第一章

 夕貴と小林が笑いながら家の中から出てくる。遠くから、車の走る音が聞こえてくる。これは、あの日の記憶だ。翔は悟った。だが車が来るはずの方向から、現れたのは闇だった。夜より暗く冷たい闇が押し寄せてくる。怖い。それだけを感じた。寒さで身体が震える。


「あれは何だよ、シン」


「負のソロンです。心が動揺した影響で巨大化して、夕貴さんを呑みこもうとしている。あれに完全に呑まれたらおしまいです」


 夕貴と小林が門扉を開き、家の前で別れの挨拶をしている。そうしている間にも闇は迫ってきている。


「ソロンは僕が食い止めておきます。いいですか、一緒に帰りたいと願うんです。そうすれば、翔さんも共に目覚めます。目覚めた後も、夕貴さんが壊れないよう支えてください」


「シン、行くな」


「金木犀によろしく」


 シンは、闇の中へと飛び込んだ。闇の中で、かすかに赤い光が揺らぎ、消える。


「小林さん」


 夕貴の悲鳴。車が走り去る音。振り返ると、轢かれ、横たわる小林と、茫然とする夕貴がいた。小林に近寄り、夕貴は、彼を抱きしめる。


「置いていかないで。私も連れて行って」


 夕貴の悲痛な叫び声。闇が深くなる。翔は事態の深刻さを感じた。夕貴の負の感情に呼応して、闇は大きく深くなる。


「夕貴、やめろ。後を追うことなんて考えるな」


「翔」


 夕貴は現在の姿だった。涙を零し、真っ直ぐ翔を見据えている。


「でも、私、耐えられない。小林さんと生きることが、私の生きる意味だったのに」


「そんなこと、言うなよ。俺は、お前に生きてほしいんだ」


 泣きじゃくる夕貴を、翔は強く抱きしめる。


「寂しいよ。寂しい。どうして死んじゃったの。ずっと一緒だって、約束したの

に」


 翔の腕の中で、夕貴が小さく震える。


「会いたいの。会って、笑ってほしいの。それだけなのに、どうして。どうして叶わないの」


 闇が来る。たとえ闇に呑まれても、夕貴を守ると翔は覚悟する。


「俺は、あの時から二カ月経つけど、未だに小林さんが死んだ実感が湧かねえんだ。だって、思い返せばすぐ、あの人の笑った顔とか浮かぶから。みんなでメシ食った思い出とか、ずっと残ってるから。お前も、そうだろ。夕貴の心の中に、小林さんはいるだろ?」


 夕貴の嗚咽が響く。闇が二人を呑みこみ始める。シンは大丈夫なのか、そう思った瞬間、花の香りが漂ってきた。強く、甘い、懐かしい香り。


 見上げると、金木犀が、ソロンから二人を庇うように覆っていた。夕貴と翔は、顔を見合せる。金木犀は、微かに輝き、二人を照らす。次第に増していく光の中から、現れたのは小林だった。


「小林さん?」


 夕貴は目を瞑り、胸を押さえている。その手の指の隙間からも、光が零れ出している。


「翔、見つけた。私の中に、小林さんがいた。もういないけど、でも、ずっといる」


 光の粒を瞳から零し、夕貴が言う。闇が少し、薄らいでいた。


 小林は微笑み、小さく頷いた。


「帰ろう。金木犀が、待ってる」


 翔と夕貴は、金木犀の方へと、手を伸ばした。生きて、帰る。それだけを想って。


「小林さん」


 小林は微笑みながら、翔と夕貴を見守っていた。遠ざかる彼の姿は、光そのものに見えた。

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