第2話 あと少し
三階の教室を出た廊下のほぼ中央にある、女子トイレのドアをガァンと開けて数人が入ってきた。3人だ。
いるんだろー。笑い声とも怒鳴り声にも似た声に、個室にいた沙耶の身体は硬直した。
まただ。
さっきの恐ろしい時間が再び来たのだ。
辞めて。辞めて。沙耶は心で張り裂けそうな悲鳴を叫んだ。
でも違う。1人だ。入ってきたのは1人だ。
しかも恐ろしく静かだ。
これまで以上に酷い事が起こるのか。
沙耶は個室の冷たいタイルの壁側に背中と両手ををぴたりとつけた。息をのむ。身体が固まる。何かに備えて。
しかし、扉の向こうも頑なに沈黙だった。
数秒なのか、数十秒なのか、静かすぎる。
誰かいるのに。
攻撃してくるはずなのに。
高校一年の頃、沙耶はもともと目立たない静かな方だったが、話しをしたり一緒に帰るクラスの友達が2人はいた。しかし2年になり、その2人とは別々のクラスになり、夏休み前頃から沙耶はクラスの数人からいじめられ始めた。
最初はからかわれたりする程度だったが、あっという間にいじめはエスカレートしていった、お弁当をグループごとに机をつけて食べるのだが、グループの女子から、アイツと同じ机でご飯とかマジ無理なんですけどー! あ、それ私に死ねってこと?
いや、アンタが死んでよ(笑)
笑い声はどんどん大きく、そして日に日に増えていった。
後ろから通りすがりに机や座っている椅子を蹴られた。机を蹴られて落ちたシャーペンを拾おうとして、手を伸ばした途端、そのボールペンを更に足で蹴られ、床に手をついたような不恰好な沙耶を見て、また笑い声が起こった。どんくさいよねー。マジ、コイツ要らないわー。
休み時間になると、沙耶は何人かの男女から毎回のようにいじめを受けた。
いじめをするもの。それを見て笑うもの。そして、見ないように目を背けて知らん顔をしているもの。教室中が沙耶を嫌って
存在さえ消えてくれと言っているようだった。助けてくれるものは誰もいなかった。
先生に言っても無駄だ。親に言っても無駄だ。
沙耶も他の生徒も分かりきっていた。だからやるのだ。
沙耶はいたたまれず、そのうちに休み時間になると女子トイレに逃げるように行くようになった。
しかし、そんなことで簡単にいじめは終わらなかった。むしろ、閉ざされた周りから見えない空間が更にいじめを増長した。
沙耶の入っている個室のドアを何度も蹴り、上からペットボトルの水や、ゴミ箱のゴミを投げ入れられた時もあった。
そんなとこに隠れてんじゃねーよ。クソばっかしてんじゃねーよ笑い声と怒号、沙耶は怯えて身を硬直させ、震え上がった。怒りなどとうに越して、涙と絶望感と痛みと恐怖にも似た、残酷な時間が過ぎるのをただただじっと待つしか、なすすべが なかった。
沙耶にはいじめという3文字を心底憎むしか他になかった。
もうろうとして自分が何なのかもわからなくなる時がある。他人が言うように、本当に自分が居なくなれたら、自分の存在を消し去りたいとも何度も願った。生き地獄ってこういうのをいうのかな。他人事のようにさえ、思った。沙耶は惨めで孤独だった。
テレビでイジメで自殺する人の気持ちが嫌というほどわかったが、どうしても、この上なく恐ろしい、いじめ以上に、死ぬのはもっと更に怖かった。
コンコン。小さなノックだった。ためらいがちに後悔するかのようなノックだった。
沙耶はそのまま身構えた。
その後、再び沈黙が続く。沙耶はさらに息を殺した。
それからほんの少しして、
消え入るような 大丈夫?と女子の声がした。その声は沙耶の心と同じように震えて怯えているようにも聞こえた。
大丈夫なわけないよね。
何も言わなくていいから。
とても小さな怯えた声なのが沙耶にでさえ伝わってきた。言葉をやっと絞り出しているような声は間が途切れながらも叫んでいるようにも聞こえた。沙耶は思わず壁から身を少し離しトイレのドアの向こうの相手にほんの少し近づいた。
今、なんて言ったの?大丈夫って言ってくれた?
沙耶は心で叫んだが、口の中がカラカラで乾き過ぎて言葉らしいものは何も出てこなかった。
そうだ、学校でなんて、ずっと声なんて出していなかった。
一緒だからわかるよ。
そう、私もね 前はやられてたの。
耐えて。
それしかないの。でもきっといつかはやられなくなるから。いつまでかなんて分からないけど、それまで耐えて。
私さ、分かるから。
沙耶はぎゅっと唇を噛んだ。下を向いて唇を噛み、両手を強く握りしめた。胸が締め付けられる。凍りついた氷の塊のような沙耶の中の何かが、薄っすら溶けていった。下を向いていた沙耶は、自分の大粒の涙がトイレの床のタイルに真下に落ちていくのが見えた。
沙耶は自分の流す涙が熱いのを、久しぶりに感じた気がした。
絞り出そうとしても相変わらず言葉は何も出てこない。でも沙耶のすすり泣きを押し殺した声はドアの向こう側にも伝わったようだ。
ドアの向こうから安堵にも似た優しささえもが伝わってくるようだった。
そう、同じなんだ。あなたも私と同じだったんだ。そう沙耶が悟ったのを感じたのか、ドア越しの相手は、うつむきながらそっとトイレから出て行った。
嬉しかった。身体が震えた。熱く震えた。
分かるから、と言ってくれた。そしてやがていつかは終わるんだ、終わりがくるんだ、そう思うと、更に涙が溢れて込み上げてきた。
耐えて。彼女も耐えたんだ。もう少しなのかもしれない。終わりのない地獄のような日々の繰り返しは、エンドレスではなく、そうではなくていつか終わる。彼女はそう言ってくれた。
沙耶には一筋の光が見えた気がした。
いつか終わるんだ。耐えて頑張れば。
それに分かってくれてる人がいる。
私にはいる。沙耶は目をつぶって息を吐いた。
それからどのくらいの時間が経ったのかわからない。
さあ、行こう。そっとトイレの鍵を開けて、おずおずと沙耶は個室を出た。鏡に映った自分をじっと見つめる。もっと熱いものが込み上げてきた。こんなふうに鏡を見たのは久しぶりだった。
沙耶は少しだけ目線を上げて女子トイレのドアを開けて、出ていった。
個室にまつわるものがたり オレの令和 @miokazu
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