魔人の逆襲 四 真・魔人復活

「まぁ、待て」

 部屋の隅の暗がりから響いた声に、ナイラの胸に触れようとしていた手がぴたりと止まる。

「そう急ぐこともないだろう。

 俺は少しこの女と話がしたい」


 フードを目深に被り、表情のよく見えない小柄な男は、小さくうなずいて後ろに下がった。

 椅子に縛りつけられたナイラはほっと息をつき、顔を上げ厳しい視線を声の主に向ける。

 猿轡は警護の大男の手で解かれた。


「その声はシャシムであろう!

 顔も見せられんとは、卑怯者でも恥は知ると見えるわ」

 声を張り上げるたびに、上半身を裸にされ露わとなった彼女の大きな乳房が重そうに揺れる。


「ふん、言いおるわい……」

 名指しされたシャシム王は椅子から立ち上がり、彼女の側に歩み寄った。

 ランプの頼りない灯りに、髭面で逞しい体躯をした王の姿がぼおっと浮かび上がる。


「シャシムよ、これは何の真似だ。

 捕虜の待遇――それも一国の女王に対するものとしては、あまりに非礼ではないか!」


 砂漠の民の戦いでは、捕虜を虐待するような習慣はない。

 捕虜は適切な身代金と引き換えに帰されるのが彼らの常識である。

 しかもその額は呆れるほど安い。


 ただ、捕虜が名のある部族長、ましてや王ともなれば身代金の額は一気に跳ね上がる。

 当然、その待遇も丁重なものとなり、捕虜というより客人に近い扱いとなる。

 今、ナフ国のナイラ女王が受けているはずかしめは、ありえない暴挙である。


「そうだな……こういうのはどうだ?

