十六話「TRY AGAIN」
護衛最終日の夜。
ストーカーの大学生を突き止めた時点で護衛の必要は無くなっていたのだが、念の為うさぎには香苗の家に留まってもらっていたのだ。大学生の他にもう一人ストーカーが存在している。推理小説などである意味お約束となっている事態を警戒しての事だ。ほとんど有り得ない可能性ではあるが、後処理にも定評のある香苗としては後顧の憂いは断っておきたかったのである。
そうして一週間。
大学生の背後関係や裏付けを念入りに行った結果、香苗はこの事件には真の黒幕も他のストーカーも存在していない事を確信できた。それ故の護衛最終日だ。今日を最後に、香苗とうさぎの非日常的な共同生活を迎える。
「香苗さん?」
客用の布団を顔まで被ったうさぎがくぐもった言葉を響かせた。
息苦しそうに思えるが、布団の中に全身を入れて眠るのはうさぎの癖だった。それでいて息苦しくもないらしい。魔界なのか地獄なのかは知らないが、悪魔の棲んでいた場所は相当に酸素が薄い場所だったのだろう。
「どうしたんだ、うさぎさん?」
香苗は布団から横たえていた身を起こして、うさぎに返す。
香苗の視線には気付いているだろうに、うさぎは布団の中から顔を出しはしなかった。
飽くまで布団の上に転がったまま喋りたい事があるんだろうな、と香苗は感じた。
少しだけ苦笑してからうさぎの次の言葉を待つ。
「今日までありがとうございました、香苗さん」
悪魔の人らしい礼儀正しい言葉。
これまでの香苗達の護衛活動に本気で感謝している事が分かる声色。
だがそのくぐもった声の中に、多少の震えがある事に香苗は気付いていた。
香苗がそれを指摘するより先に、うさぎは更に自らの言葉を続けた。
「本当に、助かりました。うさぎ、これ以上ストーカーを続けられたらどうしよう、って実はずっと怖かったんですよ。本当に大変な事になるところだったんですもん」
普段よりも柔らかい喋り方だった。これまでより多少砕けた喋り方でもあることから考えるに、こちらがうさぎの本来の口調に近いのだろう。依頼人であるという立場から、あれでも香苗の前では気を張っていたに違いない。
香苗は腕を伸ばして、隣の布団の上からうさぎの頭を撫でた。
自分らしくないと思いながらも、何故かそうしたい気分だったのだ。
「怖かったんだな、うさぎさん」
怖くないはずがない、と思う。
増長したストーカーが到達する最後の行為はまず間違いなく強姦か殺人だ。
殺人は勿論、強姦も心底恐ろしい行為だ。強姦は人間の尊厳を完全に奪い去る。人間を単なる性の慰み者として消費されるだけの物体と化させてしまう。女性から男性からの強姦が存在している事は香苗も知っている。女性に強姦された事を裕に相談に来ていた男性も何人か目撃した。
しかし女性が男性に強姦される事の方が、遥かに恐ろしいと香苗は考えている。
フェミニストというわけではない。
単純な問題だ。当然の事ではあるが、女性は強姦されると妊娠してしまう可能性があるのだ。よく知りもしない人間の子供を。祝福される事のない子供を、呪う事しかできない赤子を、自らの胎内に身ごもってしまう。考えるだけで戦慄する。強がっていても、蒼鬼などの男より強く見えても、やはり香苗は処女でか弱い少女に過ぎない。
「はい、怖かったです。うさぎ、これ以上仕事を休めませんし」
「うん。うん……?」
予想外のうさぎの言葉に香苗は首を捻ってしまう。
前にも聞いていた事だが、うさぎはやはり強姦など恐れてはいないのだろうか。強姦される事より、仕事に支障が出る事の方が恐ろしいとでも言うのだろうか。生きるために働いている身としては、香苗としてもうさぎの気持ちが分からなくはないのだが。
「あのストーカーさんのせいで商売上がったりなんですよね。やっぱり周囲の評判が大切なお仕事ですし、ストーカーさんに付き纏われてるなんて本当に風評被害は困るんです。だからこそ香苗さんに解決してもらえて、感謝感謝です。改めてありがとうございます、香苗さん」
「感謝されるのは満更でもないんだけどさ……」
「何ですか?」
「あの大学生に襲われる事は怖くなかったのか?」
「えっ? 別に怖くはないですけど、どうしてですか?」
