二十一話「ヒトシズクアイ」

 秋の夕陽に輝く瀬戸内海の光に、とりあえずは美少女と称せる悠が照らされる。

 それは美しい光景と呼べるかもしれなかったが、悠の口から出たのは美しさなど微塵も感じない言葉だった。

「精液が残ってたんなら、関係してた男は突き止められるんじゃねえの?」

「それは無理だよ、悠ちゃん」

 面白くなさそうに応じたのは蒼鬼だった。

 どうにも苛立ちが治まらないのか、愛用らしいガムを口の中に放り込んで続ける。

「そりゃDNA鑑定はできるよ。どんな遺伝子構造をしてるかも調べられるだろうね。でもそれで終わりだよ。だって照らし合わせるデータが無いんだから。前科でも無い限り調べられないし、警察が調べてないって事は前科が無かったんだろうね」

「そう、それだ。精液が残ってたんなら単なる自殺で片付けるのは時期尚早なんじゃないのか? それなのにどうして自殺で片付いちゃてるんだよ。相手の男くらい突き止めても損は無いだろ?」

「警察もそこまで手間は掛けられないよ。精子の寿命は一週間近くある事は知ってるかな? めのうちゃんに残っていた精液は性交から数日経っての物だったらしいよ。性交直後にならともかくとして、性交から数日経っての自殺は別に珍しくもない。それこそ殺人犯は全員酸素を呼吸していたってレベルの戯言さ。数日前の性交の相手を捜せるほど、警察だって暇じゃないんだ」

「まあ、それもそうかもしれないんだけどな」

 蒼鬼の説明に、悠はあっさり引き下がった。

 口こそ悪いが良家のお嬢様なのだ。疑問が解決されれば素直に納得するし、己に非があれば認める度量もある。良くも悪くも真っ直ぐな娘なのである。

「もしかしたら本当に自殺なのかもしれない」

 独り言の様に蒼鬼が呟く。

「警察だって無能じゃないよ。自殺と断定するんなら、それだけの確証があるんだろう。実際問題、状況から見て自殺としか思えないのは確かだよ。飛び降りを決行したのは、めのうちゃんの住んでいるマンションの自室の窓から。部屋に鍵は掛かっていて、誰かと争った形跡も残っていない。こんなの誰がどう見たって自殺としか思えないよ。それでも調べるのかい、香苗ちゃん?」

「……めのうさんと性交していた相手の男は分かってないんだろ?」

「さっき言った通りだよ。数日前の性交の相手をいちいち捜していられるほど警察は暇じゃない。特にめのうちゃんは天使なんだ。見知らぬ誰かにだって頼まれたら身体を許す可能性は凄く高い」

「だったらそいつを捜すさ。別に真犯人を捜せって言われてるわけじゃない。自殺なら自殺でその原因を突き止めるよ。それがあたしの仕事なんだから」

「知りたくもない、知らない方が良かった真実が顔を見せるかもしれないよ?」

「何だよ、その常套句は」

「言ってみたかっただけだよ。まあ、真実なんてのは残酷なものってのがお約束だしね」

 別に構わなかった。

 真実が残酷かどうかはともかく、それが大抵の場合において気に食わない現実である事は香苗もよく知っている。何しろそれで痛い目に遭ったばかりなのだから。

 そして不意に思った。めのうの事ではなく、めのうの件の前に関わった案件の事を。あの案件を持ち込んだのは、他の誰でもない蒼鬼だった。蒼鬼は知っていたのだろうか、あの案件に関する真実を。

「じゃあ調査は継続するんだね、香苗ちゃん?」

 背の高い蒼鬼が、わざわざ屈んで上目遣いに香苗を見つめる。

 蒼鬼。軽薄で女好きで口の上手い情報屋。

 それなりに長い付き合いではあるが、どんな男なのか未だに掴めない。

 蒼鬼は過去を語らない。香苗も語っていないからお互い様だが、それにしても度が過ぎていた。何しろ女好きであるという事以外、全く不明なのだ。あえて隠しているのかもしれないが、隠している動機の片鱗すら掴ませない。気にならないわけではない。

 しかし。

「勿論だ。高い報酬は約束できないけど、蒼鬼も引き続き調査してくれると助かる」

 蒼鬼より、今はめのうの事だった。

 蒼鬼は単なる職場の関係者でしかない。過去など知らずとも万事に影響はないはずだ。それよりも今後を考える事の方が余程有意義だった。

「いいよ、裕さんにはお世話になってるからね。たまには安い報酬で働くのも悪くないさ。そうだね、この件が解決したら、香苗ちゃんが俺とデートしてくれるってのはどうだい?」

