姉をほどく

桜枝 巧

姉をほどく

 What are little girls made of?

 What are little girls made of?

 Sugar and spice

 And all that's nice,

 That's what little girls are made of.

             ――「マザーグース」より


「マザーグースの一節に、こういう文句があったけれど――あたしはどうやら、違ったみたいだねえ」

 

 まるで他人事のように、姉さんは笑ってそう言った。

 腰まであった髪は肩までの長さになり、彼女がからころとした声を発する度、上品に揺れた。

 彼女が望んだとおり、病室の窓からは海が見えていた。春、という概念をそのまま移してきたような、柔らかな色合いの壁紙は、彼女のヘーゼルナッツ色の瞳によく似合っている。

 僕は花瓶に活けられたガーベラの位置を直しながら、呆れたように言う。

「笑い事じゃないんだよ、姉さん。お医者様でさえ何が失われているのかわからないなんて、絶対におかしいよ。他の病気じゃないかとさえ、言われているんだから」

「こんな奇病が、他にあるのかい?」

「……それは、わからないけれど」

 こんな、の所で、彼女が上げた右腕に、僕は口をつぐんだ。

 否、それは、元々右腕があるはずだった場所、だ。今はパジャマの裾がだらりと垂れ下がっているだけ。

 右腕だけじゃない。左腕は肩から下がもう存在しないし、足は左の太ももが残っているのみとなった。


 身体多発性転変分離症候群。


 解脱病、とも揶揄される病に、姉は侵されている。

 人間の体が、少しずつ他の物質に変化し、糸が解けるように分解していく病だ。

 そして多くの場合、身体はその人物を象徴するものへと変換される。

 砂糖、塩、野球のボール、布、時には鳩や猫といった生き物まで。

 とある男児は、動くたびにベッドから蟻が這い出てきたという。病室中が黒く小さな虫で覆われ、両親はその全てを瓶に移し、持ち帰った。


 しかし姉には、何もなかった。


 夕方、家から帰ると不意に右足の指がすべて欠けていたという。痛みはなく、断面は膜で覆われたかのように固まっていた。

 すぐに姉は病院へ搬送された。診断結果はすぐに出た。問題は、彼女の身体からは、何も生まれ出でなかったことだった。

 様々な実験、もとい検査がなされたが、彼女の断面からは酸素のひとつも出てこないのだった。

 発症して三か月。今年の冬には、彼女はすっかりなくなるだろう、と担当医は言った。

 姉は笑って、その事実を受け入れた。

『まあ、何もかも、例えばあんたの頭ん中からあたしが綺麗さっぱり消えるってわけじゃあないんだ。なら、問題はなかろうよ』

 唇から出来たような、おしゃべりな彼女は飄々とそんなことを言ってのけた。

 来客用の椅子に座りなおした僕を見て、姉はやれやれ、と首を横に振る。

「お前も心配性だねえ。まだあたしはこんだけ残ってるっつーの。それに、ほら、体が欠けようが、何も変わっちゃいないだろ?」

 大学を卒業して発症するまで、姉はニートだった。

 部屋に何日も籠り出てこないこともあったし、かと思えばいきなり(僕を大学仲間との約束を断らせてでも!)散歩に連れ出した。

 彼女が自身の部屋で何をしているのかは、僕以外、誰も知らなかった。

 だから姉は、僕と二人だけの病室で、こんなことを言ったのだろう。


「ねえ、あんた、あたしが何に変わっているか、本当はわかっているんでしょ?」

 なんて。


「……何がしたいの?」

 僕は慎重に尋ねた。

 姉の瞳が、僕を散歩に連れ出したときと同じような輝き方をしていたからだ。

 いつだったか、姉は『あたしはお前にリードの先を渡したいのよ。いつでもこの、ぬるま湯みたいな世界に戻ってくることができるように』なんて言っていたが、だとすれば、僕は飼い主失格に違いなかった。

 首輪を嵌められているのは、僕も同じだった。僕は彼女の従順な犬であり、彼女は僕を引っ張りまわす野犬だった。

 姉はにやり、と笑うと、饒舌に語りだした。

「あたしはねえ、自分から、例えば蛙だの、砂糖だの、そういうものが出てこなくって良かった、と思っているんだよ。だって、面倒じゃないか、あたしがあたしを認識しなくなったって、あたしというものが別の形で存在することになる、だなんて。死体が残るのも嫌だったから、丁度良かったんだ」

「丁度良かった、なんて、言わないでよ」

 僕はそこを否定するので精いっぱいだった。

 姉のパジャマの袖をつかむと、彼女は「わかっているじゃないか」とでも言わんばかりに楽しそうに笑った。

 僕は唇を噛んで、何もない袖をさらに強く握りしめた。今度ばかりは、彼女が「ぬるま湯みたいな世界」に戻ってくることはないのだ。

「わかっているさ、あたしの妄想、ただのヒロインぶりたい女の破滅行動だっつーのは」

「…………」

「だから、馬鹿な女の弟になっちまったことをせいぜい恨んでくれ。あたしのワトスンになってくれ。

……あたしの身体ことばを、文字ものがたりに起こしてくれ」


 姉は物書きだった。

 決してプロではない。せいぜい専用のウェブサイトに投稿して、評価をひとつふたつ貰えるかどうかの、底辺を這いずるような物書きだった。

 描写は多いが、ストーリーの展開がすぐに読めてしまう。伏線を張るのが下手くそで、その癖(誰にでも気づいてしまうような)どんでん返しを起こすのを、彼女は好んでいた。


 僕は最初からわかっていたのだ。

 姉の身体は、彼女が文字を書く度、書くための手が失われてからはその声を発する度、言葉へと変換されていったのだ、と。

 僕は大きな音を立てて、椅子から立ち上がった。何もかも、わかっていた展開だった。ありふれた、彼女らしい結末だと言えた。


 僕は彼女の袖の先を引っ張ってみたり、くしゃくしゃに丸めたりした。振動が伝わったのか、姉はくすぐったそうに身をよじった。

 結局、僕は何も言えずにまた元の椅子に座った。

 乾いた唇を開く。最早、自分は共犯者以外の何物でもなかった。

「いつからが良い? 今日はPCを持ってきていないから――」

「紙とペンならそこの鞄に入っている」

 僕は黙って、ベッドのそばにあった手提げ鞄を手に取った。ずっしりとした重みをもつその中には、大量の紙束とボールペンが入っていた。

 思わずベッドを睨みつけた僕に、姉は叱られた子どものような、しかしどこか安心したような笑みを浮かべた。初めて見る表情だった。


 自身のワトスンが、物語の聞き手が準備を終えるのを待ってから、姉は語り始める。

 砂糖でも、スパイスでも出来ていない、何もしなければ目に見えることのないそれで構成された彼女は、楽しそうに己をほどき始める。

 僕は、姉を書き連ねていく。

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