三話「突撃ラブハート」

 九条蒼鬼という男が居る。

 蒼鬼と書いて『そうき』と読む。

 趣味の悪い名前だが彼は悪魔ではない。天使でもない。人間だ。

 彼は初対面の時から蒼鬼と名乗ってはいたが、本名ではないはずだと香苗は思っている。と言うよりも、この人間の世界に九条蒼鬼という趣味の悪い本名を持った人間が存在しているとは考えもしなかったし考えたくなかった。そんな痛々しい名前を子供に名付ける両親が存在すると考えるより、蒼鬼自身が自分自身に痛い通り名を付ける痛い人間なのだと考える方が気が楽だった。

 そして、蒼鬼は名前もそうだが、それ以上に性格も痛々しい人間だった。

 見た感じでは一見聡明そうな印象を受けるが騙されてはいけない。彼が聡明に見えるのは、彼が自分を聡明に見せると女が寄ってくる事を知って演技しているという意味に過ぎない。

 例えば彼は趣味をピアノ演奏と語るが、彼は実はピアノを演奏できない。そう、彼の趣味はピアノ演奏ではなく、自分の趣味がピアノ演奏なのだと人に思わせるのが趣味なのであった。ピアノ演奏が趣味なのだと語れば、大抵の女性は彼を聡明で芸術的な人間だと思うだろう。ピアノが演奏できる人間は聡明だという印象を持っている人間の質も高が知れてはいるが、彼はその嘘を信じ込ませるだけの技術も持ち合わせているのである。

 その蒼鬼が、何故か香苗の自宅前で何者かと何事かを話していた。

「あれ蒼鬼かね?」

 香苗の家よりも奥に入った場所に家がある庚が、蒼鬼の顔を認めて小さく呟いた。

「ああ、蒼鬼だな。あたしの家の前で何をやってるんだ、あいつは?」

「誰かと話しとるみたいじゃけど……」

 蒼鬼が誰と話をしているのかは、暗がりのせいでよくは見えなかった。

 香苗は目を細め、どうにか暗がりにいる蒼鬼の話し相手の顔を見ようと目を凝らした。まさかとは思うが、蒼鬼が裕を口説いたりしていた日には彼を殴り飛ばさなくてはならないからである。

 しかし、蒼鬼と話している相手の顔をどうにか確認出来た香苗は、小さく安堵の溜息を洩らした。蒼鬼と話しているのは裕ではなかった。蒼鬼と話している相手の顔は香苗の見覚えのあるものではなかったが、その人物の額には大きな角が生えていたのだ。蒼鬼が話しているのが悪魔である以上、その人物は人間である裕では有り得ない。

 その彼女の一喜一憂を見ていたのだろう。庚が長髪を指で弄びながら微笑した。

「どしたんよ、香苗? 蒼鬼が裕さんと話しとるわけじゃなくて安心した?」

「まさかだろ? お姉さまがあんな軽薄男に引っ掛かるわけがないしな」

「あっそ、ふーん」

「何だよ、その反応は」

「ま、どっちでもいいじゃんか。それにしても蒼鬼は香苗んちの前で何しとるんかね? 住人の迷惑ってもんを考えてほしいよね」

 庚の言う通りだった。遺憾ながら香苗と蒼鬼の家は近いのだが、流石に香苗の家の眼前にあるほど近いはずもない。香苗の家の前で誰かと話をしているのは明らかに不自然だ。加えて蒼鬼などが悪魔とどんな会話をする必要があるのだろうか。

 仕方なく蒼鬼の所まで近付いて行って、後方から彼に気付かれないよう蒼鬼の頭を軽く小突いてやった。今のところは蒼鬼に大した恨みがあるわけではないが、これまで迷惑を掛けられていたし、どうせ悪魔ともろくな話をしていないだろうから先に小突いておいて問題は無いはずだった。

