兎の目 七 赤龍帝リディア

 扉をノックする音がする。

 少し待っても返事がない。

「リディア様、ヒルダです。入りますよ?」

 くぐもった声が聞こえ、遠慮がちに扉が開いた。


 部屋の中は灯りがなく暗かった。

「もうお休みですか?」

 ヒルダが小さく声を掛けると、

「んー、起きてるよー」

とベッドの方からリディアの声が返ってきた。


 ヒルダは手探りでテーブルにたどり着き、ランプに灯を点した。

 ぼんやりとした黄色い光が部屋を控えめに照らすと、リディアが軍服のままベッドにうつ伏せになっているのがわかる。

 ヒルダは側に寄り、ベッドに腰をかけるとリディアの髪を優しく撫でた。


「今日は大変でしたからね。

 もうお休みになって構いませんが、服はお脱ぎください。皺になります」


 リディアはもぞもぞと起き上がると、ヒルダに背を向けたまま「脱がしてぇー」と言う。

 ヒルダは苦笑してリディアの背後から手を回し、軍服のボタンを外しはじめた。

 彼女は時々こうしてヒルダに甘えてくることがある。

 それは叱るべきなのだろうが、ヒルダはどうにも嬉しくてそれができないでいた。


「それにしても驚きました。

 神宮の司祭とそんな取り引きをしていたとは……。

 でも、そもそもどうして直買いのことをご存知だったのですか?」


「……知らなかったわ」

 相変わらず背中を向けたまま、彼女はぼそりと言った。


「――でも、変だったの。

 神宮を守ってくれと懇願しに来たのはいいのよ。

 それが、事件を起こした武僧を守ってくれ、じゃなくて食糧倉庫を守ってほしいと言うのよ。

 神宮は小麦を大量に溜め込んでいるって、街の噂になっていることをとても気にしていて、略奪を恐れていたわ。

 それで変だと思ったの。

 どうして神宮にそんな大量の小麦があるのかって。

 いろいろ問い詰めて、最後には倉庫を臨検するって脅したら白状したのよ……。


 ――神宮はあの穀物商にそそのかされて、多額の資金を出して直買いに協力してたのね。

 しかも、自分たちの倉庫にその一部を保管して、免許もないのに闇で信者に販売までしていたらしいわ」


 リディアが司祭をどう追求し、言い逃れができないところまで追いつめたのか、側で見られなかったのが悔しい。

「そうでしたか……。

 商人との交渉もそうですが、部隊の指揮ぶりといい、今日は本当にお見事でした」

 ヒルダは脱がせた軍服を丁寧に畳み、今度はシャツのボタンに手をかけた。


「それにしても……ふふふ。

 あの、怪我の演技はやり過ぎではありませんか?

 私は笑いをこらえるのに必死でしたよ」


 シャツもきれいに畳んで上着の上に重ねる。

 ヒルダの目の前には、スリップ姿の小さな肩が露わになっている。

 彼女はふと、その肩が震えていることに気がついた。


「どうしました、リディア様?

