魔人の逆襲 二 赤城よりの使者

 ユニがルカ大公国から帰国して三か月が経っていた。

 護衛を依頼された隊商から、そしてルカ大公からも多額の報酬をもらっていたので、彼女の懐にはかなりの余裕があった。

 そこで、指名の依頼以外はあまりオーク狩りの仕事を取らず、普段できない繕い物や勉強に精を出していた。


 その日の早朝、ユニは農家の女主人から借りている作業小屋の外で、ナガサ(山刀)の手入れをしていた。

 低い椅子に座り、水で濡らした砥石でていねいに刃を研ぐ。

 砥石は荒いのから仕上げ用まで三種類を使う。

 一心に刃を研ぐのは何も考えずに没頭できて、割と好きな作業だ。


 七月、初夏とはいえ早朝の空気は冷たく爽やかだった。

 次第に研ぎあがっていくナガサの刀身が、朝日に照らされて鈍い輝きを放っている。

 ところが急に日が翳り、明るい陽光に慣れた目が一瞬ブラックアウトし何も見えなくなる。


 ユニは眩しそうな顔を上げた。

 逆光で表情は見えないが、いつの間にか彼女の前に男が立っていた。

 誰なのかはすぐにわかり、彼女の小さな緊張が解けた。


「ずいぶん熱心ですね。

 お手入れですか?」

 のんびりとした声。顔にはいつも笑みが張り付いていて、目は糸のように細い。


「マリウス、こっそり忍び寄るなんて悪趣味よ!」

 ユニはもう彼への興味をなくし、ナガサの仕上げを続ける。

「こっそりとは失礼な。僕、ちゃんと声をかけましたよ。

 返事しないから側に寄ったんじゃないですか」


 彼の弁解は無視して、研ぎあがったナガサを丁寧に布でふき、刀身に油を薄く塗る。

 ふわりと良い香りが漂うのにマリウスは興味を惹かれたようだった。


「いい匂いですね。何の油ですか?」

「クローブよ」

「あの香辛料の?」

「そう、クローブからは油も採れてね。こうした刃物の保護にはちょうどいいのよ」


 ユニは余分な油を布でさっと拭き取るとナガサを木の鞘に入れ、鞘との隙間に何本かの小枝をねじ込んだ。

「何です、それ?」

 マリウスの興味は尽きない。


「こうやって隙間を埋めとかないと鞘から抜けることがあるのよ。

 それに革じゃなくて木の鞘だから、動くとカタカタ音が鳴るでしょ。それの防止でもあるの」

 ユニは素直に答えてくれる。どうも今日は機嫌がいいらしい。


「だったら、留め具のついた革の鞘にすればいいじゃないですか?」

「馬鹿ね、留め具なんてつけたら、いざって時にすぐに抜けないじゃない。

 これなら力を入れれば枝ごと引き抜けるわ。

 それにね、ほらこれ見て」

 そう言ってユニは鞘をマリウスの目の前に差し出した。


 見ると平べったい長方形をしている木の鞘には、細かい縦傷がたくさんついている。

「? ……なんか刃物の跡みたいですけど」

 ユニは鞘を引っ込めると正解を教えてくれた。

「そっ、これ、まな板になるのよね。便利でしょ」


「もうこのナガサも刃が減って限界に近いのよ。

 それでうちの師匠の古馴染みの野鍛冶さんに新しいナガサを注文してるんだ。

 これって結構高いのよ。

 今みたいに余裕がある時じゃないと、とても買えないの」


 ユニの機嫌がいいのは、どうやらナガサを新調するのが嬉しいかららしい。

 そのユニがふと気づいたようにマリウスに尋ねた。

「そういやあんた、こんな朝早くからどうしたのよ。何か用なの?」


 マリウスはユニ同様、懐がまだ暖かいのでほとんど遊んで暮らしていた。

「あー、そうそう。

 アリストア様から手紙が来まして、その伝言です」

 ユニはその名を聞いて露骨に嫌そうな顔をする。


「なんであんたの所にアリストア先輩から手紙がくるのよ」

「そりゃあ、定期的に報告を送っていますからね。

 魔人事変の報告書なんか、百枚越しましたよ。

 大変なんですから……」


 マリウスがいなかったら、その百枚の報告書とやらは自分が書くはめになっただろうな――と思うとぞっとする。

「それで伝言って、何?」

 彼は懐からマリウスの書状を取り出して広げた。


 いかにも貴族が使いそうな、透かしの入った上質の封筒と便箋だった。

「えーと……。

 『ユニがそんなに閑そうにしているなら、魔導院で講師をやるように伝えておきなさい。

 エディスが会いたがっているぞ』

 ――だそうです。

 誰ですか、エディスって?」


 ユニは溜め息をついた。

「白虎帝の副官よ。

 ちょっと変わったなの。気にしないでいいわ」

「はあ……それで、魔導院の講師をやるんですか?」


「うーん、どうしようかなぁ……。

 去年やった時は結構面白かったけど――」

『俺は反対だ!』


 突然ライガの意識が割り込んでくる。

『あの三か月は酷かった。

 寮のユニの部屋で寝てるしかやることがなかったからな』


 ライガは小屋の陰からのそのそ歩いてきて、マリウスの前でどかっと寝そべった。

「そんなこと言ってぇ~、ホントはあたしが一緒に寝てあげなかったのが寂しかったんでしょう」

 ユニがニヤニヤしてからかうと、ライガは「ふんっ」と鼻をならす。


 オオカミは何か言おうとしたが、そのまま何かに気づいたように上を見上げた。

『ユニ、どうやら魔導院行きはなくなりそうだぞ』

 ユニとマリウスはライガにつられて空を見上げた。


 上空の青い空、かなりの上空に黒い点が見える。

 それがみるみる大きくなっていく――いや、高度を急速に落としているのだ。

 もう、ユニにもマリウスにもそれが何かわかっていた。


 鷲の上半身にライオンの下半身をもったキマイラ、グリフォンである。

「ぶわっ!」

 落下から急制動をかけるグリフォンの羽ばたきで、小屋の周囲には盛大な土埃が舞って、ユニ、マリウス、そしてライガは酷い有様になった。

 風圧は地震のように建物を揺らし、母屋から慌てて飛び出してきた家主が、神話世界の怪物を目の当たりにして腰を抜かした。


 埃で全身真っ白になったユニは、駆け寄ってミムラさん(家主で寡婦)を助け起こし、騒ぎを起こしたことを謝った。

 女主人は「うちの鶏をとって食わないだろうね?」と、ぶつぶつ文句を言いながら引っ込んでいく。

 その間に、ふわりと着地したグリフォンの背で革の騎乗具を外していた人物が、するりと滑り降りてきた。


 分厚い革のジャケットとズボンにブーツ、頭にはやはり革の飛行帽を被り、着色ガラスのゴーグルとスカーフで顔を隠した姿は、少し異様な感じがする。

 ただ、ユニとマリウスには、顔が見えなくともそれが誰だかよくわかっている。

 赤龍帝の副官ヒルダ大尉である。


 ヒルダは出迎えたユニとマリウスが全身真っ白になっているのを見て、自分が引き起こした事態に気づいた。

「これは……申し訳ないことをした。何と言ったらいいか、その――」


「あー、いいからいいから。

 グリフォンに乗ってきたってことは、よっぽどの急用なんでしょ?

