八話「SWEET FANTASY」

 買い物に行くという沙羅達を見送った後、香苗は待ち合わせをしていた庚と合流して、うさぎを中学校まで迎えに行った。放課後までもう少しだけ時間があったが、別に早い分には何の問題も無い。

 校門付近でうさぎを待っていると、少し手持ち無沙汰を感じていたのか、庚がうさぎの中学校に住んでいるらしい猫と戯れながら呟いた。

「ねえ、香苗」

「どうしたんだ?」

「うさぎとの生活はどうなん? 生活してて何か思うことはないん?」

「どうと言われても困る。つまらない答えかもしれないけど、普通だな」

「ほうなん?」

 また呟いて庚が視線を猫の方に向けた。

 時折、猫が靡く庚の長髪に猫パンチを繰り出していたが、庚はそれを気にしていないようだった。いや、それ以上に気になる事を考えているのだろう。今日の彼女は普段よりも感傷的に見えた。

 その理由は聞かない方がいいかもしれなかった。

 だが香苗はその庚の普段とは違う様子を無視する事ができなかった。香苗は庚の友人であるのだし、庚も香苗の友人なのだ。そうである以上、やはり香苗は庚が感傷的である理由を聞いておくべきなのだろう。

 故に香苗は訊ねた。できるだけ何でもなく、普段と語調を変えずに。

「どうしたんだよ、庚? 何か気になる事でもあるのか?」

「ほうかもね」

 庚は猫から目を逸らさずに小さく呟いた。

「香苗は悪魔って何だと思う?」

 突然の質問に香苗は即座に応じる事ができなかった。

 庚も答えは期待していなかったらしく、香苗の答えを聞くより先に続けた。

「ウチ、別に悪魔が嫌いなわけじゃないんよ。うさぎだってよくは知らんけど、多分いい子じゃないかって思うしね。あの子自体が嫌いなわけでもないんよ。でも何となく悪魔の考えとる事は納得いかんのよね」

「何が?」

「悪魔の人は誰とでも恋愛しとるよね? 同性だろうと異性だろうと、悪魔の人は誰も拒絶せずに恋愛関係になっとるみたいなんよ。勿論、それはそれでいい事なんじゃろうけどウチは何か違うような気がするんよ。悪魔の人が何を考えとってもそれは自由よ? じゃけど誰とでも恋愛をする悪魔の人を見とると、何か胸の奥で変な感じがするんよね……」

「それはまあ……、そうだけど……」

 庚の言葉に賛同して香苗は頷く。

 無論、庚の言葉の真意はまだ分からなかったが、言わんとしている事は香苗にも分かった。悪魔は誰とでも恋愛をする、と庚は語るが、何も悪魔に限った話ではない。人間の中にでも、どんな民族の中にでも、誰とでも恋愛をする人間は存在している。そういった類の人間はまだ十六歳の庚には理解が出来ない存在なのだろうと香苗は思う。いや、香苗にも理解できる話ではないのだが。

 仕方無いよな、と香苗は深い溜息を吐く。

 庚の両親は互いに不倫相手を外に所有している。庚の父親は何人もの同僚の女を不倫相手として囲っているようだし、庚の母親は若い男に手を出し続けているらしい。両親してどうしようもないと言うべきか、とにかく庚の両親は夫婦でありながらお互いを愛さず、他に愛するべき相手を常に探し続けている。

 そして、その両親の現実を庚は知っている。見せ付けられている。

 庚が中学時代にその現実を知ってしまった時、庚は数ヶ月香苗の自宅へと逃げ込んで外界からの接触を絶った。中学三年生の受験の時期だったというのに、これからの人生を決定付けるかもしれないほど大切な時期だったというのに、庚は外界と両親から逃げ出す事しかできなかった。自分が置かれている現実に堪えられなかった。むしろ逃げ出していなければ、逆に庚の心は更に壊されていたかもしれない。

 結果、庚は高校受験を受けなかった。受けられなかった。

 故に庚は現在香苗と共に仕事をしている。今でこそ多少は落ち着いて自宅に戻って生活してはいるものの、庚の心は未だに罅が入った状態に近い。両親には喋り掛ける事は絶対にしないらしく、家の中で顔を合わせる事すら避けているらしかった。それでも結局は両親の庇護が無ければ生きていけない庚は自分の無力を嫌悪し、それこそ香苗より仕事に力を入れて働き続けている。

 最終的には高卒資格を得て、大学を卒業し、いい企業に入り、それからあの両親にこれまでの自分の養育費、学費、家賃、それらの金を全額叩き付けて、絶縁してやるのが目標だと庚は語っていた。

 庚がそれを望むのであれば、香苗はその力になりたいと思っている。両親だからと言って遠慮する必要は無い。両親の存在そのものが庚を傷付けるのなら、香苗は全力で庚を両親から護るつもりだ。それこそ庚の友人である香苗の役目なのだろうから。

「ウチ、うさぎが嫌いなわけじゃないんよ」

 掠れた声で庚が呻くように言った。

 何度も、繰り返した。

「悪魔が嫌いなわけでもない。ウチが嫌いなんは、ウチが怖いんは……」

 それ以上の言葉を庚は言わなかった。言えなかったのかもしれない。

 それから庚はただ猫と戯れるだけで、香苗の方に視線を向けようとはしなかった。

 香苗は何もできなかった。

 放課後近く、夕陽に近い太陽に照らされ、ただ庚を見続ける事しかできなかった。

 庚は無力だ。香苗も無力だ。二人ともまだ小娘に過ぎない。

 現実という奔流に、いつも流されて溺れそうになってしまっている。どうする事もできない現実、香苗達はそれに抗うしかない。例え決して抗い切れない奔流だと痛いほど分かり切っていてさえも。

 天使が存在するこの街でも、人間は決して救われない。

 悪魔に逃げ込んでも、人間は決して救われない。

 人間を救えるのは人間だけで、そして、殆どの人間は自分すらも救えないのだろう。

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