兎の目 六 暴動

 部隊の移動中、ヒルダは赤龍帝の側に馬を寄せた。

 彼女は野外なので目深に軍帽を被った上、サングラスをかけ、薄いスカーフで口元を覆っているため表情が読みづらいが、その声音から心配そうにしていることがわかる。


「リディア様、祭司のことはロレンソ殿から聞きました。

 軍の糧秣を分配するのもよいでしょう。

 しかし、商人たちが供出に応じるでしょうか?

 低所得者層すべてに行き渡らせるには、相当量が必要なのでは……」


 しかし、リディアは屈託がない。

「まぁそこはそれ、どうにかなるでしょ。

 まずはこの騒ぎを鎮めてからゆっくり考えればいいわ」


 ヒルダはなおも食い下がる。

「しかし、リディア様は民衆の前ではっきり約束されてしまいました。

 もし、商人たちが渋ったら、今度こそ暴動になりますよ」


 リディアはじっと副官の顔を見つめた。

 そして、にかっと笑って大げさにうなずいた。

「そうだな、それもそうだ! うん、心得ておこう」

 そう言うと、彼女はさっさと馬を先に進めてしまった。


      *       *


 リディアたちが駆けつけたのは、赤城市でもっとも大きな穀物商の店舗前である。

 そこは城にも通じる大通りに面した店で、広い通りは群衆で埋め尽くされ、赤城神宮を取り囲んでいた人びとの数倍の規模と見えた。

 そして、状況はあまり良いとは言えなかった。


 穀物商の店舗はめちゃめちゃに打ち壊され、酷い有様だった。

 現在は店と群衆の間に兵たちが割り込み、盾を並べて押しとどめている。

 どうやら店に入り込んでいた者たちは排除したようだったが、群衆は兵士たちに投石を続け、角材のようなもので打ち掛かる者もいる。


 兵士たちは身を守るのがやっとで、とても群衆を鎮められるような感じではなかった。

 もちろん、彼らは武装しているから、その気になれば鎮圧は可能である。

 だが、そのためには多くの市民の血を流すことになる。


「まずいわね……」

 現場を一目見るなりリディアは状況を理解した。

 彼女の決断は早かった。


「武装兵は盾となれ、兵と市民の間に割り込むぞ!

 槍の使用を許す。ただし石突の方だ。続け!」


 そう叫ぶなり馬を群衆の間に乗り入れる。

 大きな体の軍馬の上体を起こして今にも踏み潰すぞと脅しながら、リディアは群衆を散らして無理やり突っ込んでいく。

 彼女の愛馬はいななきをあげ、ぐんぐん進んでいくが、実際には器用に人が逃げ散った隙間に馬の蹄を降ろして、怪我人が出ないようにしている。

 見事な乗馬術だった。


 慌てたのは兵と副官だった。

 鎧兜と大きな金属盾を持った武装兵たちは、リディアを守るべく突進していく。

 投石が止む気配がない上に、リディアは通常の軍服で、頭には軍帽すら被っていない。


「姫様、危のうございます!

 お待ちを、お待ちください!」

 ロレンソ少佐などは、思わずリディアを〝姫〟呼ばわりして後を追う始末だった。


 兵たちは盾を高く掲げ、リディアの側面を守る。

 飛んでくる投石が、ガンガンと盾や兵の兜に当たって派手な音を立てる。

 兵たちは盾の隙間から、槍の石突(穂先の反対側で金属で覆われている)を突き出し、群衆を遠ざけようとする。


 どうにかリディアたちが群衆の前に割り込むと、さすがに彼らもそれが赤龍帝であることに気づいた。

 おかげで投石はかなり少なくなった。


「皆の者、私は赤龍帝リディア・クルスである!

