第一章

 甘い香りがする。そう思いながら、翔は重い瞼をゆっくりとこじ開けた。


 見慣れた天井が見える。どうやら夕貴の部屋のようだった。上半身を起こす。窓が少し開いていて、そこから風が入ってきて頬をくすぐる。


 夕貴はまだ眠っていた。一緒に目覚めたはずだが、まさかと不安になる。


「夕貴」


 身体を揺さぶる。翔の呼びかけに応えるように、夕貴はゆっくりと眼を開いた。


「翔、ごめんね。ありがとう」


 夕貴は細い手を伸ばし、翔の頭を撫でた。


「お前って、ほんと」


 小さな手から伝わる温もりに、夕貴の笑顔に、翔は安堵した。普段人前では泣かないと決めていた翔だったが、今だけはと、頬を伝う涙をそのままに、夕貴を抱き

しめた。夕貴が弱弱しく抱き返してきたことが、嬉しかった。


「見て」


 窓から、甘い香りが入ってくる。季節外れの金木犀の花が、満開になっていた。風に乗って、黄色い小さな花が、飛んでいく。


「金木犀も、ずっと心配してくれた。小林さんが死んで、自暴自棄になって、つい死にたいって零してしまった時、必死になって止めてくれて、死ぬぐらいだったらって、夢の中で小林さんに会えるように協力してくれたの。それは、一日だけの約束だったんだけど、私、どうしても起きたくなくて、約束を破ったの。でも起きなきゃだめだよって何度も言ってきて、でも起きたくなくて、金木犀のことを忘れようとした。金木犀が自分のせいだって自分を責めてたのも知ってたけど、考えないようにした」


 その思いが、幼い夕貴の姿となって現れたのだろう。眠れと言い、起きろと言う、とはそういう意味だったのだ。


「私、この子のこと知ってる。金木犀が、私を起こすために必死に呼んでたもの」


 夕貴の隣で、シンが横たわっている。まだ目覚めていない。夕貴が目覚めているから、シンも当然目覚めていると思っていた。


 夕貴の胸の上に置いてあった赤い石の首飾りが、不気味に光る。


「ねえ、この子すごく冷たいけど、大丈夫かな」


シンの手に触れた夕貴が心配そうな声を出す。翔も駆け寄り、シンの様子を伺う。血の気が引き、体温は低く、脈拍も弱い。


「おい、シン」


 揺さぶっても、起きない。夕貴が眠りだした時のことを思い返し、寒気が走る。


「シン、起きろよ。頼む、起きてくれ」


 約束を破ったことを、翔は悔いた。結果的に夕貴は目覚めたが、今度はシンが起きなくなってしまった。あの冷たく深い闇が、シンの心を呑み込んでしまったのか。


「シン、ごめん。俺が悪かった」


「本当にそうですよ。大いに反省してください」


 翔が嘆くのを嘲笑うかのように、シンはむくりと目覚めた。翔の目が点になる。


「何だよ、脅かすなよ、馬鹿野郎」


「翔さんのせいで、後始末が大変だったんですよ。もう二度と翔さんと約束は交わしません」


 軽口を叩くシンの姿が、憎らしい以上に嬉しかった。


「シンくん」


 夕貴が、力の入らない身体を起こそうと懸命になっていた。翔はそれに手を貸してやり、上半身を起こした夕貴はシンと正面から向かい合った。


「助けてくれて、ありがとう」


 夕貴が頭を下げる。それをシンは制した。


「目覚めてくださって良かった。お礼は、金木犀に言ってください」


 風が吹く。嬉しそうに、金木犀が揺れた。

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