第一章

 そして昨日の晩、絶望の中、明日は夕貴が目覚めていればいいのにという淡い期待を抱きつつ、翔がベッドにもぐりこんだ時、突然森がざわつき始めた。口々に何か囁いている。


“来るよ”


 森だけではない、空を飛ぶ鳥が、駆け抜ける風が、大地が、一斉に来る、来る、と騒ぎ出した。


 翔は外に飛び出し、彼らに耳を傾けた。詳しいことを聞こうとしても、彼らは興奮しすぎてほとんど何を言っているのかわからない。ただ断片をつなぎ合わせると、明日誰か、あるいは何かがここに来るらしいということだけがわかった。


“夕貴が目覚めるかもしれない”


 長い間沈黙を守っていた金木犀が、嬉しそうにそう言った。


 翔はそうして確かなことが何一つわからないまま、夕貴を目覚めさせてくれるかもしれない何かを、この暑い日差しの中ずっと待っているのである。


 いつ何が、誰が来るのか、詳細は何一つ分からないので、翔は夜明けとともに家の前に座り、それが来るのをじっと待っていた。おそらく現れたら、みんなや金木犀が反応してくれると信じ、彼らの様子を伺いながら、その時を逃すまいと、座り続けて十時間が経っていた。


 水を飲もうと、ペットボトルに手を伸ばし、中身が空になっていることに気づいた。補給しに戻ろうか、いやその間に来たらまずい、いやいやその前に脱水症状で倒れたら同じことだ、などと葛藤している時、昨晩のように再び辺りがざわめきだした。


 いや違う。


 翔は思う。ざわついているのは自分だ。鼓動が激しくなり、電流が走っているように手足が痺れている。辺りは、驚くほど静かだ。蝉達も鳴くことを止めている。

 

 その静けさこそが、いつもと何か違うことを物語っている。


“来るよ”


 囁き声。それが波となり、翔の心に打ち寄せる。


 心地良い風が吹く。微笑むような涼しい風。


 蝉たちが、生を讃えながら、こちらに意識を飛ばしている。


 鳥たちは笑いながら、頭上を飛び交い、祝福している。


 空と大地が、喜びを謳い、抱き合っている。


 目を瞑り、その光の渦の中に浸りながら、翔はこの世界の美しさを感じた。


 綺麗だ。

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