九話「I CALL YOUR NAME」
庚は夕陽を見るといつも思い出す。
彼女が両親の不倫を知ったあの日の事を。
中学三年生であったあの日、庚はバレー部の部活動で使う体操服を忘れた事に気が付いて、自宅への帰路を急いで駆けていた。庚の中学校では三年生になっても部活動を引退するか否かは自由であるため、庚はまだバレー部に在籍していたのだ。
少し早い夕陽に照らされながら、庚は自宅へと急いだ。
自宅の鍵が掛かっている事に気付いた時、庚は少しだけ違和感を覚えた。専業主婦である母親自宅から外出する事は殆ど無いし、普段庚が部活動後に自宅に戻った時も、自宅に鍵が掛かっていた事はこれまでなかったからだ。
しかし、そういう事もたまにはあるだろう。もしかしたらお母さんに急用でもできたのかもしれない。と庚は軽く考えて、自分の鍵を作って自宅の鍵を開けた。過去から庚は深く物事を考えない少女だった。
玄関には母親の靴が残っていた。
そして見覚えのない男物の靴が隣に脱ぎ捨てられていた。
そこで気付くべきだったのかもしれない、と庚は未だに考える。
自宅に鍵が掛かっていて母親と見知らぬ男の靴が並んでいるなど、よく考えれば辿り着く結論は一つだろうに、その時の庚は何も気付かなかった。何も気付けなかった。無知で何も考えられない、無力な中学三年生に過ぎなかった。
だから、その時の庚は玄関に並んだ靴を訝しく思いながらも、それでも体操服を取りに行くために自室へと駆けようとした。急がねば部活動が終了してしまうし、過去の庚にとってはバレーボールこそが青春を懸けるに値するものだったからだ。今でもそのバレーボールに対する情熱は変わっていないが情熱だけでやっていけるほど簡単な競技でもない。
とにかく自室に戻ろうとした瞬間、庚はようやく居間で母親が何かをしている気配に気付いた。母親が在宅しているのであれば、何をしているにせよ、せめて母親に一声くらい掛けておこうと庚は居間に向かった。
そこで庚の精神は罅割れてしまう事になる。
ガラス張りの扉の向こうには母の艶姿があった。
母親は全裸で父親ではない見知らぬ男と絡み合い、嬌声を上げていた。
見た事もない、一生見る事もなかったはずの母親の女の姿。
母親も男も庚には気付いていなかった。それほどまでに行為に熱中していたのだろう。
ただの雄と雌として、母親と男は肉体を重ね合わせていた。
まだ処女で性的に無知であった庚ではあったが、この世界に不倫という行為が存在する事は知っていた。そういう関係の男女が存在する事も知ってはいたが、それは液晶の向こうか何処か遠い世界の事で自分とは何の関係もない世界での出来事だと思い込んでいた。天使と悪魔が住んでいると天界や魔界の如き異世界での出来事だと信じ込んでいたのだ。
まさか自分の母親がそうだなどと思うはずもなかった。
まるで現実感が無かった。
自分は夢を見ているのではないかと思え、庚はその場から微動もできなかった。見てはいけないと分かってはいるのに、母親の嬌声から耳が離れない。母親の艶姿から目を離す事が出来ない。その場に立ち竦んで、ただ母親の乱れる姿を傍観し続ける事しかできなかった。そうする事しかできなかった。
母親が庚の姿に気付いたのは、全ての行為が終了してからの事だった。
扉の向こうで立ち竦む庚を見て、母親は小さく溜息を吐いていた。相手の男に服を着させて家から追い出すと、母親は自分も服を着用してから何も言わない庚に向かって信じ難い事を口にした。口の端に笑みさえ浮かべて。
「お父さんに言っても構わないわよ」
飄々と、清々しさすら感じさせる口調で、母親はそう言った。
口止めされた方がまだ何倍も良かったかもしれない。
しかし母親は庚を口止めしようとはしなかったし、どころか庚に自分の不倫の事実を知られた事を喜んでいる節さえあった。いや、実際に喜んでいたのだ、庚の母親は。後で庚が知った事だが、母親はいつか庚か誰かに自分の不倫を知られるために、自宅で何度も行為に及んでいたらしい。それはそうだろう。本気で不倫をするのであれば、よりにもよって自宅で行為に及ぶなど有り得るはずもあるまい。
つまり嫌がらせだ。母親は父親への嫌がらせの為に不倫に及び、自らの娘すらも巻き込んで自分の夫への幼稚な嫌がらせを果たそうとしていたのだ。それほどまでに母親は自らの夫の事をどうでもよく思っていたのである。
