第一章

 あまりに淡々と言うので、最初、翔はすんなり納得してしまった。そうか、記憶が報酬か。納得しかけて、立ち止まる。


「何言ってんだよ。お前と出会ったことも、全部忘れろって言うのかよ」


「そうです」


「夕貴の心に入って、一緒に治療したこともか」


「翔さんのしたことは治療とは呼べませんが、そうです。全て、です」


「何で」


 声が掠れる。言いたいことはたくさんあったが、うまく言葉にできなかった。動揺を隠せない。


「存在を知った患者がカイ族に寄りかからないよう、カイ族の力を悪用するものが現れないよう、定められた掟です」


「知らねえよ、お前らの掟なんて」


 翔は、自らの半生を思い返した。人にはない能力を持っていたため、常に孤独を感じていた。植物や動物、大気や大地と言葉や心を通わせることができることは喜ぶべきことだったが、同じ人間の中では浮いていた。この能力を、呪ったこともある。なぜ自分だけ。なぜ、自分に。見つからない答えを探し続ける時は続いた。


「お前は、それでいいのかよ」


 シンの孤独を、翔は想った。カイ族に戻れば、家族はいるだろう。友人もいるだろう。だが、治療をし、助けてきた人間の記憶をシンは持ちながら、相手からは忘れられる。それはどれほど悲しいことだろう。想像しきれない。


「お前は全部覚えてるんだろう?」


「掟、ですから」


 シンの表情は変わらない。それでも、その心の奥に揺れる孤独と悲しみが、彼の瞳に映る。


「俺も、お前と一緒に旅する」


 シンの顔に驚きと呆れが浮かぶ。翔は構わず続ける。


「連れてけ、俺を」


 夕貴を見る。夕貴は頷き、行ってこいと目で伝えてくれた。


「無理です。掟を破ることはできませんし、翔さんは僕との約束を破り、患者の命を危険にさらしました。治療に関して、僕はあなたを信頼できません」


 痛いところを突かれ、翔は黙り込む。だがここで引いてはいけないと、棚上げを承知で前へ出る。


「じゃあこの水を飲んで、それでもお前のことを忘れてなかったら、連れてけ」


 喪失の水。シンと関わった全ての記憶を消すための水。だが、翔は決めていた。シンのことを忘れない。誰かが、この少年のことを覚えておかなければならない。翔の中で、想いが覚悟に変わっていく。


 シンは少し考え、頷いた。


「お二人が水を飲んだ後、僕は一人で家を出ます。僕の姿が見えなくなった時、記憶は消えているでしょう。消えるのは僕に関する記憶だけで、その他の記憶は全て残るので心配はいりません」


 シンは翔を見る。


「家を出て、五分だけその場に留まります。その五分の間に翔さんが僕の元へ来たら共に旅をする。来なければ、僕は一人で旅を続けます。それで、いいですね」


「ああ」


 忘れるもんか。忘れるもんか。そう唱えながら、翔と夕貴は喪失の水を飲み干した。普通の水のようだった。特に味もなく、匂いもない。まだ、記憶もある。


「それでは、お元気で」


 さようなら。この別れが永遠の別れであることを確信している風に、シンはその言葉を発した。それを翔は悔しく思う。


 一歩、また一歩、シンが遠ざかっていく。それが引き金となるように、眠気のカーテンが頭の中にかかっていく。


「忘れねえぞ」


 そしてシンの姿は、見えなくなった。

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