 唐突に後頭部を殴られた蒼鬼は少し不機嫌そうな表情で振り向いたが、香苗の姿を認めた途端に困った様な苦笑を見せた。

「やあ、香苗ちゃん」

「『やあ、香苗ちゃん』じゃねーよ。人の家の前で何をやってるんだ、おまえは」

「いやいや、こっちにも色々と事情があるんだよ」

「どんな事情だよ。さあ、答えろ」

「選択権は?」

「与えてやってもいいけどさ」

「参考までに聞くけれどもどんな選択なんだい?」

「選択肢は二つだ。一つ、事情を洗いざらい話す……」

 そこで香苗は勿体ぶって間を空けた。

 沈黙。

 香苗には短い時間だったが、蒼鬼にはひどく長い時間に感じられただろう。

 三十秒ほど経って、香苗は優しい笑顔で甘える如く蒼鬼の首筋に手を添えた。

「or die」

 笑顔のままで少し力を込めると、蒼鬼は思わせぶりに大きな溜息を吐いた。

「話すよ。殺されたくないし、どっちにしろそのつもりでここに来たんだから」

「そうなん? 珍しいね、蒼鬼が香苗に用があるなんて」

 香苗達の様子を横から半笑いで見ていた庚が唐突に話に入る。

 蒼鬼は香苗から庚に視線を移動させ、肩を竦めながら続けた。

「いや、そうじゃないよ。俺は香苗ちゃんじゃなくて、裕ちゃんにお願いがあってここまで来たんだ。だけど、留守みたいだからここでこの子と待たせてもらってたんだよ」

「仕事ねえ。彼女っていうのは、こちらの悪魔の人なん?」

「ああ、そ……」

 そうだよ、と言おうとしたのだろうが、蒼鬼のその言葉が口にされる事はなかった。

 香苗の表情が般若の如く憤怒の様相を醸し出していたからだ。

 それでやっと蒼鬼も思い出したに違いない。

『裕ちゃん』などという馴れ馴れしい呼称を、香苗が心底嫌っているという事を。

 香苗が『裕ちゃん』呼びを許している相手など、片手で数えられるほどしか居ないのだ。勿論、その中に蒼鬼は入っていない。

 もう何度か蒼鬼の後頭部を小突いてやろうかと腕を振り上げた瞬間、香苗は蒼鬼の傍で怯えた表情を見せている悪魔に気付いた。

 可哀想に、小刻みに震えている様にも見える。

 悪魔相手とは言え初対面の人の前で浮かべるべき表情ではなかった、と香苗は反省する。これも仕事と割り切らねばならない。香苗の悪評は裕の悪評にも直結するし、それは香苗の望むところではない。

 香苗は蒼鬼から目を逸らして、軽く咳払いした。

「それで蒼鬼? この悪魔の人は誰なんだ? この子が依頼人なのか?」

「ああ、うん。この悪魔の人は俺の個人的な知り合いだよ。少々困った事があってね、裕ちゃ……裕さんに仕事を任せようと思ったんだよ。裕さんなら間違いないし、天使だろうと悪魔だろうと意に介さずに仕事を引き受けてくれるだろうからね」

「そうだな、おまえのその判断だけは間違ってないよ、その判断だけはさ」

「あの、えっと……」

 自分の話す順番が来たと判断したのか、蒼鬼の隣の悪魔の少女が小さく口を開いた。

 香苗が視線を向けた途端、彼女は礼儀正しく頭を下げる。

 四十五度傾いた見事なお辞儀だった。非常に礼儀正しい悪魔と思わざるを得ない。

 礼儀正しい悪魔とは言い得て妙かもしれないが、礼儀正しい悪魔は少なくないし、むしろ広島では天使よりも悪魔の方が礼儀正しいくらいだった。

 香苗もよくは知らないのだが、悪魔の世界は力こそ全ての世界らしい。力こそ全てと言うと響きはよくないが、つまるところ実力主義で体育会系の世界だと言い換える事もできる。実力社会の世界では、弱者は強者に礼儀正しく振舞うのは当然だった。

「私、怨念うさぎって言います。怨念が苗字で、うさぎが名前です。悪魔です。これから裕さんにも香苗さんにも大変なご迷惑をお掛けするかもしれませんが、よろしくお願い致しますっ!」

 悪魔、いや、うさぎは頬を紅潮させ、深く頭を垂れた。

 この悪魔の少女が裕にどんな依頼を持ち込むのか、それはそれで興味深いが、香苗はそれ以上にどうでもいい事を考えてしまっていた。それは『どうして天使も悪魔も変な名前が多いのか』という人間として至極当然な問いだった。

 のぞみ・みどりいろ(天使)。

 怨念うさぎ(悪魔)。

 これらの名前を聞いただけで、天使と悪魔の名前だと判別出来る人間はそうは居ないだろう。少なくとも広島に天使と悪魔が降臨するより以前、二十年前の世界の人間にはどうやっても信じてもらえなかったに違いない。

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