どうして、と庚は絶叫した。
どうしてお父さんの当てつけの為に不倫なんかしたの、と。
すると母親は容赦のない言葉を庚に浴びせ掛けた。
もしかすると母親はあの時点で既にあらゆる人間性を失っていたのかもしれない。庚が気付いていなかっただけで、ずっと過去から、庚が生まれるよりも以前から、母親はおかしくなっていたのかもしれない。それを庚や父親に気付かせないように振舞っていただけだったのかもしれない。
母親は言った。父親には初めから愛情などなく、ただ何となく父親と付き合っていた時に庚を妊娠してしまったから夫婦になっただけなのだと。最初から父親との間に愛などなかったのだと。そして、その父親も結婚直後から不倫を繰り返していたのだと。庚の知らなかった事、知りたくなかった事を母親は全て言った。
そうして、庚は自分の全てを否定された。
愛情のない夫婦の間に産まれた自分は望まれた子供ではなく、どころか父親への嫌がらせの為に利用されるようなどうでもいい存在でしかなく、普通の家庭だと思っていたのはただの自分の勘違いでしかなかったのだと思い知らされた。
庚は全てを失った。存在価値も、生きる意味も失った。
自分という存在がとても脆弱なものに思えて仕方がなかった。
瞬間、庚は二階の自室へと駆けた。
自室に鍵を掛け、ベッドの上へと身体を投げ、布団に包まって胸を押さえた。
母親は追って来なかった。
やはり母親にとって、庚などどうでもいい存在だったのだろう。
自らの全てを否定された庚はただ布団に包まり、涙を止められず、ただ啜り泣いて、自分の生を呪い、何度も自分の拳を布団へと叩き付けた。何度も何度も、自分の拳から出血してしまうほどになっても、拳を叩き付けるのを止めなかった。
どれくらいそうしていたのかは分からない。
気が付けば陽は落ちて窓の外は暗黒に満ちていて、階下から言い争う声が響いていた。
言い争っているのは、父親と母親のようだった。
母親が自分の不倫行為を父親に告白したのだろう。
おそらくは自慢気に。庚にそうしたように。
それを聞きたくはなかった。
庚は目を閉じて両手で耳を強く塞ぎ、暗黒の世界に身を投げた。
だが……。
耳を閉じても、目を閉じても、母親の全裸の姿と嬌声が頭から離れない。
自慢するかの如く庚の存在を否定した母親の表情を忘れられない。
そして恐らくは母親と似た考えを持っているのであろう父親の姿をも想像してしまう。
胸が張り裂けそうだった。呼吸が荒く、心臓が動悸し、頭が痛い。
気が付けば自殺を考えてしまっている自分が居て、両親の言い争いに堪えられなくて、目と耳を閉じても己の内から溢れ出る絶望に呑み込まれてしまいそうで、涙が止まらなくて、自分という存在が不必要なものとしか思えなくて。
庚は自室の窓から身を投げた。
もう自宅には居られない。戻れない。居たくない。戻りたくない。
思った時には、二階だと言うのに窓から庭に飛び降りていたのだ。痛くはなかった。何処かから出血しているかもしれなかったが、そんな事はどうでもよかった。靴も履かずに庚はそのまま夜の道を駆けていた。
一刻も早く、自宅から少しでも遠くに離れたかった。
あの場所に居ては自分の存在が消えてしまう。心が壊されてしまう。
故に庚は駆けた。涙を流しながら長髪を振り乱して、何処に行けばいいのかも分からず、ただ自分の呪われた生を絶望しながら、望まれていなかった自分の生命を後悔しながら、そうして庚は逃げ出さねばならなかった。
数時間後、元宇品の山中で廃人のように脱力していた庚を発見したのは、他の誰でもない香苗と裕だった。庚の自宅が香苗の自宅の近所にあるために庚の家の変化に気付いたらしく、それから庚の探索に繰り出してくれたようだった。
「大丈夫か、庚?」
香苗の言葉に庚は一つの事しかできなかった。
それは香苗と裕の名を呼ぶ事だけだった。
涸れ果てたと思っていた涙が再び溢れ出し、そのまま庚は大声で慟哭した。普段は無愛想な香苗に優しく抱かれ、庚は香苗の胸の中でいつまでも泣き続けた。声が嗄れても、涙が涸れそうになっても、いつまでも泣き続けた。
それから数ヶ月間、庚は香苗の外界からの接触を完全に絶った。
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