 寒いのですか?」


 そう言えば、さっきからリディアは背中を向けたままだった。

 ――何かおかしい……。

 ヒルダはリディアの両肩を掴むと、半ば強引に振り向かせた。


 彼女は目から大粒の涙をぼろぼろと零していた。

 目と鼻の頭が真っ赤で、だいぶ前から泣いていたのだとわかる。

「一体、どうしたのですか?」


 驚くヒルダにリディアは物も言わずに抱きついてきた。

 そしてそのまま肩を震わせて泣きじゃくり続けた。


 ヒルダはリディアの頭を撫でながら、黙って彼女の細い身体を抱きしめていた。

 どのくらい経っただろうか、リディアは少し落ち着いたのか、やっと掠れた声でささやいた。


「……怖かった」

 ヒルダには何のことかわからないので、ただ黙って頭を撫で続ける。

「……生まれて初めて……人を傷つけたの。それも、殺してしまうなんて……」


「あ!」

 ヒルダは思わず声を出してしまった。

 迂闊だった。どうしてそこに気が回らなかったのだろう。


 ヒルダ自身も任務上、何度か人を殺したことがあった。

 それは、ほとんど幻獣であるグリフォンがやったことだが、自分自身で手を下した経験もある。

 ずっと昔のことでもあり、彼女はこの世界との関わりを極力避けて生きてきたため、あまり気に病むということがなかったのだ。


 だが、リディアは世間に出たばかりの十八歳の娘なのだ。

 それが職務上必要なことだったとはいえ、人の首を刎ねたのだ。

 ショックを受ける方が当然である。

 そこに思い至らなかったことこそ、自分の人間的欠陥なのだ――。


 ヒルダの抱きしめる力がぎゅっと強くなった。

 ささやくように彼女は繰り返した。

「あなたは悪くありません。悪くないのです。悪いのは……」


 そのままヒルダは黙ってしまった。

 リディアはおずおずと顔をあげる。

 何かが頭に当たったような気がしたのだ。


 ヒルダの顔を見上げたリディアの頬に、ぱたぱたと暖かい涙が落ちてきた。

 唇を噛みしめ目を見開いたまま、ヒルダは涙を流していた。

 瞳ばかりか、白目までが充血して赤くなっている。


「……私は駄目な人間です。

 とてもリディア様のお側でお仕えするような資格はありません……。

 ですが、リディア様は大丈夫です。自信をお持ちください。

 今日のあなたは……ご立派でした」


 リディアは真面目な顔でヒルダを覗き込んだ。

「ヒルダはいつだって立派よ」


「あなたの方が――」

「あなたの方が――」


 同時に同じ言葉を発した二人は、思わず顔を見合わせた。

 そして同時に吹き出し、笑い転げた。


 苦しい息の下から、リディアは目に涙を溜めてやっとのことで言った。

「ヒルダ、あなたったら、兎さんみたいな目をしているわよ!

 きっとあたしも酷い顔をしているんでしょうね――」


 小さなランプが一つだけ灯る薄暗い部屋に、二人のくすくす笑う声がいつまでも響いていた。


      *       *


 それから二年の時が流れた。

 赤龍帝リディアは、作戦会議室に急遽召集された二人の副官、参謀長とともに作戦案を練っていた。


「しかし、このユニとかいう召喚士の案は酷すぎませんか?

 そもそも根拠が伝承に過ぎませんし、二次作戦も推測を基にしているなんて、とても作戦とは言えませんよ」

 参謀長の意見は手厳しかった。


 だが、リディアは上機嫌である。

 参謀長の言葉をまったく気にしていない。

「よいのだよ、参謀長。

 ユニ先輩――いや、ユニの案は、まぁ足止め程度になればいいと考えよう。

 魔人を一時的にでも止められればいいさ。

 魔人が戸惑っているうちに、突如赤龍が現れ、炎のブレスで火ダルマにしてやれば良いのだ」


「まぁ、それはそうでしょうが……」

 ロレンソ少佐が口髭をひねりながら口を挟んだ。

「この、魔人を足止めしているタイミングに合わせて赤龍が駆けつけるというのは、あまりに余裕がなさすぎます。

 もう少し早く現地に到着するようにしてはいかがでしょうか?」


「ふっふっふっ、ロレンソはわかっていないな。

 こういうのはギリギリに登場するから盛り上がるのだよ。

 いいかい、今回の作戦は大公閣下と、かの国民に私とドレイクをお披露目する絶好の機会なのだ。

 印象というのは極めて重要だぞ?」


 リディアは目をキラキラさせ、上気した頬で宙を見上げる。

「考えてもみろ。

 巨大な魔人の出現、絶望に打ちひしがれる兵士。

 もはやこれまでか!


 ――そこへ間一髪、赤龍に跨った可憐な乙女が空を舞い、颯爽と駆けつけるのだ。

 考えただけでも興奮するではないか!

