十話「POWER TO THE DREAM」

 夢を見ていた。夢を見ていたかった。

 しかし夢は夢に過ぎず、所詮夢は実現しないものなのだと誠は分かっていた。

 分からされていたと言っても、過言ではないかもしれない。

 誠は幾度もの恋愛を経験していたが実った事は一度もなかった。一度たりとも、だ。

 誠は恋愛をする。恋愛をしようと努力はする。誰よりも努力をし続ける。

 赤面症だった自分の性格を変えるように努力したし、外見も相手に好かれるように尽力した。自然に話し掛けられるように、鼓動する自分の心臓を誤魔化しながら平静を装った事も多いし、自分の気持ちを真正面からぶつける度胸もどうにか身に着けた。自らの恋愛を成就させる為に誠は努力し続けた。

 けれど誠の恋愛はいつも片想いのままで変わらず、幾度となく拒絶され続けた。

 酷く拒絶された。誠の想いを受け止めてくれる少女は一人として存在しなかった。

 胸が磨り減っていくような激痛を感じながら、誠は枕を何十度も涙で濡らし続けた。

 それでも誠は抗った。

 失恋の胸の痛みと戦い続け、誰か自分と歩んでくれる人を探し続けたのだ、いつかは自分の想いに誰かが応えてくれると信じて。

 これから述べるのは、そうして告白をし続けた誠が高校二年生になった頃の話だ。

 高校二年生に至っても誠は独りだった。

 友人は居る。家族も居る。それでも、誠の傍らに想い人が存在する事はなかった。

 何度も何度も女子に拒絶され続ける自分は恋愛をしてはならないのか。

 誠がそう自分に自信を失いかけていたある日、長い時を経て現在に至っていてすらも、未だ忘れられない決定的な出来事が起こったのだ。その頃、当然と言うべきか誠は十何度目かの恋愛をしており、想い人の少女もこれまでの女子とは異なって誠に心を開いているようだった。

 誠を拒絶し続けた何人もの女子達とは異なり、その少女はとても誠に優しく振舞ってくれていた。彼女から話し掛けられるだけでこれまでになく舞い上がってしまう程に、誠は彼女の事を好きになっていた。

 好きになると同時に誠は唐突に少しだけ臆病風に吹かれた。これまでの経験によって慎重になったと言えるかもしれない。自分の恋愛を大事に育てていこうと決心した。これまでは急ぎ過ぎたのかもしれない。相手からの想いを渇望し過ぎていたのかもしれない。そう考えた誠は彼女との関係を本当に大事に育てようとしたのだ。

 誠は本当に本気で彼女を大切にした。生まれて初めての本気の恋愛をしていたのかもしれない。今思い返すと確かにそれは最初の本気の恋愛だったのではないかと、誠は思う。同時に最後でもあるという事実が皮肉ではあるが。

 そして現在にも繋がる、決定的な出来事が生じた日に至る。

 その日、誠は彼女と下校路の途中まで下校し、いつもの分かれ道で彼女と別れた。

 別れたのだが、数瞬して誠は彼女に翌日の予定を話すのを忘れていた事を思い出した。彼女と誠は高校で共に風紀委員をしている関係であり、翌日に風紀検査が早朝から行われる事を誠は失念していたのである。

 故に誠は駆けた。別れて暫く経ってはいるが、誠は彼女の自宅を知っている。

 急いで彼女の岐路を辿れば追い着けるだろうと、誠は彼女の事を想いながら走った。

 大切にしたい想い。大事に育てたい恋愛感情。少しずつ進展させたい二人の関係。

 誠はそれをこそ本当の恋愛だと信じて、彼女との関係を大切にしてきたのだから。

 誠はすぐに彼女の後姿を視認出来る場所まで辿り着いた。辿り着いてしまったのだ。決定的な分岐点に。

 彼女は確かにそこに居た。帰路をゆっくりと穏やかに歩いていた

 声を掛ければ振り返ってくれるだろう距離に、誠は彼女を確認していた。

 だが誠はその時に言うべき言葉を言う事が出来なかった。頭を鈍器で強打されたような衝撃のせいで、言うべき言葉を渺茫たる感情の何処かに失ってしまったのだ、恐らくは永久に。

 彼女は男と歩いていた。

 歩いているだけならばいいが、その彼女はとても幸福そうに見えたのだ。

 腕を組み、まるで恋人同士のように、いや、恋人同士として彼女は男と歩いていた。

 誠の頭は真っ白になった。

 自分はこれまで何をしていたのだろうと、そんな気持ちにさせられた。

 彼女と歩いているのは、遊び慣れた感じのする印象の男だった。

 この後、彼女と少しでも離れたら、すぐに違う女に声を掛ける軽薄な男だった。

 誠はその男を知っていた。

 誠の学校で人気のある上級生だ。軽薄な男でしかないが、女子には誰にでも優しい事が学年を問わず女子に評判だった。成績も素行もあまり良くない男ではあるが、外見と女子に対する振舞いだけは誰よりも優れている男だった。面識があるわけではないが、彼の事を誠は生理的に嫌っていた。大嫌いだった。

