二話「ANGEL VOICE」
香苗と庚は俗に言う何でも屋を生業としている。
何でも屋の所長は裕。従業員は天使と悪魔を含めて八人という小規模な事務所だ。高校に行っていない小娘である香苗ができる仕事などその程度だし、昔から裕の行う仕事に憧れていた彼女は迷わずその事務所に押し掛けた。
何でも屋と言っても、劇作のように派手な依頼を請け負うわけではない。探偵の様な職業では断じてない。
迷子のペット探し、喧嘩の仲裁、足りない人手の代わりに至るまで、香苗達の仕事は多岐に渡るが、無論、犯罪に繋がる依頼や面倒事は引き受けない。報酬に見合わない仕事は百害あって一利無し。自分の首を絞めるだけだ。
その彼女等の今回の仕事は天使からの依頼であったが、非常に簡単な依頼だったためか裕はその依頼者の話を聞いた後にすぐにその仕事を香苗に回した。
今回の依頼者の天使は自らの名前をのぞみ・みどりいろと呼称した。
天使達は一風変わった名前を固有名称として有している。
何、日本語に訳せば多少変わった呼称ではあるが、外国人風に英語に訳せばホープ・グリーンという平凡な名前にならなくもない。天使の名前は既存の名詞や動詞で付けられる事が多いというだけの事だ。
勿論、天使と言っても人型とは限らない。
天使を人間の姿を模している(いや、逆か)と考えているのはキリスト教圏の人間に多いが、他の宗教では天使を人型に断定していない事も多い。その意味では広島の天使はキリスト教圏の天使ではないのだろう。もっとも、そもそも広島の天使はキリスト教の神の名を語ってはいないのだが。
現に今回の依頼者、のぞみは猫型だった。白い躯体に白い翼が生えている猫型の天使。
それが、のぞみ・みどりいろだった。人語を解して話す事が可能なので、無論単なる翼の生えた猫ではない。
広島に観光する際、注意する事の一つがそれでもある。
観光者がただの野良猫だと思って餌をやろうとすると、実は天使で、ホームレスみたいな扱いをするな、と説教されてしまう事もあるので要注意だ。野良猫、或いは野良犬を見掛けて餌をやろうとする際は、一声掛けてから餌をやるのが広島での正しい野良の扱い方である。特に広島は宮島の鹿が有名だが、稀にその中に鹿型の天使が混ざっている場合もあるので更に要注意だ。
「それで今回の依頼ですけれども」
香苗と顔を合わせたのぞみは、最近の若者でも使えない流暢な日本語を駆使した。
格好だけを見ると不思議な姿ではあるが、彼女の依頼は単なる依頼はビラ配りの補助だった。友人の人型の天使が風邪で寝込んでいるらしく、彼女の天使布教活動の一環であるビラ配りが行えなくなってしまったらしい。そこで香苗達に仕事を回す事になったのだそうだ。
天使がビラ配りとは他県の人間からは妙に見えるかもしれないが、広島での天使のビラ配りは一種の名物と言えるほど日常的な光景である。過去に広島に降臨して以来、天使は様々な場所で道徳を説きながらビラ配りをしているのだ。
それはそれでよい事ではあるのだろうが、当然と言うべきか人間からはかなり迷惑がられている。道徳は道徳で大切なのだろうが、街角でビラ配りまでされると逆らいたくなってしまうのが人間の性質というものだ。
天使が何故布教活動を行っているのかは誰も知らない。
香苗も一度街角の天使に聞いてみたのだが、彼等も明確な答えを持ち合わせてはいなかった。と言うより彼らも深くは理解していないらしい。何故人間が生きるのか、その答えを人間が出せないのと同じく、何故天使が道徳を叫ぶのか、その答えを天使も出せてはいないというだけの事だ。
考えている天使も少ないようだが、天使の事情など香苗には関係なかった。香苗は依頼された仕事を全うするだけであり、天使も香苗にそれ以上の事は望まないだろう。
ビラ配りは平和公園前で夕方近くまで続けられた。十分な成果とは言えないかもしれなかったが、少なくとも百人近くには配布出来たはずだった。のぞみも香苗の成果にそれなりに満足したようで、予定の報酬よりも少し色を付けてくれた。
その日の仕事はそれで終わりだった。のぞみとは平和公園前で別れた。彼女は翼を翻し、ビラの入った箱を翼に掛けて引きずりながら去っていった。箱が傷だらけではあったが、やはりのぞみはそんな事を気にも掛けはしないだろう。
市内電車に乗って帰路に着いた頃、香苗は何となく庚に訊ねていた。
「そういえば庚?」
「あに?」
指で枝毛を探しながら、気の無い様子で庚が反応した。
「今更こんな事を訊くと馬鹿みたいなんだけど」
「香苗が馬鹿なのは今に始まった事じゃないしね。あによ?」
「天使って翼は体内に収納自在なんだよな?」
「まあ、そうらしいけど?」
「どうなってるんだろうな、あの翼? 久し振りに猫型の天使を見て疑問に思ったんだけど」
「確かによう分からん構造じゃね……」
「大体、あの翼って飛べんの?」
香苗が訊ねると、庚が何故か身振り手振りを交えて続けた。
「いや、飛べないらしいよ。あの翼って背中に生えてるだけみたいじゃね」
「何だよそれ。そんな翼、無用の長物じゃん」
「いやいや、そうでもないみたいよ? 天使とかの翼は力の象徴っていう話を聞いた事があるし。どうも翼は神様の眷属であるって証拠なんじゃって」
「ふーん」
言いながら、香苗は庚から視線を外して市内電車の外の光景に目をやった。
いつも市内電車から見ているその光景は、普段の光景と何ら変わりなかった。天使が歩いていて、悪魔がアルバイトをしていて、高校生くらいの人間が自転車に乗って家路についている。世界中で広島でしか見られない奇妙な光景ではあったが、広島に住む者にとってそれらは単なる日常の光景にしか過ぎなかった。
勿論、香苗の知らない場所では、いつもどこかで多くの悲劇が生じているのだろうが、それらは香苗とは何ら関係のない事だった。関係無いと断じなければ、何でも屋などやっていられない。
当事者以外には全く関係ない悲劇。世界は悲劇に満ち溢れ、悲しみに満ちている。悔恨の中で存在する人々も大勢居るだろう。香苗はそんな人間や天使や悪魔を何人も知っている。世界とはそう出来ている。誰のせいでもない。世界がそうやって存在する以上、住人はそれに従って生きていくしかない。
月明かりに照らされ、市内電車に揺られながら、香苗は何故かそういう事を思った。
それは恐らく、隣に座っている庚が瞳を潤ませて夕陽を見ていた事と、無関係ではなかったのだろう。
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