 鎮まれい!」

 彼女の甲高い声が響き、一瞬辺りに響いていた怒号がやんだ。


「すでに聞いている者もいるだろうが、赤城神宮の包囲は解かれた。

 不届き者の武僧は罰せられる。

 また。神宮は備蓄食料の供出を申し出た。

 軍もまた協力する方針である。

 商人たちにもこれに倣うであろう。

 後日、軍の練兵場にある倉庫で、納税手帳の五番、六番の者たちに食糧の配給を行う。

 これ以上の騒ぎを止め、早々に解散せよ!」


 群衆からどよめきが湧き上がる。

 商店を取り囲んでいた群集は、そもそもの事件には関心が薄く、もっぱら小麦の高騰に不満を抱いていた連中だ。

 赤龍帝が貧しい者たちに、正式に配給を行うと宣言した以上、これ以上暴れて処罰される必要はない。


「店から略奪した物はこの場に置いて行け。

 そうすれば罪には問わん。

 どうせ店内には見本程度の小麦しかなかっただろう」


 リディアの言うとおりで、穀物商は卸売で小売りはしていない。

 店は業者と商談をするための場で、商品としての小麦やその他の穀類はわずかな見本以外置いていないのだ。

 実際の在庫は石造りの頑丈な倉庫に保管されており、その分厚い扉は一般の市民が数百人で襲っても容易に破れるものではない。


「やかましいっ! そんなことが信じられるか!」

 帰りかけようとする群衆を引き留めるように、先頭で暴れていた一人の男が叫んだ。

「みんな、騙されるな!

 軍のやつらはどうせ商人とグルになってるに違いないぞ!

 俺たちはもう我慢の限界なんだ、配給するって言うなら今すぐ倉を開けてみろ!」


 男はそう叫ぶと、手にしていた石をリディアに向けて投げつけた。

 彼女は顔をそらして避けようとしたが石がわずかに掠め、リディアの額が切れた。

 リディアは顔をしかめたが怯まない。

 真っ赤な血が垂れ、頬を伝って滴り落ちる。


 怒号をあげて兵士たちが男に飛びかかろうとするのをリディアは手で制し、馬を男の方に進める。

 群衆からも「おい、姫さんになってことするんだ」という声があがる。

 リディアは馬上から冷ややかな目で男を見下ろした。


 どう見ても善良な市民というより、街のチンピラだった。

 男は虚勢を張っているのか、汚い言葉で罵り続け、大げさな身振りで群衆を扇動しようとしている。

 その動きの中で、何かがきらりと光るのを、リディアは見逃さなかった。


「おい、貴様……!」

 さっき群衆に呼びかけた高い声が別人のように思える程、低いドスの効いた声をリディアが発した。


「そのポケットからはみ出している物は何だ?

 見たところ婦人用のイコンではないのか?」


 男は慌ててポケットからはみ出していた物を押し込もうとしたが、逆に手が滑って地面に取り落としてしまった。

 じゃらりと軽い音を残して地面に散らばったのは、金の鎖がついたイコンと真珠の首飾りだった。


 イコンはサラーム教の預言者の肖像をモザイク画で描いたものだ。

 信心深い女性は、コイン状のイコンに鎖をつけて肌身離さず首から下げていることが多い。

 貧しい人でもイコンだけは良い物を求め、母から娘へと代々受け継がれるものだ。


「その真珠の首飾りはまだわかる。

 店にそんなものは置いてないだろうが、商人の身内か女店員でも襲ったのだろう。

 だが、そのイコンは何だ?

 サラーム教徒の女から奪ったのでなければ、なぜお前が持っているのだ!」


 男は一瞬怯んだが、すぐに喚き始めた。

「うるせえ! てめえには関係ねえだろう!

