第一章
風が吹く。気温は高かったが、風が優しくそよいでくれるので、シンの周りは涼しかった。
“行かないで”
金木犀が静かに囁く。シンは立ち止り、金木犀を見上げた。
「約束は守りますよ。五分間はここを動かない」
その約束の時間まで、あと一分をきった。
“もう、解放されていいはずだよ”
金木犀が風に揺れる。風の走った道で、草がざわめく。
赤い光が、シンを包む。
憎むべき、赤。
“君は、君のために生きるべきだよ”
「五分、経ったよ」
翔は出てこない。それを、シンはわかっていた。喪失の水を飲めば記憶を失わない者はいない。カイ族も例外ではない。ましてやそれ以外の人間に、抗う術はない。
「僕は、僕の意志で生きてるよ」
声に心がない。それでもシンはそう言った。
そう言わないと、いけなかった。
同じような言葉を過去に言われたことを思い出し、苦笑する。
シンは向きを変え、旅を続けるべく一歩を踏み出した。到着地へ向かう一歩だ。恐れはある。だがそれでも向かわねばならない。
「ちょっと待てよ。まだ三分ぐらいしか経ってねえだろ」
シンは驚き、振り返る。そこには、記憶を失ったはずの翔がいた。
「何て顔してんだよ。忘れねえって、言っただろ」
「何で。飲んでいなかったんですか?」
「ばかやろ、ちゃんと飲んだよ。見てただろ」
翔はくすんだ茶色の大きなリュックサックを背負い、走ってきたためか、額に汗が滲んでいる。シンの記憶を失った様子はない。それがシンには俄かに信じられなかった。
「お前さ、五分って短すぎ。夕貴はお前のことすっかり忘れてるから、家出る言い訳するのに時間かかるし。準備も何もしてないし。いや、俺頑張った」
一人で誇らしげにしている翔の、間の抜けた表情を見て、シンは可笑しくなり、笑った。
「なんだよ。人の顔見て笑うなよ」
「だって、笑わずにいられないですよ」
シンは笑い続ける。まあいいかと、翔も笑う。
金木犀が、並んだ二人の背中を押すように、揺れた。
二人の旅が、今、始まる。
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