第二章―4
夜、秋山は部屋でパソコンと睨み合いをしながら次の手術のプランを練っていた。だが気が入らない。一息つき、窓から外を眺める。雲ひとつない夜空だった。
「こんばんは」
またか。秋山は驚きもせず振り返る。シンがそこにいた。相変わらず気配がない。もう一人の青年の姿は見えなかった。彼一人のようだ。
「治療は受けないと言ったはずだ」
シンは笑う。秋山は自分より二周りほども下のこの少年と一緒にいると、全てを見透かされている気分にさせられた。心の声というものが本当に聞こえているのなら、実際見透かしているのだろう。
「少しだけ、話をさせてください。少しだけ」
秋山は顔を顰めながら、椅子を差し出した。礼を述べて、シンはそれに座る。
「僕はカイ族の末裔です。カイ族とは、自然の力を借り、生命をあるべき姿へと戻すことを生業とした一族です。心の声を聞き、助けを求める人の元へとやっていき、治療します」
シンはそして、ソロンのことを話した。秋山の心は今、ソロンというものに支配されているらしい。
「なんとなくわかった」
「よかったです」
シンは、治療を強要しない。秋山はコーヒーを一口飲んだ。冷えていて、まずい。
「俺の方から話すことは何もない。お前は全部、わかってるんだろ?」
シンは肯定も否定もしなかった。部屋の明かりは点いているのに、シンの周りには影があった。そう、彼の周りには光も影もあるように、いつも感じる。親に庇護され、能天気に生きている同年代と彼とでは、そこが違った。
「なぜ僕が一人なのかと思いましたよね。実は、翔さんは伸幸さんと二人で話しています。僕も最初はそちらに加わっていたんですけど、途中で抜け出してきました。あの二人、似ているみたいで意気投合しちゃって。僕なんかそっちのけで」
伸幸とは佐々木のことだ。シンが無邪気に笑った。それは、少年のそれと変わりなかった。
「佐々木も、心の病ってやつにかかってるのか」
秋山は、自分のしたことを思い浮かべる。取り返せない過ちを悔やむ。だがシンは首を振った。
「いいえ。少し疲れているようだったので、負のソロンを少し、取り除いただけです。伸幸さんは、強い方ですよ」
暗に俺を弱いと言っているのか。秋山は鼻で笑った。間違っていない。そう思った。
「伸幸さんの夢は、トップに立って、誠一さんの技術を生かすことだそうです。素敵ですね」
「馬鹿な」
秋山は言葉を詰まらせた。シンが嘘を言っていないことはわかっていた。佐々木は、眩しいほど良い奴だ。例え極悪人でも、あいつなら心から許すのだろう。
「あいつは、馬鹿なんだよ」
秋山が友人と呼べる人間は二人しかいない。佐々木と、浩子だ。佐々木とは高校からずっと一緒で、仲が良かった。誰にでも分け隔てなく接する心優しい佐々木だからこそ、寡黙で気難しい秋山の傍にいれた。秋山も、そんな佐々木を受け入れることができた。そして大学に入ってからはその輪の中心に、いつも浩子がいた。
浩子と佐々木は、大学を卒業してすぐに結婚した。秋山は心から二人を祝福した。二人の幸せそうな姿を見て、幸せを感じた。
だが、それから数年の後、浩子は病に侵される。肺の病だった。どの病院からも匙を投げられ、その頃肺移植の経験を積んでいた秋山の元へと彼女はやってきた。
「秋山くんなら、安心だね」
浩子の言葉に、秋山は奮い立った。何としてでも助けようと決めた。幸い、移植すれば完治する可能性は極めて高い症例だった。
しかし、浩子は天涯孤独の身だった。移植するためにはドナーが必要だったが、成功する可能性の高い、血縁関係であり健康な肺を持っている人間が、傍にいなかった。そのため、肺を提供してくれるドナーを待つしかなかった。
待てども待てども、ドナーは現れない。秋山は焦った。移植すればすぐに治る病気なのに、浩子は苦しみ続けている。その苦しみを、早く取り除いてやりたかった。なにより、残された時間はあとわずかになっていた。
そして、奇跡が起きた。ドナー提供者が現れたのだ。秋山はすぐに手術の準備に取り掛かった。浩子にはもう、手術を耐えるだけの体力が残されていなかったのだ。
手術本番。ドナーの肺を取り出し、続いて浩子の肺を取り出した。そこまでは何の問題もなく順調だった。そして、ドナーの肺を浩子の中へと移植する。丁寧に、しかし迅速に、秋山は縫合した。
移植が完了し、空気を送り込み、血流を再開させる。それで正常に機能すれば手術は成功だ。成功を確信し、秋山は空気を送り込んだ。だが、移植された肺が、うまく機能しない。秋山は焦る。ミスはなかった。肺は正常に働くはずだった。
秋山は考えつくあらゆる手を施した。しかしそのまま、肺が十分な機能を果たすことはなかった。誰もが秋山のミスではなく、運が悪かったのだと励まし慰めてくれた。だが、残された佐々木の無念を思うと、簡単には割り切れなかった。
「秋山くんなら、安心だね」
浩子の言葉が、今も耳に残って離れない。自分が殺したのだという罪悪感が、心を縛る。
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