 そんなことより――」


 なぜだか男の喚き声はそこで途切れた。

『あれ? 何で声が出なくなったんだ』

 男が混乱していると、視界までもがおかしなことになってきた。

 目の前の光景がどんどん傾いていき、いきなり横に流れだしたのだ。


 群衆も、兵士も、副官も、一体何が起きたのか掴みかねていた。

 しかし、馬上のリディアが手に抜身の剣を持ち「ぶんっ」と血振りをくれたことによって、赤龍帝が男の首を刎ねたのだということをようやく理解した。

 それほど抜き手で放ったリディアの一閃は速かったのだ。


 地面に転がった頭の側に、男の身体がどさりと倒れる。

 リディアはハンカチを取り出し、細身の剣から血をぬぐうと鞘に納めた。

 そしてもう一度、声を張り上げる。


「もうよいだろう。

 市民諸君、先ほど私が言ったとおり、食糧の配給は必ず行う。

 だから解散したまえ。

 これ以上暴れると言うのなら……」


 そう言って彼女は地面に転がる死体に視線をやった。

「暴徒はわれわれの手で成敗することになる!」


 群衆はざわざわとしながら、少しばつの悪そうな顔で、少しずつ下がりはじめた。

 それと同時に、どこからともなくパチパチとまばらな拍手の音が聞こえてきた。

 それは徐々にしっかりとした音に変わり、長々と続いた。

 それは群衆が示した、歓声も何もない静かな賞賛の意思であった。


      *       *


「いったぁーーーい!」

 情けない声がリディアの私室に響いた。


 ベッドに腰を掛けた彼女にかがみ込むようにして、ヒルダが額の傷を消毒していた。

「我慢してください。

 ただのかすり傷です。絆創膏を貼るまでもありません」


「駄目よ、それじゃ。

 あ、その血を拭いたガーゼは捨てないで」

「どうするんですか? こんなもの」

 ヒルダは怪訝な顔で訊いた。


 リディアは小麦色の太腿の上で(彼女は服を脱いでスリップ一枚になっていた)血の付いたガーゼを畳み、消毒液を垂らした。

 そして血で汚れた方を外側にして額の傷に当てる。

「抑えているからこの上から包帯を巻いてちょうだい」


 ヒルダは慌てた。

「駄目ですよそんな、汚いじゃありませんか。

 きれいなガーゼを使ってください……って言うより、そもそも包帯なんかいりませんよ」

「いいから言うとおりにして!」


 リディアが頑として聞き入れないので、ヒルダは渋々彼女の額に包帯を巻く。

 白い包帯にはうっすらと血が滲み出している。


 ヒルダは腰に手を当てて溜め息をついた。

「もうっ……それじゃまるで大怪我しているみたいじゃありませんか」

 リディアはにやっと笑うと、ぴょんとベッドから飛び降りた。

「それでいいのよ。

 さっ、着替えるわよ!」


      *       *


 リディアが新しい軍服に着替え、赤城内の会議室に入ると、そこには五人の男たちが椅子に座って待っていた。

 彼らは赤龍帝の登場に慌てて席を立ち、深々とこうべを垂れた。

 いずれも上等な布地の着物を身に着けた、恰幅の良い男たち――一目で富裕な商人だと知れる格好だった。


「これはこれは、リディア様。

 このたびは見事なご活躍で私どもをお救いくださいまして、誠にありがとうございます」

 この男はアヤンと言う。リディアが駆けつけた店の主人である。

 アヤンは少し顔を曇らせた。


「お話は聞いておりましたが、お怪我をされたとか。

 大事ございませんか?」


 リディアは包帯を巻いた額に手をやり、少しうつむいて苦痛に耐えているような表情を見せる。

「うむ、大したことはない。

 それより、そなたの店先をだいぶやられてしまったな。

 守りきることができず、済まなかった」


 アヤンはぶんぶんと手を振る。

「そんな! もったいない。

 あれしきのこと、被害のうちに入りません。

 何と言っても倉が無事でしたから」


 リディアは額を抑えたまま、ふと気がついたように商人たちに着席を勧め、自らも椅子に腰をおろした。


「後片付けやらで忙しいだろうに、わざわざ来てもらったのは他でもない。

 今回の暴動は、きっかけこそ宗教対立だったが、ここまで事が大きくなったのは昨今の食糧高騰に原因がある。

 すでにお聞き及びだろうが、軍としては低所得者層に対して配給を実施する方針だ。

 そこで、諸君らにも協力を願いたいのだ」


 商人たちは互いに顔を見合わせた。

 リディアは内心『ふん、最初から用件なんか承知の上でしょうに……白々しい!』と思っているが、もちろん顔には出さない。


「私どもとしても、今回の事件は骨身に沁みました。

 ですから、できるだけ赤龍帝のご意向に添いたいと思っております」

 彼らはうなずき合って、懐から二つに折った紙片を取り出した。


 副官のヒルダがそれらを集め、リディアに渡す。

 リディアは紙片を広げて中身を読むと、手元の紙に数字を書きつけた。

「ふむ……、これは困ったな。

 これだと軍と神宮の供出分を併せても、二、三日分にしかならんな。

 もう少しどうにかならんのか?」


 アヤンは困惑した表情で首をかしげた。

「――と、申されますと……どれ程ご入用なのでしょうか?」

 リディアはヒルダの方に目をやる。

 副官は心得顔で小脇に挟んだ書類入れから紙片を取り出し、各商人の前に置いた。


「それはこちらで試算した割当表だ。

 これだけ出してほしい」


 アヤンはちらりと紙片の数字を見ると、薄笑いを浮かべてそれを卓上に放り投げた。

「話になりませんな。

 これでは私どもの在庫の半分以上を出すことになりますぞ。

 いくらなんでもご冗談が過ぎると言うものです」


「痛たたたた……」

 リディアはわざとらしく額を抑えた。

「いや、アヤン殿。

 何もタダで寄こせと言うつもりはないのだ……」


「ほう……、では代金をお支払いただけるので?