 でも、顔だけは洗わせてね。

 ヒルダさんは小屋で適当に休んでてちょうだい」


 ユニはバタバタと服を手で叩いて埃を払いながら、マリウスの腕も引っ張る。

「ほら、井戸で顔洗うわよ。あんたも来なさい」

 そう言って彼女は小屋の裏手にある井戸に向かった。


 ライガは身体をぶるっと震わせて埃を落とすと、「ふんふん」とグリフォンの匂いを嗅いで挨拶をしている。

 グリフォンの方はあまりオオカミに関心を示さず、毛づくろいに余念がない。


 ユニとマリウスが戻ってきて小屋に入ると、ちょうどヒルダが飛行服を脱いでいるところだった。

 マリウスが慌てて回れ右をすると、彼女は顔色を変えずにそれを引き留める。

「ああ、マリウス殿、気にしなくて結構です。別に裸になるわけではありませんから」


 ヒルダは分厚いジャケットとオーバーパンツを椅子の背にかけると、手袋と飛行帽を脱いだ。

 顔を覆っていた白いスカーフとゴーグルも取って、頭を振った。

 おかっぱに切り揃えた白髪に近い銀色の髪が揺れ、きらきらと光る。


 蝋のように白い肌、薄い唇の色、大きな瞳は薄いブルーだが、角度によって赤く見える。

 ――眉を描き、まつ毛にマスカラを施しているので、まるで人形のように美しい顔立ちだが、もしその化粧がなければ正直〝不気味〟な印象を受けたであろう。


 ユニは顔を洗うついでに井戸から汲んできた冷たい水をコップに注ぎ、ヒルダに勧めた。

「ごめんなさいね。

 あたしは年の半分は野宿するような生活だから、ねぐらにも気の利いたお茶なんて置いてないのよ。

 それにしても、よくこの小屋がわかったわね?」


 ユニの言うとおり、小屋の中は雑多に積まれた道具類、衣装箱、乾燥中の薬草で埋め尽くされている。

 簡素なテーブルと椅子、そしてベッドだけがかろうじて家具という、殺風景な〝ねぐら〟であった。


「グリフォンが上空からお二人とオオカミを見つけましたから……」

 それでこの小屋がわかった、ということらしい。

 少し間を置いて彼女は付け加えた。

「私も参謀本部にいた頃は似たような生活をしていました。

 野宿は嫌いじゃありませんし、ここは落ち着きます」

 ヒルダはあまり目を合わせず、ぼそぼそと話す。


「それで、あなたの用事って何?」

 赤城と戦場での短い付き合いだが、ユニはこの国家召喚士が世間話を苦手にしていることを知っていた。

 直球で訊いた方が親切というものだ。


 ヒルダも「助かった」という表情を隠そうとしない。ようやくユニの目を正面から見据えた。

「最近、赤城市で奇怪な事件が発生しています。

 あなたの専門がオーク狩りだということは承知しています。

 ですが、ユニさんにこの事件の捜査をお願いしたい――これは赤龍帝リディア様のご希望です」


「その奇怪な事件って、どういうものなの?

