵わない。


「なー、うるせえよなー?」

「…………」

 リューンは腹の上で丸くなっているペコの頭を撫でながら言う。その背ではペスが大の字で眠っているのだから緩み切っているとしか思えない。


 XFiゼフィ総帥の死は速やかに報じられていた。隠し立てしても仕方がないし、先の三都市同時解放作戦で少なくない民間人犠牲者を出してしまった彼への批判が高まる前に事実を告げるほうが良いと判断された。

 学者肌で机上理論を好むガイナスが簡単に心折れるのを不審がる声は少なくない。だが、厳重にロックされた私室内での自決であったために、他殺を疑うのは状況的に無理がある。

 そこまで重圧を感じながら努力していたのだと理解され、悼まれるままに送られることとなった。


「はぁ……」

 溜息しか出ない。

「危機感を覚えているのは俺だけなのか?」

「だろうな。焦ってんのはあんただけだ」

「しかし、誰かが組織を取り纏めなくてはいけないだろう? 我らは正規軍ではないが、或る程度の規範は必要じゃないか?」

 教授プロフェッサーが居た頃のピリリとした空気は欠片も無くなっている。

「オルテシオ艦長、何度もお願いしていますが総帥に就任していただけないのですか?」

「老いぼれに無理を言うものではないぞ? 儂にできるのは志ある若者を見守り、時に助言を与えるくらいのもんじゃ」

「駄目ですか……」


 元から軍人で、確かな経験と広い見識を持つ御仁なのに、何度頼んでも良い返事がもらえない。ダイナももう諦めるしかないかと感じる。


「では、フェトレル女史。実力と信頼度では敵う者はおりません。実質的ナンバー2だった貴女にお願いいたします」

 標的を変える。

「遠慮するわ」

「そうおっしゃらず」

「私は技術顧問の立場。組織のサポートはしているけれど、解放の志を問われれば怪しいものよ。そんな女を組織の頂点には置けないでしょう?」

 そう言われると痛い。確かに彼女はゼフォーン解放の必要性を説くような発言を一切しない。

「あなただって私の出自さえ知らないんじゃなくて?」

「真剣に取り組んでいるのは疑いようもないんですけど」

「それもどうかしら?」


 特に最近はリューンに入れ込んでいる以外の部分が見えてこない。自分の持つ技術を存分に活かしてくれる少年に知的好奇心を傾けているかのように見える。そういう意味では彼女もどこまでも技術屋なのだろう。


「となれば、今の知名度でいけばリューン、君か?」

 片眉を跳ね上げて見せてくる。

「馬鹿なことを抜かすんじゃねえ」

「それほど的外れじゃないだろう?」

「そりゃ、前みてえにあからさまに俺をアルミナ人だって言う奴は居なくなったぜ。でも、忘れてるわけじゃねえだろう」

 失念していた。彼はアルミナ出身者だ。

「やはり難しいか」

「力は貸してやる。だが、名は貸せねえ」

 少年はロボット犬を抱き上げつつ向き直る。

「分かってねえのか? 誰が一番頭を悩ませて、誰が一番頑張っているのか、みんな分かってんぜ。あんたがやれ」

「順当じゃろうのぅ」

「誰もが納得する結論ね」


 集中する視線におののく。

 エースとして名を馳せたとはいえ、今は剣王の名の前で霞みつつある。彼のような、誰もがつい目を向けてしまうようなカリスマも無い。

 そもそも二十七歳の若輩者。目立ったところも無くなれば組織を纏めるのなど無理だと除外していた。


「俺が……?」

 根拠に心当たりがない。

「アームドスキン隊を統べてんのはあんただろ? 最前線で命懸けてる連中があんたの言うことなら聞くんだ。他に何が要る」

「不安に思わんでも良いぞ。儂も皆も盛り立てる。ガイナスを模倣せずとも、お前さんの道を行けばいい」


 予想外の結論に導かれ、ダイナは呆然としたままで総帥の座へと登り詰めた。

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