 誠の大嫌いな男が、誠の大好きな彼女と歩いている。恋人同士として。

 その現実は誠の信じて来た物を打ち砕くには十分に過ぎた。

 抵抗の出来ない息苦しさが誠を襲う。

 気が付けば涙を流していた。

 周囲の通行人に気付かれないように、電信柱の裏に自分の身体を潜めるように隠れる。

 涙は止まらず、無力感と不快感、絶望感が誠の肉体を駆け巡り続けていた。

「くそっ……」

 涙に濡れた声を喉の奥から搾り出した。

「俺だけ盛り上がってたって事か……、畜生」

 泣きながら拳を電信柱に叩き付ける。

 一撃で指の皮が捲れあがった。それほどまでの速度で再び電信柱を殴り付けた。

 薄々そうではないかと気付いてはいた。

 彼女が男と付き合っている事ではない。

 彼女が男と付き合うのは勝手だ。彼女には彼女の人生があるし、彼女には彼女の恋愛がある。それについては自分が口を出す事ではない。彼女は男と付き合っているという事を言わなかっただけで隠していたわけではないし、勝手に彼女に恋人が居ないと勘違いしていた自分自身の不覚を責めればいいだけだ。

 しかし、だ。

 それでも誠の中には不快感以外の別の感情が支配していた。むしろこれまでの感情が全て消失していく奇妙な気分だった。誠の中のこれまで信じていた真実は全て消失し、誠の全ては真っ白になった。

 白だ。一切の。

 不意に誠の中に灼熱の如き幾つもの感情が湧き上がり始めてくる。これまで気付かない振りをしていた、自分の中の醜悪で絶望的な感情だ。何故か誠はそれらの感情を心地よく感じていた。

 感情の名は憎悪、諦念、達観。誠は自分の内の感情を受諾した。抵抗する気も起きなかった。むしろ解放的な気分とも言えるだろう。信じていた物が消失し、分かりかけていた真実が誠の中で明確になってくる。無論、分かっていた事だった。誰もがそれについて語る事から逃げているが、その実、全ての人間が理解している簡単な真実だった。

 この世界の理。誰にも変える事が出来ないこの世界の事実だ。

 つまり人間は平等ではないという事実。

 人間は平等ではない。生命も平等ではない。人間の生命の価値は断じて同じではない。分かり切った事だ。誰もがそれを認めたがらないが、世界を少しでも見渡せば平等という言葉は何も知らない愚鈍の戯言に過ぎない事が分かるだろう。嘘だと思うならば世界を見渡してみればいい。平等な物など一つもない。全てに価値が付けられ、無価値なものは処分され、排斥されていく。それこそ物でも人でも変わらない現実だと誠は確信する。平等ではない故に自分は切り捨てられただけなのだと。

 誠は生まれつき外見に優れていなかった。他にも人より劣った物は多かったが、一際外見だけが誰よりも劣っていた。人間は外見ではないと人は言うがそれは誤りだ。人間は外見ではないと言い張るのは、いつだって容姿の優れた者だし、容姿に優れない者は優れた者よりも遥かに低い扱いを受けるのは周知の事実だ。

 誠も小学生の時分から既に気付いてはいたのだ。自分の容姿は人よりも劣っていると。他の事は努力でどうにか出来るが、容姿だけは自分だけではどうしようもないのだと。だから自分は容姿以外で優れた人間になろうと、ずっと努力し続けていたのだ。

 そうして誠は容姿以外ではかなり優れた人間になれたのだ。

 それでも欲しい物は手に入らなかった。

 自分に手に入らないだけならばいい。それだけならばまだ誠も我慢出来る。

 誠がどうしても我慢できないのは、自分が努力しても手に入らない物を努力もせずにいとも簡単に手に入れる事ができる人間が確かに存在するという不平等だった。あの大嫌いな男が誠の大好きな彼女をいとも簡単に手に入れる事ができたように。恐らくは何の苦労もなく、生まれ持った口の上手さと外見だけを武器として。

 誠は彼女が好きだった。好き過ぎて告白が出来ない程、彼女を愛していた。少なくともあの男より数倍は。本当は彼女と手を繋いで歩きたかった。二人で平凡でいい恋愛関係を築きたかった。

 誠はずっとそれを夢見ていた。

 人間とは外見だけの存在ではなく、それを実現させられるはずだと信じていた。

 しかし無理だった。幻想でしかなかったのだ。誠がそうと信じていた夢は。

 何も彼女に限った話ではない。これまで誠が好きになった女子は全て誠を拒絶した。それらの女子が恋人として選択するのはいつも誠ではなく、外見に優れている男だった。無論、それらの女子を責める気は誠には無い。それは人間として当然の感情だ。この世界は平等ではなく、外見に優れた者が欲しい物を簡単に手に入れる事ができる世界であるというだけだ。

 それを誠は考えないようにしていた。認めてしまえば、自分の行ってきた事、信じてきた事が何もかも幻想に変貌してしまうのだから。

 だが誠はもうそれを受け入れるしかなくなった。

 人間とは平等ではない。生まれ持った物でその後の人生がほぼ決定付けられる。力を持たない者は恵まれた者から搾取され続ける存在でしかない。どんなに望もうとも、欲しい物を手に入れる事など決してできない。

 誠の場合は外見に優れなかったが故に欲しい物を手に入れられない。それだけだ。

 故にこそ。

「奪ってやる……」

 気が付けば口に出していた。

 幸福とは他人の不幸でしかない。あの男の幸福が誠の不幸であると同じように。幸福になるという事は、他人の不幸を望み続けるという事なのだ。故に誠が幸福になる為には、少なくともあの男以上の力を得て欲しい物を奪い取らねばならない。あの男がそうしたように、誠もそうしてやらねばならない。

 平等など存在しないこの世界で、生きる為に必要な行為は搾取でしかないのだから。

 想いだけでは、何も伝わらない。想いなど、力の前では無力なものでしかない。

「奪い取ってやる、何もかも。あいつからも、どいつからも……」

 それが彼の、誓いだ。

 名前を変えた現在に至っても、彼の誓いは未だに消え去ってはいない。

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