 ナイラ女王は捕虜として護送される途中で、隙を見て警護兵の剣を奪って暴れ出した。

 抵抗は激しく何人もの兵が斬殺されため、やむなく取り囲んで討ち果たした。

 女王は捕虜にされるのを拒み、名誉の戦死をとげたと――。

 遺体は我らの手で丁重に葬ったことにしておこう。

 どうだ、悪い脚本ではあるまい?」


「なっ……貴様、気でも狂ったか!」

 身をよじって吼えるナイラ、そしてぶるんと揺れる乳房をにやにや眺めながら、シャシムは傍らから椅子を引き寄せて座った。


「俺は正気だよ」

 凄みのある声が低く響く。


「ナイラ、お前らのナフ族は砂漠の民でも古い血統を受け継ぐ部族――だったな?」

「それがどうした!」

「お前はその王族の直系の娘だ。

 俺にはよくわからんが、それが大事なんだそうだ」


 シャシムはそう言うと、左手を後ろの方へ伸ばす。

 彼は控えていた男から何かを受け取ると、ナイラの目の間に差し出した。

 その手の上には、鮮やかな青色に輝く鶏卵ほどの宝玉が乗せられていた。


「これは……、魔人の心臓ではないか? どうしてここに――」

「なに、うちの呪術師が砂漠モグラを操って回収したのよ。雑作もないことだ」

 呆然とするナイラに、シャシムは楽しそうに説明する。


 そして椅子から立ち上がると、両手を広げ芝居がかった動作で言葉を続けた。

「先の戦いは、確かに失敗だった。

 俺と呪術師は、失敗の原因を何夜もかけて検討したのだ。

 われわれの過ちは、サラーム教の伝承にこだわり過ぎたことではないか――それが俺たちの結論だった」


「そもそも古代の文献をいくら調べても、魔人があのような巨人だとは書かれていない。

 ただ魔人は一国を滅ぼすほどの恐ろしい力をもつ――とだけしか記されていないのだ。

 今回の魔人は、そもそも一万を超す人間を無理やり寄せ集めて造った身体だ。

 個としての意識や理性を期待するだけ無駄というもの。

 おまけに毒で拒絶反応を起こして、あっけなく崩壊してしまった」


 シャシムはそこでくるりと一回転した。そしてナイラの顔に息がかかるほど顔を寄せる。

「ならば、一人の人間に魔人の心臓を埋め込んだらどうなると思う?」


「貴様、まさか!」

 ようやくナイラは自分の置かれた真の状況を理解した。

 シャシムの酒臭い甘い息が、彼女の端正な顔に吹きかけられる。

「お前には、この魔人の心臓が生み出された古代王朝に連なる血が流れている。

 しかも俺ほどではないが、戦場では女豹の二つ名をもつ勇者だ。

 素材としては申し分あるまいよ?」


 シャシムは顔を離し、身を起こして上からナイラを見下ろした。

 そして右手でいきなりナイラの乳房を鷲掴みにした。

 シャシムの大きな手でも収まりきらず、柔らかな肉が指の間からこぼれ出る。

 たっぷりとした重みを楽しむように、二、三度掌を上下に揺すった後、彼は二つの指でぴんと立った乳首を摘まんで引っ張った。

 ナイラは痛みに思わず顔をしかめる。


「この身体は惜しいがな……。

 わが後宮に入れて存分に楽しみたいものだが……。

 お前にしゃぶらせたら、息子を食いちぎられそうだ」


 シャシムはからからと笑って、前を向いたまま左手の宝珠を後ろの男に渡した。

「さて、ナフの女王に敬意を表して説明は尽くした。

 待たせたな、やるがよい」


 王の言葉に促されるように、警護の兵が再びナイラに猿轡をかませ、シャシムの陰から不気味な男が進み出る。

 その右手には青く輝く魔人の心臓が握られている。

 男の身体は全体としては捉えられるのだが、細部を見ようとしてもぼんやりとしてはっきり見えない。

 それが人の目に姿をさらすことを極端に嫌う呪術師であるのは、容易に推測できた。


 ナイラはいやいやをするように首を振り、くぐもった呻き声を漏らすが、がっちりと椅子に縛り付けられた身体は動かすことができない。

 彼女の目の前に立った男は、何の躊躇ためらいも見せずに、青い宝珠をナイラの左胸に押し付ける。


 「じゅっ」という気味の悪い音を立てて、宝珠はナイラの豊かな胸にめり込んだ。

 ナイラの乳房が溶けたかのように宝珠が肉に沈んでいき、ぐちゅぐちゅとした青い泡が噴き出す。

 彼女は頭をのけぞらせて絶叫したが、猿轡をかまされていては呻き声にしかならい。


 実はこの時、ナイラは苦痛を感じていなかった。

 痛みはまったくなく、ただ自分の胸に潜り込んでくる異物によって、周囲の組織が何か自分ではない別のものに変わっていくような、酷く気持ちの悪い感覚に囚われていたのだ。


 もはや呪術師は宝珠から手を離していた。

 鶏卵大の青い塊は、ひとりでにナイラの肉体へ潜り込んでいき、彼女の左の乳房を中心に、どんどん青い色が広がっていく。

 部屋の中には、ナイラが発する呻き声だけが止むことなく響いていた。


      *       *


 女はゆっくりと目を開いた。

 しばらく呆けたように焦点の合わない目をしていたが、やがてその瞳に意思を感じさせる光が宿る。

「気がついたようだな、気分はどうだ?」

 声をかけたのはシャシム王だ。


 女は二、三度まばたきをしてから、黙ってシャシムを睨みつけた。