 詳しく話してちょうだい」


      *       *


 王国の他の四古都と同じように、赤城市の城壁外には新市街と呼ばれる街区が広がっている。

 そこに住むのは地方から都市部へと集まってきた農家の三男、四男以上の〝厄介者〟たちである。

 彼らはどこかの農家の婿養子に入れればいいが、そうでない限り四つの選択肢が用意されている。


 一つは、新規の開拓に応募して、一生を過酷で貧しい暮らしに耐える。

 一つは、軍隊に入る。運が良ければ下士官くらいにはなれるかもしれない。

 一つは、一生〝部屋住み〟となって兄たちの使用人として過ごす。

 一つは、都会に出て〝一旗あげる〟。


 もっとも夢がありそうな四番目の道を目指して、都会に出てくる若者は後を絶たない。

 しかし、現実はそう甘くはない。

 新市街にもたくさんの商店や飲食店がある。

 いずれも〝壁の中(旧市街)〟の商人たちの子弟が、親の資金を借りて出したものだ。


 地方から出てきた若者は、結局そうした店の使用人として働くしかない。

 どうにか食えるものの、ただそれだけだ。

 〝一旗あげる〟など、夢のまた夢に過ぎない。


 新市街に暮らす、彼ら低所得者層の居住区――要するに貧民街で行方不明者が頻発するという事件が起こった。

 食い詰めた者が夜逃げすることは珍しくないが、彼らは貧しいとはいえ定職についているし、女房子どもがいる者も多い。

 暮らしが厳しいからといって、簡単には逃げ出すとも思えない。


 それが、この一週間ほどで行方不明者が二十名を超したのだ。

 男、女、老人、子ども、性別も年齢も職業もバラバラで、失踪者には何の関連性もなかった。

 家族や雇い主の訴えで失踪が知れるのだが、残された者たちは口を揃えて「心当たりがない」「そんな兆候はなかった」と言う。


 ただ、調べてみると行方をくらましたのは、いずれも日没から日の出までの間で、一人になった時間があることがわかった。

 赤城市の警衛隊(警察)は夜間巡回を強化し、赤龍帝の命令で軍のけい隊も応援に当たった。


 警衛隊の必死の捜索で、いくつかの事件現場と思われるところが数か所発見された。

 行方不明者が身に着けていた遺留物、争ったような入り乱れた足跡、そして血痕。

 この結果、一連の行方不明者は、自らの意思で失踪したのではなく、何者かに襲われ拉致されたものと判断された。


 これを契機に緊張と警戒が一気に高まった。

 これだけ多数の人間が拉致される事件など、前代未聞である。。

 新市街の住民たちは恐怖に怯え、夜間に出歩くものが激減した。


 それでも、毎晩のように新たな行方不明者が発生し、しかも自分の住居で寝ていたところを襲われたと見られるケースさえ出てきたのだ。

 そんな中、ついに巡回中の部隊が事件現場を抑えることに成功した。

 応援に出ていた警邏隊が、女性の悲鳴を聞きつけたのだ。


 彼らが声の方に駆けつけると、貧民街の端に当たる地点で争う男女の人影を発見した。

 貧民街の狭い住居には便所がなく、住民は戸外に設けられた共同便所で用を足していた。

 被害者の女性は、夜間に便所に行こうとしたところを襲われたらしい。


 怒号を上げて駆けつけた警邏隊に対し、男はいきなり飛びかかってきた。

 ひどく痩せ、ボロボロの衣服を着た男は、奇声をあげ、素手のまま兵士たちに向かってきたのだ。


 警邏隊は当然武装をしていたが、相手が丸腰だと見て取り生け捕りにしようとした。

 部隊長の命令で、兵たちは短槍の石突(穂先の反対側)を男に向け、叩きのめそうとしたのである。

 飛びかかってくる男に、よく訓練された兵たちの突きが一斉に繰り出される。