「どうして……、って言われても、ほら、襲われたら暴力とか……、妊娠とか」
「何を言ってるんですか、香苗さん?」
若干呆れを含んだうさぎの言葉を耳にして、香苗もやっと思い出した。
姿形があまりにも人間に酷似しているうさぎと過ごしていたからか、すっかり失念していた。そうだった。悪魔は人間の子供を妊娠する事ができないのだ。人間と悪魔だけではない。人間と天使の間でも子を為せない事が、近年の研究で明らかになっている。
考えてみれば当然の事だろう。
悪魔と天使には人間と形状が似通っている種別が存在しているだけだ。姿形が似ているだけなのだ。似ているだけで全く違う生命体なのだ。別の種族の間で子供など残せるはずがない。
しかし、子供を残せないという事はつまり……。
「うさぎは人間の人と子供が作れませんよ、だって悪魔ですもん。でも、それを別としても怖くなかったですよ。だってあのストーカーの人、結構好みでしたもん。直接うさぎのところに来てくれれば、付き合ってみてもよかったって思うくらいでしたし」
「好み……だったのか、あいつが?」
香苗はそうまじまじと大学生の男を見たわけではない。
顔が悪いわけではないし、極端に痩せていたり太っていたりしていたわけでもない。ただあまり目立った特徴が無い、根が暗そうな男だった。恐らく今までの人生であまり女性と関わらなかったのだろう、と思えるくらいには。
「はい、素敵でしたよ、あの人」
うさぎが布団の下から嬉しそうな声を響かせる。
「自分に自信が持ててない様子も素敵でしたし、女慣れしてない雰囲気も好みでした。かと言って全てを諦めているわけではなく、うさぎをストーカーするくらいの気力も持ってるなんて、うさぎの方から頼んで付き合いたいくらいでした。漂う童貞力にうさぎ、メロメロです。こんな事になっちゃった以上、あの人とは一生会えそうになさそうで残念ですけど……」
人の好みは千差万別。根が暗かろうと、自分に自信を持てていなかろうと、それらの性質を好む人間は必ず何処かに存在する。あのストーカーの大学生はそれを理解していなかった。理解しようとしていなかった。理解しなかったからこそ、ストーキングという歪な行為でしかうさぎに好意を示す事ができなかったのかもしれない。
ほんの少し勇気を持って他の行動を取れていれば、まず間違いなくうさぎは彼を受け入れていたはずだというのに。
やはりあらゆる意味で不幸だったのだ、彼とうさぎの出会いは。
まあ、勇気を持てるようになった彼を、うさぎが好むかは別問題なのかもしれないが。
「それにしても」
香苗は首を軽く振って話題を変えた。
ストーカー事件はもう終わった話だった。
香苗達に知られてしまった以上、彼がうさぎに近付ける事態はもう二度と有り得ない。
連も裕も、その程度の後処理の行い方は心得ている。
プロなのだ。香苗はともかく、連と裕は間違いなく。
「うさぎさん、仕事してたんだな。長く一緒に居たのに聞いてなかったよ」
「えへへ、そうですね。まあ、仕事やバイトの話ってあんまり面白くないですもんね。わざわざ自分から話す事でもないかなって思いまして」
「確かにそうかもな。あたしだってプライベートで仕事の話なんてしたくないよ」
「でも、仕事してるのは本当ですよ? ストーカー問題も解決した事ですし、苦学生のうさぎはこれからバリバリ稼ぎますよー! 今回のお礼のお金、楽しみにしてて下さいね!」
あれ、と思ったが香苗は口にはしなかった。
うさぎとの最後の夜、後ろ暗そうな話題にはこれ以上触れたくなかったからだ。明日の朝、うさぎは黄金山にあるという自宅に戻る。それ以降、香苗とうさぎが顔を合わせる事はほとんどないだろう。せめてそれまでの時間、年頃の少女らしい話題に華を咲かせたかったのだ。
後になって考えれば、それが香苗の誤りだったのかもしれない。世の中の裏の裏まで知っているつもりで、香苗は隣で寝転んでいる悪魔の表面すらろくに見ようとしていなかったのだ。
結局。
その後、香苗とうさぎが朝方まで華を咲かせたのは、悪魔達の間で流行している漫画の話だった。
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