十七話「CAUTIONARY WARNING」

 スマートフォンに登録しているアプリで何度も地図を確認する。

「ここで、いいんだよな?」

 誰かと連れ立って歩いているわけでもないのに、香苗は確認する様に呟いてしまっていた。うさぎを黄金山(正確には黄金山の麓付近)の自宅に送り出してから三日後の夕暮れ、香苗は一人でその住所を訪ねていた。

 ストーカー事件の報酬を受け取るためである。うさぎとはそれなりに親しくなったとは言え、香苗達が行っているのは慈善事業ではないのだ。規定に則った報酬は確実に受け取らなくてはならない。そうでなければ、香苗達に待っているのは冗談ではなく飢え死になのだ。

 うさぎの件が解決して以来、香苗は手が空いていた。ストーカー対策という大口の案件が終わったばかりなのだ。すぐに他の案件を依頼されるほど、香苗達の事業は繁盛していない。それ故、手の空いている香苗が報酬を受け取りに行く事になったわけなのだが。

「アプリではここで間違いないはずなんだけど……」

 もう一度、戸惑いがちに呟く。

 戸惑ってしまうのは、アプリの地図に示されている場所にあった建造物が予想とは大きく異なっていたためだ。

 うさぎに教えられた住所にあったのは、豪邸だった。新築かどうかは分からないが、和風建築で三階建ての一軒家であり、広めの庭には名前も知らない綺麗な花が咲き誇っていた。少なくとも香苗の住んでいる自宅の数倍は豪邸と呼んでも差し支えは無いだろう。

 住所がでたらめだったというわけでもなさそうだ。豪邸の表札には毒々しい色合いで『怨念』と書かれているし、うさぎが嘘を吐く様な悪魔だとも思いたくない。そもそもでたらめな住所を教える様な依頼人を、あの蒼鬼が紹介したりはしないだろう。軽薄な男ではあるが、いくら何でもその程度の筋は通す男なのだ。

 だが、香苗が持っていたうさぎの印象とは異なる豪邸である事も、また確かだった。

『うさぎ、これ以上仕事を休めませんし』 

 迫田家での最後の夜、うさぎは確かそう言っていたはずだ。

 その後の口振りでは、今回の仕事の報酬を自らの稼ぎで支払うつもりである様にも聞こえた。良心的な価格に設定してあるつもりではあるが、それなりに非合法な仕事なのだ。一般の家庭が一度に支払うには、それなりに懐が痛む料金設定には違いない。

 てっきり苦学生なのだと思っていた。学費も自らのバイト代から捻出している程度の。子供がある程度育てばその後の顛末について完全に放置する。悪魔の人の親子間ではそういう関係も珍しくないらしい。

 しかし、よく考えなくても分かる。この豪邸は単なる苦学生の住居にはなり得ない。

 親の悪魔が余程資産家だったのだろうか?

 或いは……。

「悩んでても仕方ない、よな」

 頭に着けているリボンの形を整え、深呼吸してからインターホンに人差し指を伸ばす。

 大した事情があるはずもない。豪邸の謎はうさぎ自身の口から聞けばいいだけだ。そう考えながら。インターホンを押して十数秒の沈黙の後、最近聞き慣れている呑気な声が聞こえた。

「はーい、香苗さんですよね? ちょっとだけ待っててくださーい」

 うさぎの声。つい三日前まで同じ部屋で寝泊まりしていた悪魔の友人の声だ。約束していたとは言え、香苗の名前も確認せず会話を終わらせるところがどうにもうさぎらしい。

 ともあれよかった。やはりうさぎにでたらめな住所を教えられていたわけではなかったわけだ。そうして胸を撫で下ろす気持ちでうさぎを待っていた香苗は、数秒後には軽く目を剥かされる事になる。

「お待たせしました、香苗さん」

 楽しそうに玄関の扉を開いたうさぎの乳房が大きく揺れていたからだ。

 正確に言えば、うさぎは上半身にも下半身にも何も身に着けていなかった。一糸纏わぬ全裸というやつだ。褐色の肌が艶っぽく輝いている。香苗は一瞬だけ驚いたがすぐに思い直した。思い出してみれば、共同生活時の風呂上がり、うさぎは衣服を身に纏うのを嫌っていた。それが悪魔という生物なのだろう。

 故にうさぎが全裸でも何の不思議も無い。香苗はそう思おうとしていた。

「お仕事のお金ですよね? すぐ持って来ますからもうちょっと待っていて下さいね」

 楽しそうに微笑むうさぎ。全裸である事以外、普段通りに思えるうさぎ。だが、何故だろうか。香苗の心臓は早鐘の如く激しく鳴り響いていた。無理矢理納得しようとしてみても、香苗の脳内には数々の疑惑が浮かび上がっては止まらない。

 普段通りのうさぎ? 本当か? うさぎはあんな紅潮した艶っぽい笑顔を浮かべる子だっただろうか? 全身が水分で濡れているように輝いているのは何故だ? 風呂上がりなのか? 風呂上がりに十数秒でインターホンに出られるか?

 何よりうさぎから仄かに漂う、香水混じりのこの異臭は?

「お仕事と言えば、うさぎも今お仕事中なんですよね。えへへっ、うさぎもしっかり働いてるんですよ? まだもう少し続きそうだから、今日は香苗さんとあんまり話せそうになくて残念なんですけど……」

 そして、香苗は気付いた。

 全裸のうさぎの背後、襖の先から全裸の女性が訝しげに自分を見つめていた事に。

 肩ほどまでの黒髪を有した二十代後半と思しき、香苗にはこれまで面識の無かった人間の女性。薄暗がりの中でさえ、彼女の豊かな胸はうさぎと同じく艶やかに濡れていて火照っているように見えた。

 二人の女性が全裸で身体を火照らせている。

 同性の恋人同士?