 ところがそこで信じられないことが起こった。

 男が突き出された石突を掴むと、跳躍して槍の上に飛び乗ったのだ。

 もちろん、人間一人の体重を細い槍一本で支えられるわけがない。

 槍に乗られた方の兵士は、槍こそ手放さなかったものの、大きく前につんのめった。


 一方、槍の上に器用に飛び乗った男は、そのままさらに跳躍を重ねた。

 驚くべきことに、細く不安定な足場から二メートル近くも跳びあがったのだ。


 男はつんのめって姿勢を崩した兵士の両肩に着地した。

 肩の上でしゃがんだ男は、呆然とする兵士の頭を両手で掴むと、そのままぐるりと捻る。

 「ごきっ」という鈍い音が響き、兵士の顔が背中を向いた。


 男は兵士の頭を抱えたまま「けけっ」と笑い、一気に頭を引き抜いた。

 「ぶちぶちっ」という音とともに、兵士の頭は胴体から引きちぎられ、身体がゆっくりと棒のように倒れていく。

 男は呆然とした表情が貼りついたままの兵士の頭を抱えて地面に飛び降り、周囲をすばやく見渡した。


 逃げ道を探しているのだろう。

 だが、その間ほかの兵たちが傍観していたわけではない。

 彼らは厳しい戦闘訓練を積んだ軍人である。

 むごたらしい最期を遂げた戦友に構うことなく、彼らは槍を反転させ着地した男に突き出した。


「ぶすぶすぶすっ!」

 連続して槍の穂先が男に叩き込まれる音が響いた。

 胸、腹、肩、腕、腰、腿、お針子が使う針刺しのように身体から槍を生やした男は、地面にそのまま叩きつけられた。


 しかし、それでも男は絶命しなかった。

 身体を六本の槍で貫かれたままで、男は立ちあがった。

 男は血すら流していない。その代わりに周囲に強烈な異臭が漂う。


 男は槍の刺さった右腕を強引に振るった。

 ぶちぶちっと皮が裂け、肉が引き千切れて槍が外れると、今度は自由になった両手で腹に刺さっている槍を掴んだ。

「バキッ!」

 乾いた音が響き、槍がへし折られた。

 槍に使われているのは樫の木で非常に硬い。人間の力で折ることなど考えられない。


 それを見た隊長が剣を抜いた。

「この化け物がぁーーーっ!」

 喚きながらまだ身動きがうまくできない男に走り寄ると、長剣を横に一閃させる。


 男の首が刎ね飛ばされて、ごろりと地面に転がる。

 残った身体は、槍を生やしながら生きているように無茶苦茶に暴れ出した。

 だがそれも一瞬のことで、突然だらりと弛緩したように動きを止めた。


 そして男の身体は崩壊を始めた。

 ぼろぼろと黒い、細かい塊となって肉体が崩れていく。

 地面に転がった頭部も同様である。


 時間にして三分もたたぬうちに、地面には黒い染みだけが残った。

 形をとどめているのは穴だらけになった男の衣服だけである。


 部隊長は呆然とする部下たちを叱咤して、ただちに伝令を出した。

 現場に人を近寄らせないように歩哨を立たせ、犠牲になった兵士の上にはどこからか探してきたむしろを被せる。

 そうした手配を差し置いて真っ先にしたのは、被害者の安否確認である。


 残念ながら被害者の女性はこと切れていた。

 身に着けた衣服などから二十代から三十代の比較的若い女性なのではないかと思われた。

 〝思われた〟というのには理由があった。


 被害者の皮膚はかさかさの皺だらけだった。

 若い女性が一瞬で老婆になったような――そんな有様だった。


「干物みたいだな……」

 兵士の誰かがそうつぶやいたが、まさにそんな感じだったのだ。

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