 いや、絶対カッコいいって!」


 ロレンソは「まぁ、それもそうですな」ともうリディアの味方を始めている。

 ヒルダは見かねて口を出した。

「リディア様、戦争は遊びではありません。

 そのような危ういタイミングではリスクが多すぎます」


 リディアはぷうと頬を膨らます。

 ヒルダにたしめられると、彼女はこうした子どもっぽい反応をしがちだ。

 そしてロレンソの腕にしがみついた。


 平静を保った顔をしているが、ロレンソの顔がデレデレに溶けているのが丸わかりだ。

『駄目だ、このおっさんはもう使い物にならないわ』

 ヒルダは一人で戦わざるを得ないことを自覚した。


「リディア様、この方がカッコいいとは何事ですか!

 一軍の指揮官が、軍事的な必然性を無視した作戦を立てるなどもってのほかです」


 リディアは突然、「こほん」と咳ばらいをすると真面目な顔になる。

「もちろん、わかっているわよ。

 あのね、ヒルダ。

 この戦いに赤龍が参戦すると敵に知られるのとそうでない場合、どっちが私たちに有利になる?」


「それは……言うまでもありません。

 赤龍の参戦はできるだけ知られないようにすべきです」


 リディアの顔がぱぁっと明るくなる。

「でしょ?

 あなたの言うように、余裕を持って陣営に到着して待機したとしましょう。

 ユニの話では、敵は上空から鳥を使って監視しているそうじゃない。

 赤龍の身体をどうやって隠せというの?」


「それは……」


「ねっ?

 だから、ギリギリのタイミングで現れれば、敵の不意を突けるでしょ。

 あなたは心配するけれど、間に合えば問題ないのよ!


「うう……」


 ヒルダにはわかる。

 この子は〝赤龍に乗って空を飛ぶ〟ことで頭が一杯になっていて、それ以外のことが考えられなくなっている。

 そして自分と赤龍がピンチで颯爽と現れ、大活躍することを思い描いて夢中になっているのだ。


 こうなった時のリディアは手に負えない。

 困ったことに利発な彼女は、それらしい理屈をあっと言う間に用意してくる。


「じゃ、いいわね!

 ヒルダは派遣軍に随伴して、オアシスの敵を蹴散らしてちょうだい。

 ロレンソは今回はお留守番。赤城市を空っぽにはできないから我慢してね」


 そう言うとリディアは作戦室を出ようとする。

「リディア様、どちらへ?」

 慌ててヒルダが声を掛けると、

「先帝の記憶に〝龍騎兵の鞍〟があるのよ!

 防具庫みたいだから探しに行くわ!」


 ヒルダは深い溜め息をついた。

「仕方ありません。リディア様はもう誰の言うことも聞かないでしょう」

 しかし、副官たちには山のような仕事が待っている。

 作戦室には各部隊指揮官が続々と集まってきて、細かな打ち合わせや調整がいつ果てるともなく続く。


 リディアが作戦室を逃げ出して一時間も経っただろうか、突然彼女が戻ってきた。

 小さな鞍にはたくさんの革のベルトがつながり、さらに十メートル以上あるロープがずるずると引きずられている。

 かなりの重量のはずだが、華奢な身体のどこにそんな力があるのか、彼女は苦もなくそれを抱えてきた。


「ヒルダぁ~、どうしよー」

 情けない顔で作戦室に顔を出すリディアを、ヒルダは盛大な溜め息をついて外に連れ出した。

「変な声を出さないでください!

 一体何事ですか?」


「これ……」

「うっ!」

 差し出された龍騎兵の鞍に、ヒルダは反射的に顔をしかめた。

 長いこと放置されていたのだろう、埃を被っているのはいい。

 だが、その革のベルトには一面に白いかびが生えている。


 ヒルダは嫌々黴だらけの革を調べてみる。

「これは……ろくに手入れもせずに放置したんでしょうね。

 黴はともかく、革が脂を失って堅くなっています。深いヒビも入っていますし……。

 どうなるかわかりませんが、防具修理の親方のところで相談してごらんなさい」


「はぁい……」

 しょんぼりしたリディアは、意外と素直に鞍を抱えて防具の修理場へと向かった。

 その後ろには、埃と黴まみれの革やロープが、白い煙をあげながら上等の絨毯の上をずるずると引きずられていく。


 ああ、掃除のメイドたちが見たら卒倒するだろうなぁ……。

 そんなことを思いながら、ヒルダは作戦室に戻っていった。

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