第一章

 痺れる頬を撫で呟いた翔の素直な感想に、シンは微笑み頷く。


 二人はしばらく記憶の波を漂っていた。


 家族と旅行に行った記憶。友人と夏祭りに言った記憶。小林と初めて出会った時の記憶。夕貴の幸せな記憶の中で、小林は生き続けている。末永家の食卓には、笑い声が響き渡っている。


「おかしいな」


 翔の呟きにシンが顔を向ける。


「夕貴の記憶の中に金木犀がいない。家の庭の端に立ってただろ?でも、ほら、いない」


 指差した方向を見る。確かに金木犀がいない。


「記憶は都合のいいように捏造することができます。つまり捏造された部分に不都合が隠されているんです。夕貴さんと金木犀の間に、何かあったのかもしれませんね」


「何かってなんだよ」


 翔の問いに、シンは考え込む。


「このまま記憶の中を漂っていてもしょうがないです。直接本人に聞きにいきましょう」


「どうやって」


「記憶より深い、無意識の中枢へ飛びます」


 約束を忘れないで。その言葉と共に、二人はまた、渦へと飛び込んだ。

 

 静寂。胎盤の中にいるような温かさと、鼓動を感じるところ。何もない、広大な空間、その中心に、夕貴は蹲っていた。


 シンが人差し指を口元へと持ってくる。静かに。喋るな。そういう意味らしい。


 二人はゆっくりと夕貴へと近づいていく。一歩踏み出すたびに、波紋が広がっていく。水の上を歩いているような感覚になる。


「夕貴さん」


 シンの呼びかけに、夕貴は顔を上げる。虚ろな表情だ。長い時間をかけて、焦点がシンへと合わさる。シンの隣にいる翔の方は少しも見ない。見えていないのかもしれない。そう思った。


「あなた、だあれ?」


「シンです。初めまして」


「誰、知らない」


 そう言って、また蹲る。駄々をこねる子供のようだ。翔がそう思った瞬間、夕貴は本当に幼い少女の姿へと変わっていた。どうなっているんだと、目をこする。さっきまで今現在の年齢に合った姿だったが、今は少女の姿にしか見えない。


「夕貴さん、ほら、金木犀の花のいい香りがしませんか?」


 シンが言う。思わず翔も鼻をひくつかせる。最初は何も感じなかったが、次第に金木犀の強い香りが漂ってくる。


「しないよ。きんもくせいって、何それ」


 幼い夕貴はそっぽを向く。金木犀という言葉を嫌がっているように見えた。シンと顔を見合わせる。


「夕貴さんは、今何をしたいですか?」


「会いたい。小林さんに」


 現在の姿になった夕貴が言う。翔はまた驚いたが、声は出さないよう努めた。夕貴は切に望んでいるように、真摯な表情でいる。


「どうしたら小林さんに会えますか?」


「会えるよ。ずっと一緒だよ。夕貴が会いたいって思ったらずっと一緒なの」


 子供の姿の夕貴が言う。


「でもここにはいませんよ」


「いるよ。夕貴が眠ったら小林さんが来てくれるの。ずっと一緒だよ」


「眠らないと来てくれないのですか?起きてる時には来てくれないのですか?」


 子供の夕貴が拗ねたような顔をする。


「起きててもいるよ。ずっと夕貴のそばにいるもん」


「じゃあ、起きましょう。金木犀も待っていますよ」


「嫌だ、起きたくない。ずっとここにいる。金木犀なんて、大嫌い。眠れって言ったのに、起きろって言うんだもん」


 夕貴は姿だけでなく、心までも幼くなっている。矛盾だらけだ。しかし、だからこそ本心なのだと言える。翔は、剥き出しの夕貴の心を感じ、胸が詰まるような思いに駆られた。


 それでも、金木犀を嫌いだと言う理由がわからない。眠れと言われ、起きろと言われたという。どういう意味なのか、やはりわからない。

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