二十四話「言えないから」

 こはるは中学の宿題を終えると早々に眠ってしまった。

 めのうについて訊いておきたい事が多少あったのだが、宿題に向かう中学生の邪魔をするわけにもいかない。第一、同じ部屋で寝泊まりする事になったのだ。めのうについてはいつでも訊けるだろう。

 香苗はカーテンを開いて、窓の外に視線を向けてみる。香苗の自宅は山間に存在するだけあって、街中よりは遥かにはっきりと星空が見えた。寒空も影響しているのだろう。星々は見事に瞬いている。

 しかし残念ながら、香苗は星を見上げて感傷的になれるほど心に余裕を持てていない。瞬く星空を見上げながら考えるのはやはり今後の仕事の事だ。

「そろそろ聞き込みかな……」

 寝入っているこはるの耳に届かないよう小さく嘆息する。

 香苗は聞き込みが得意ではない。

 慧遠や蒼鬼、そして連。昔馴染みには高圧的な態度を取る事ができるのだが、そうできるのはあくまで昔馴染みだけだ。初対面の相手に馴れ馴れしく声を掛けられるほど、香苗の肝は据わっていない。内弁慶なのだ、結局のところ。

 無論、意を決して聞き込みをしてみたところで、有益な情報が得られるとは限らない。無益な情報を得られるだけならまだしも、下手をすれば無視された上に妙な噂を周囲にばら撒かれる。結果的にめのうの案件の黒幕に警戒される可能性も大いにあった。

「やだなあ……」

 それが香苗の嘘偽りの無い本音。

 好きでこの仕事に就いているわけではない。あくまで生活のために、他にできる事が無いから就いているだけだ。そうでもしなければ、香苗達は数日先にでも飢えてしまう環境の中にあるのだ。

 やり甲斐が無いわけではない。仕事を終えた事を報告した時には何とも代え難い充足感を得られる。大好きなあの人の、笑顔が見られるのだから。

「香苗ちゃん?」

 気が付けば自室の襖が開けられていた。

 襖を開いたのは、勿論裕だった。他の誰かが自宅に居るわけがないのだから、当然ではあるのだが。

 香苗は胸が高鳴るのを感じながら、眠るこはるを踏まないよう避けて襖まで駆け寄る。

「どうしたの、お姉さま?」

「倉庫を片付けていたら、香苗ちゃんの部屋のカーテンが開いているのに気付いたの。眠れないの?」

「だってまだ九時だよ、お姉さま。こはるさんみたいにそんな早寝なんてできないもん」

「それはそうかもしれないわね」

 微笑んだ裕が香苗の部屋の襖を閉め、香苗の手を引いて歩き出した。

 こはるの睡眠の邪魔をしないよう気遣っているのだろう。その細かい気遣いに、香苗はまた姉の優しさに目眩がするほどときめいた。ときめいたまま裕に連れられて辿り着いたのは居間だった。少し時期の早い炬燵に二人で入る。

 裕は炬燵の上に置かれたみかんを香苗の前に差し出した。

「みかんでも食べましょう、香苗ちゃん」

「え、でも……」

 炬燵のみかんは裕が購入したものだ。裕の所有物である以上、香苗がおいそれと口にしていい物ではない。みかん一つですら、迫田家の財政を圧迫している事を香苗はよく知っている。