 ――ん?」

 商人たちの前にまた、ヒルダが何かを配り始めた。

 今度は封筒である。


 アヤンは封を切って中身を取り出した。

 そして呆れたような顔をあげ、リディアに尋ねた。

「何ですか、これは?」


 リディアは涼しい顔で答える。

「何って、見ればわかるだろう。請求書だ」

「いや、それはわかります。

 何の請求書かとお尋ねしておるのです。

 但し書きに『警備料』とありますが?」


 「心外だな」という顔でリディアが説明する。

「今回の出動に関する経費の請求だよ。

 非番の物まで動員して出動したんだ。

 もろもろの人件費を中心とした経費、怪我人の治療費に見舞金の合計だな。

 もちろん、この私の傷の治療費と慰謝料も含まれている。

 嫁入り前の乙女の顔に傷を付けられたのだ、相応の額をいただかねば割に合わんではないか」


 アヤンは憤然として立ち上がった。

「お戯れはおよしください!

 軍が善良な市民を守るのは当然の責務でしょう。

 何のために日頃から税金を払っているとお思いですか!」


 リディアは座ったままだ。

 彼女は小さく溜め息をついたかと思うと、横目でアヤンを睨みつける。

「われわれ軍は市民を守るために働いている。

 特定の商人のためだけに出動させられるいわれはないと思うが……」


 リディアの声は低く、凄みを帯びてきた。

「諸君も知ってのとおり、小麦は専売制だ。

 すべての小麦は国が買い上げ、それを登録業者――即ち諸君らに適正価格で払い下げている。

 不作だからといって、払い下げ価格を上げたりはしていないぞ。

 それがなぜ値上がりするのだ?」


 商人たちは下を向き、もごもごと小声で弁解している。

 ただ、アヤンだけは立ったまま抵抗を試みる。


「それは、需要と供給の問題です。

 いくら価格が例年と同じでも、前回は払い下げの量が激減しております。

 量が少ないのに求める人が多いのならば、値段を上げて需要を抑制し、利益も得る――それが商売というものですぞ」


 リディアの声はますます低くなる。

「では聞くがね、アヤン殿。

 なぜ赤城神宮の倉庫には、大量の小麦が積まれてあったのかね?」


「さあ、よそ様のことは私にはわかりかねますが……」

 商人は顔色一つ変えない。


「司祭殿は白状したぞ。

 そなたは手持ちの資金だけではなく、ここにいるお仲間たち、そして神宮からも多額の金をかき集め、農民から〝じかい〟をやったのであろう?

 国の買い上げ価格より高い値段をちらつかせれば、収量が落ちて困窮している農民の中には飛びつく者も多かった――そうだな。

 直買いが専売制を揺るがす重大な犯罪であることを、諸君らが知らなかったとは言わせんぞ?」


「なっ……!

 何を証拠にそのような――」

 顔を真っ赤にしたアヤンの言葉をリディアが遮る。


「今、アヤン殿の倉庫は私の部下が警護している。

 何なら倉を開けさせて、中の小麦を調べてもいいんだぞ?

 払い下げ記録と照合して、もし数が合わなかったらどうするね?

 国の検印のない小麦袋が見つかったら、どう言い逃れするつもりかね?」


 立ったまま物も言えなくなったアヤンを無視して、リディアは手元の書類をトントンと卓上に打ちつけてまとめる。

「資金を出して協力した方々も同罪なのは言うまでもない。

 赤城神宮の司祭は司法取引に応じ、食糧庫の半分を供出することに同意した。

 諸君も免許を取り上げられ、莫大な反則金を払いたければ好きにしたまえ。

 それが嫌ならば、その割当表に従うことだ」


 そう言うとリディアは立ち上がった。

「ヒルダ、傷が痛む。客人たちには申し訳ないがお引き取り願え。

 明日はロレンソと分担して輜重隊に随伴しろ。

 予定どおり、商人たちの倉庫から軍倉庫に小麦を移管する」


 リディアは呆然とする商人たちを部屋に残し、扉を開けて去って行った。

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