「……あたしでよければ付き合うよ」

「えっ、本当に? いや、冗談だったんだけど……」

「冗談で女を誘うな。あたしも蒼鬼とは話しておきたい事があったからな、ドーナツ屋でよければ付き合ってやる。おまえの奢りだけどな」

 蒼鬼の過去を知りたいわけではない。蒼鬼の真意を知りたかった。それを知られるのなら、蒼鬼とのデートくらい安いものだった。

「何か俺が損してるだけの様な気もするけどね……」

 軽口を叩きながらも、蒼鬼の表情は何処か嬉しそうに見えた。蒼鬼の方も香苗と話しておきたい事があったのかもしれない。しかし、今はやはりめのうの事が先決だった。デートはさておき、今後の方針について蒼鬼に伝えておく事にする。

「あたしはめのうさんの同級生を当たってみるよ。中学生なんだ。男の影があれば少しは噂になってるかもしれない」

「どうかな。警察も多少は調べたみたいだけど、めのうちゃんの相手の事は全然掴めなかったみたいだよ?」

「そこはあたし達の武器を使ってみるさ。警察には話せない事でも、歳の近いあたし達には口を滑らせる可能性もある。これでも去年までは女子中学生だったんでね、感性が近ければ警戒も解くんじゃないかな」

「まあ、確かにそれは女子でも中学生でもない俺にはできない調査だね。香苗ちゃんにはそっちから頼むよ。俺はもうちょっと警察の資料を集めてみる。細かい資料はまだ手に入れてないわけだし、それを入手できれば話が変わってくるかもしれない」

 方針は決まった。後は目的に向かって突き進んでみるだけだ。

 その先に残酷な真実が待っていようと、当面の生活費には代えられない。

「んじゃ、またな」

「あ、ちょっと待った、香苗ちゃん」

 蒼鬼と瀬戸内海の波音に背を向けて歩き出そうとすると呼び止められた。

 調査の一歩目から踏み外した気分で不機嫌に振り返ると、蒼鬼はスマートフォンを弄っているようだった。

「香苗ちゃんに見ておいてほしいものがあるんだよ」

「エロ画像ならノーサンキューだ」

「違うよ、めのうちゃんの飛び降り直後の画像さ」

「エロ画像じゃなくてグロ画像かよ。毎度何処から手に入れてるんだ、そんな画像」

「居るんだよ、こういう画像を撮影しておくような輩がさ」

 嘆息する蒼鬼。

 倣う様に嘆息してから、香苗は隣に立っている悠に視線を向けた。

 悠は心底嫌そうな表情を浮かべていた。お嬢様なのだ、やはり。

 香苗が、自動販売機でジュースを買っておいてくれ、と伝えると、明らかに安堵した表情で悠は足早に居なくなった。それでよかった。退屈凌ぎのお嬢様にそこまで深入りさせる必然性は存在しない。

 悠の姿が完全に見えなくなるのを見届けた後、香苗は意を決して強く言ってみせた。

「見せてみろよ」

「いいのかい? 香苗ちゃんの言う通りグロ画像だよ?」

「見てほしいと言っておきながら今更だな」

「別にグロ画像だから見てほしいわけじゃないんだけどね」

「どういう事だ?」

「見れば分かるよ」

 言ってからスマートフォンを操作する蒼鬼。

 準備は既に終えていたのか、その画像はすぐに表示された。

 表示されたのは、蒼鬼の言っていた通りめのうの飛び降り直後の画像。こはるから聞いた話だと、めのうが飛び降りたのは夕飯時、自室のある十階からだったはずだ。

 成程、グロ画像だった。腕は開放骨折しているし、打った額は妙な形に凹んでいた。眼球も若干飛び出しているし、コンクリートはまさに血の海だ。

 香苗にまた吐気が込み上げる。しかし耐える。これこそが香苗の仕事。生きていくために得なければならない情報なのだから。故に死体の画像程度に屈してしまうわけにはいかない。

 香苗が吐気を耐えられた理由は、もう一つある。

 世を儚んで、生きていく事を放棄して、自ら命を絶ったはずのめのう。

 どうしようもなく損壊しているそのめのうの死体の表情は、満面の笑顔だった。

 恍惚の表情。

 少なくとも、香苗にはそう見えた。

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