 香苗がそう躊躇っていると、裕がみかんを剥き始めて微笑んでくれた。

「いいのよ、私も香苗ちゃんがこのみかんを食べてくれた方が嬉しいわ。香苗ちゃん、また痩せたもの。もう少し遠慮せずご飯を食べてもいいのよ」

「お姉さま……」

「ねえ、香苗ちゃん。ご飯はちゃんと食べているの? なんて、ごめんなさいね。本当は私が三食用意できれば一番いいのだけれど……」

「お姉さまのせいじゃないよ……」

 悲しそうに微笑んだ裕の表情を見て、香苗の胸に激しい痛みが奔った。

 香苗は知っている。裕が朝早くから夜遅くまで多くの仕事に駆け回っている事を。香苗のために働いてくれている事を。

 故に悲しかった。自分が辛い事より、裕が悲しんでいる事の方が何倍も。

 香苗の沈んだ表情に気付いたのだろう。裕は静かに手を伸ばして香苗の頭に手を置いた。

「でもね、香苗ちゃん。私、ちょっとほっとしているの」

「ほっと?」

「ええ、香苗ちゃん、最近沈んでるみたいに思えたもの。うさぎちゃんの事件が解決して以来、香苗ちゃん、ずっと辛そうだったわ」

 驚いた。顔には出さないようにしているつもりだったのだが、裕には気付かれてしまっていたらしい。同じ家に住んでいるとは言え、それほど長い時間顔を合わせているわけではないのに。

「うさぎちゃんと、何かあったの?」

「あっ……」

 裕の質問に香苗は返答できない。

 言えない。言えるはずがない。

 あの日、香苗が得た報酬は、うさぎが売春から得た金なのだとは。

 うさぎが少し色を付けてくれた報酬が、性の獣達から手渡されたのであろう金だとは。

「えっ……と……」

 思い出したくもない。思い出したら自らの仕事に疑問を持ってしまう。それ故に、思い出してしまうわけにはいかない。だからこそ香苗は苦笑した。大切な裕にこれ以上心配させないために、必死の笑顔で嘘を吐いた。

「うさぎさんと……、喧嘩しちゃって……」

「そうだったの?」

「うん……」

 間違いではない。あの日以来、香苗はうさぎと積極的に連絡を取っていない。届いたメールも返していない。返信など無くても、悪魔であるうさぎは気にもしないだろうが。

「仲直りはできそうにないのかしら?」

「今は……ちょっと……」

 これも間違いではない。少なくとも暫くの間、香苗はうさぎと会話すらできそうもない。いつかまた前の様に話せるか、それも分からない。

「いつか、仲直りできるといいわね」

「うん……」

 瞬間、裕が香苗を引き寄せて、その頭を胸の中に抱き止めた。

 優しく柔らかい裕の感触、裕の香り。大声で泣き出してしまいたくなる。しかし香苗の瞳から涙は流れ出なかった。嘘を吐いているという負い目か、それ以外の理由からか、とにかく涙は全く出なかった。

 嘘を吐いてしまったという罪悪感が香苗の胸を傷付けてしまっただけだった。

「でもね、私、やっぱりほっとしてるの」

 香苗を抱きしめながら裕が続ける。

「こはるちゃんが依頼してくれただけって事は知ってるわ。それでもね、嬉しいの。香苗ちゃんがまた家に誰かを招き入れてくれた事が。それが例え仕事のために必要な事だとしても」

 香苗は何も言葉にできない。

 香苗が泊まり込みを許可したのは、あくまでこはるから提案されたからだ。手間賃や食費を出してくれるという言葉に惹かれての事だ。しかし香苗は、本当は、やはり少し嬉しかったのかもしれない。誰かの傍に居たかったのかもしれない。

 庚は別の仕事に従事しているようだし、悠も門限が早いから長く仕事に拘束できない。裕の負担にもなりたくない。だから受け入れたのかもしれない。どんな形であれ、香苗を信頼して依頼して来てくれたこはるの事を。

 無論。

 こはるの幼馴染みであるめのうの自殺の原因など突き止められても、お互いに不幸になるだけに違いないと分かってはいるのだが。

 それでも今だけは求めたかったのだ、傍に居てくれる誰かを。

 裕への想いを爆発させないためにも。

 家に誰かが居てくれれば、少なくとも己の暴走の抑止力になってくれるはずだから。

「大丈夫。大丈夫だから、お姉さま……。きっと大丈夫だから……」

 裕の胸の感触に自らの下半身が疼いている事に罪深さを感じながら、それでも香苗は必死に理性を保った。大切な家族の絆をこれ以上壊してしまわないために。

 香苗は、いい妹を演じなければならない。

 永久に。

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