 その顔だけではなく、衣服を剥ぎ取られた上半身からつま先に至るまで、肌が青く染まっている。

 それは確かにさっきまでナフ国のナイラ女王と呼ばれていた女だった。


「自分のことがわかるか?」

 シャシムは再び声をかけた。

 ナイラは「ふん」と鼻を鳴らした。


「わかるさ。

 わらわは貴様たちが〝魔人〟と呼ぶ者だ。

 それより、この縄を解け。いいかげん鬱陶しくてたまらんわ」


「どうやら意識も知能もあるようですな」

 しわがれた声がぼそりと聞こえた。

 シャシムの背後の闇に隠れるように佇んでいる呪術師なのだろう。


「そうはいかん。

 まだ、お前がどれほど危険な存在かもわからんからな。

 しばらくはそうしていてもらおう」


 王の答えを聞いていないようにナイラは部屋の周囲を見渡している。

「貴様の指図は受けん。

 これしきの縄などどうにでもなる」

 そう言うとナイラは両手で自分の喉元に巻きつけられたロープを掴んだ。


「何を――!」

 シャシムが驚きの声をあげた。

 ナイラは後ろ手に両手首をがっちりと縛られていたはずである。


 彼女はあっさりと喉元のロープを引きちぎった。

 頑丈なロープはまるで紙でつくった〝こより〟であるかのようにぷつりと切れてしまったのだ。

 腹のあたりを何重にも巻かれたロープも、彼女が腹筋に少し力を入れると千切れて床に落ちてしまう。

 腿と脛のあたりを縛り付けていたロープも同じように、彼女が足を少し開いただけでぶちぶちと切れて床に散らばった。


 驚いたのはシャシムだけではなかった。

 ナイラの両脇についていた二人の警護兵も、慌てて抜き身の剣を手にナイラの動きを封じようとした。

 両肩を丸太のような腕で押さえつけられても彼女は全く動じなかった。


 肩に置かれた腕を片手で掴むと、軽く引っ張る。

 次の瞬間、兵士は覆面をした顔面から勢いよく地面に叩きつけられていた。

 「ぐしゃり」という音がして、兵士の鼻が潰れ鮮血が飛び散る。


 ナイラが掴んだ腕は、ごきっという音とともにあらぬ方向に捻り上げられた。

 同時に自由になったばかりのナイラの素足が、倒れた兵士の後頭部を踏みつける。

 軽く足を乗せただけのように見えたが、兵士の頭部は「ぱきっ」という乾いた音を立ててあっさり踏み潰されてしまった。

 高価そうな分厚い絨毯の上に赤い血と白っぽい脳漿が飛び散って染み込んでいく。


 もうひとりの兵士は「うおっ!」という叫び声をあげて飛び退った。

 そして剣を振りかざしてナイラの腕をめがけて振り下ろす。

 王からは「万一、ナイラが暴れても殺すな」と厳命されていたが、腕を一本切り落とすくらいは構わないだろうという、とっさの判断だった。

 そうしなければ、床に転がった仲間と同じ運命が自分に降りかかるだろう。


 裂帛の気合とともに豪腕で振り下ろされた剣。

 しかし、ナイラはそれをハエ叩きか何かのようにあっさりと受け止めた。

 それも、親指と人差指の二本だけで鋭い刀身を摘むようにしてである。


 ナイラが引っ張ると、剣は兵士の手からすっぽ抜け、軽い金属音を立てて壁にぶつかった。

 兵士はバランスを崩して前へつんのめる。

 それを彼女は軽々と抱き止めた。


 ナイラは百八十センチを超える大女だったが、兵士はそれ以上の上背と数倍の横幅がある。

 それをまるで母親が幼児を扱うかのように、片手で抱きかかえたのだ。

 彼女はじたばた暴れる兵士をうつ伏せに抱えたまま、残る左手で覆面をめくりあげた。

 男のうなじと後頭部が現れる。


 確実に百キロ以上ある男の身体を軽々と持ち上げると、ナイラは口を大きく開いた。

 きれいな白い歯並びの中で、犬歯だけが異様に長く鋭く尖っている。

 彼女は兵士のうなじにその犬歯を当てる。


 「ぞぶり」と牙が汗ばんだ男の首筋に沈み込む。

 たちまち玉のような血が溢れると、ナイラは口をつけてじゅるじゅるとそれを啜った。

「おおおおおおおおおおーーーーーっ」

 牙を打ち込まれた瞬間から、兵士はただ叫ぶだけで身動き一つしなくなった。


 薄暗い部屋の中に、男の血を啜り続ける濡れた音だけが響いていた。

 シャシム王も、王の呪術師も、一言も発することができずにそれを見つめている。

 ナイラの餌食となった兵士は、見る間に老人のように萎びていった。

 もう声すらあげず、ぴくりとも動かない。


 ナイラはやっと口を離し、満足したように「ほうっ」と溜め息を漏らした。

 見る影もなく縮んだ兵士の身体がころんと床に転がり、脳漿を撒き散らしてして死んだ仲間の横に並んだ。

「なかなか美味なる食事であった。

 心遣い感謝しよう」

 ナイラは凄絶な笑みを浮かべた。先程までは青かった唇が、この時だけは紅を引いたように真っ赤になり、艶やかに光っている。

 その赤い唇からは、まだ伸びた犬歯がはみ出したままだ。


 シャシム王がやっと口を開いた。

「魔人とは……吸血鬼だったのか……」


 そのかすれた声を聞いたナイラはにやりと笑った。

「なんだ、貴様ら。知らずにわらわを蘇らせたというのか……。これは傑作だな!」

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