 そう考え掛けた瞬間、妙に冷静な頭の中のもう一人の香苗がその可能性を否定した。

 そんな事があるか。さっきうさぎはお仕事中って言ってたじゃないか。

 もう一人の自分の言葉に、香苗は頭を鈍器で殴られた様な衝撃を受けていた。

 ああ、そうだ、その通りだ。うさぎは言っていたのだ、『今お仕事中』と。

 分かった。分かってしまった。

 それに加えて、香苗の中にあった様々な疑問が解答として紡ぎ出されていく。

 うさぎが強姦以外の理由でストーカーを恐れていた理由。これはうさぎ自身も口にしていた。仕事への風評被害を恐れての事だ。特にうさぎの仕事にとっては、ストーカーの存在は致命的な風評被害となる事だろう。

 うさぎが豪邸に住めている理由、及び香苗達に自ら報酬を支払えるほど資金が潤沢な理由。これも簡単だ。それほどの収入が見込める仕事に就いているからだ。成程、うさぎ相手なら幾らでも金を落とす相手が居るに違いない。異性相手にでも、同性相手にでも働けるのだから。

「香苗さん?」

 言葉を失っている香苗の顔をうさぎが覗き込む。

『何でもない』と言えるはずがなかった。『何でもない』はずがなかった。

 背中に嫌な汗を掻いている。息苦しくなっているのを誤魔化すのがやっとだ。

 口を開ければ叫び出してしまいそうだった。

 うさぎの行っている『仕事』に対する嫌悪感でどうにかなってしまいそうだった。

 うさぎの『仕事』。

 即ち、売春。

 考えてみれば当然だった。うさぎの様な女子中学生が容易く金を手に入れる方法など、他にそうありはしない。特にうさぎは怠惰であり性に解放的である悪魔という種族なのだ。手っ取り早く金を得られるのであれば、間違いなく売春という手段に思い至る。悪魔を買いたいと思う人間は、それこそ腐るほど存在しているのだから。

 庚がうさぎを何となく苦手としていた理由もそれだったのかもしれない。性のせいで両親を失った庚。性を売り物にしているうさぎ。その他の点で好意的になれたとしても、その一点のみで二人の間では大きな溝が存在しているも同然だ。

「うっ……、くっ……」

 何も言葉にできない。

 どんな言葉をうさぎに掛ければいいのか分からない。

 罵倒か? 非難か? 疑問か?

 どれも違う気がしたし、どれも口にできる気がしなかった。

 分かり掛けていたはずだった。悪魔の女子が多額の金を入手できる方法など、一つしかないと理解していたはずだった。しかし、香苗はそれに気付かない振りをしていたのだ。うさぎだけは例外だと思おうとしたくて。

「ほ……、報酬……は?」

 一分以上経って、やっと口にできたのはそんな下らない言葉。

 香苗に結局選び取れたのは、用事を済ませてこの場から逃亡する事だけだった。

「あ、すみません、ちょっと待ってて下さいね」

 不躾な香苗の言葉を気にした様子も見せず、うさぎは全裸の女性が立っている方とは別の部屋に入っていった。香苗への報酬はその部屋に用意しているのだろう。

 一瞬、全裸の女性と目が合って、香苗は即座に視線を足下に落とした。

 比較的綺麗な女性だと思った。道端で出会えば、それなりに目を奪われてしまうかもしれないくらいには。しかし、そんな女性が悪魔の女子を金で買っているのだ。

「お待たせしました、香苗さん。お約束のお金です」

 部屋から戻って来たうさぎが太めの封筒を香苗に手渡す。

 震える指先で受け取りながらも、香苗は今すぐその封筒を現金ごと破り捨てたい衝動に駆られた。恐らくはうさぎの背後に居る全裸の女から受け取った金も入っているのだろう。汚れ切った醜悪な物体としか思えなかった。

 だが、そんな事ができるはずもなかった。

 汚れ切っていようと、醜悪であろうと、この金が無ければ香苗達は生きていけないのだ。明日を迎える事すら危うくなるかもしれないのだ。

「忙しいから……、またな」

 捨て台詞の如く吐き捨てて、うさぎに背を向ける香苗。

 これ以上、この場には立っていられなかった。

「分かりました。ちょっと多めに入れておいたんで、今度奢って下さいねー」

 うさぎの他愛の無い冗談に反応する余裕も無かった。

 手の中に醜悪な命綱を握り締めて、自宅まで駆け出していく。

 黄金山から元宇品まではかなりの距離がある。走ってすぐ辿り着ける距離でもない。

 しかし香苗は走らずにはいられなかったし、今の顔を誰にも見られたくはなかった。

 あたしは何を分かってたつもりだったんだ? 世の中の裏を分かってたつもりだったのか? 悪魔と天使の事も分かったつもりだったのか? ずっと傍に居たうさぎの事すら分かろうとしていなかったのに?

 そして、あたしは何なんだよ……。

 こんな汚れた金にすら頼らなきゃ、生きてもいけないあたしは……。

「くそっ……、くそっ……」

 家に辿り着いた後、香苗は何度もそう繰り返して。

 泣きながら、吐いた。

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