兎の目 五 赤城神宮騒動

 ヒルダが教育係になって約半年が過ぎた。

 リディアが赤龍帝の職務に慣れてきたということもあるのだろう、次第に彼女の言動からは先帝フレディの影響が感じられなくなったきた。


 ただし派手好きで無鉄砲なところは、彼女本来の性格であったようで、ヒルダはずいぶんと苦労をさせられた。


 しかし、ヒルダはその苦労を楽しんでいることに気づいていた。

 リディアは公務中は別として、二人きりになると、まるで子犬のような無邪気な目で真っ直ぐにヒルダに向かってきた。

 彼女はヒルダを友人であり、教師であり、母であるかのように全身を委ねてくる。

 恐らくリディア自身、ヒルダをどう捉えていいのかわからないのだろう。


 そんな彼女を、次第にヒルダは愛おしく思うようになってきた。

 彼女が求めるままに、友人として付き合い、教師として導き、母として慈しんでいるうちに自然と生まれてきた変化であった。


 もう一人の副官、ロレンソも、この快活で愛らしい少女に夢中になっていた。

 ただ、彼の場合はリディアをひたすら甘やかしてしまう傾向があり、ヒルダの悩みの種であった。

 ヒルダがまったく知らないうちに、リディアとロレンソが二人で計画した突拍子もない事件は、一つや二つで済まなかった。


 いろいろ事件を起こしながらも、〝外面がいい〟というのだろうか、彼女は外に対しては見た目どおりの〝可憐な美少女〟として完璧に振る舞っていたので、一部の側近を除いて兵士や市民の人気は大変なものだった。


 彼らの間では、「赤龍帝リディア」ではなく「うちの姫さん」であった。

 リディアにちゃんと武術の心得があるという情報は知れ渡っていたが、そんなことはことは関係なかった。

 彼女はみんなで守るべき〝姫〟なのである。


      *       *


 きっかけはささいなことだった。


 赤城神宮の武僧が、酔っ払って通りかかったサラーム教徒の女性のスカートを捲くりあげるという悪戯をしでかした。

 まだ暗くなって間もない下町の繁華街である。

 路上には行きかう大勢の人々がいた。


 武僧にいきなりスカートを捲られた女性は、白い太腿までがさらされ、悲鳴を上げて裾を抑えてしゃがみ込んだ。


 サラーム教では、女性は家族以外に肌を見せてはいけないとされている。

 比較的戒律の緩い赤城市でも、髪の毛さえ布で覆って見せない女性が多い。

 ましてや手足、それも腿まで人前にさらされるのは、大変な屈辱である。


 武僧同様、ゲラゲラ笑って通り過ぎる酔客も多かったが、サラーム教徒の者たちは激怒した。

 悪いことにその女性は最近結婚したばかりの若妻で、近くの店で買い物をしていた夫が駆け戻ってきて武僧に殴りかかった。


 武僧はチンピラに近いようなやくざ者だったが、暴力に慣れているだけあって夫を簡単に叩きのめした。


 周囲のサラーム教徒たちが怒って取り囲もうとしたため、彼は逃げ帰って赤城神宮に籠ってしまった。

 そのため辱めを受けた夫婦の親族や近隣の者たちが、赤城神宮に対して武僧の引き渡しか処分を求めて押し寄せるという事態になった。


 始めは三十人ほどの集団だったのが、騒ぎを聞きつけたサラーム教徒たちが徐々に加わりはじめ、人数がどんどん膨れ上がっていった。

 もともとサラーム教徒と赤城神宮は対立することが多く、武僧が迷惑行為をする事件も日常的に起きていたので、不満が鬱積していたのである。


 人数が多くなればなるほど、集団は加速度をつけて膨らみだした。

 そして、本来とは別の目的へと抗議の矛先が変わっていったのである。


 この前年、王国では天候が不順で、春蒔き小麦の収量が少なかった。

 そのため小麦の値段がかなり上がっていたのだが、近く収穫を迎える秋蒔き小麦の生育も思わしくなく、二期続けての不作が決定的になっていた。

 小麦価格は一層高騰し、庶民の暮らしを直撃していた。


 天候不順が不作の原因だったので、当然そのほかの雑穀類や野菜の収穫も悪く、食糧全体が値上がりしていた。

 王国は小麦を中心とした穀類を主な輸出品としていたから、いくら不作と言っても国内需要を賄えないということはない。


 ただ、輸出は長期契約で、小麦の豊作・不作に関わらず一定の値段と数量で納めることになっているため、国内分が不足していても輸出分を削ることができない。

 むしろ、輸出分の不足をきたさないよう、本来国内向けのものを輸出分に振り分けなければならず、一層国内事情を悪化させていた。


 この数か月の物価の上昇で庶民の暮らしは困窮しており、貧困層が多いサラーム教徒たちにとって、この集まりは不満をぶつける絶好の機会となったのである。


 集まった群衆はたちまち数万人の規模に達し、その抗議の矛先は穀物商などの富裕商人に向かっていった。

 もはや群衆にはサラーム教徒以外の貧しい人々までが加わり、店舗が打ち壊され、商品が持ち去られるなど暴動に近くなってきた。


 こうなると市街を巡回している警備兵だけではどうにもならない。

 軍が鎮圧に出動することとなり、リディアは赤龍帝としてその陣頭指揮に当たることになった。

 彼女は各指揮官に暴徒化した民衆の鎮圧と扇動者や略奪者の逮捕、そして各商人の倉庫の警護を命じ、自らは事態の発端となった赤城神宮に向かった。


      *       *


 リディアが率いる部隊は、赤城神宮の外壁と群衆の間に無理やり割り込むようにして進み、どうにか閉じられている正面大門まで達した。

 兵士たちは盾を構え、その間から槍を突き出して群衆を下がらせている。

 騎馬なのは赤龍帝であるリディアと二人の副官(国家召喚士)だけである。

 もちろん、相手は市民なので幻獣を出すつもりはない。


 騎馬のリディアの姿を目にした群衆はどよめいた。

 見たくて仕方のなかった人物が目の前にいるのだから無理もない。

 そのリディアが群衆の前に進み出た。

 馬に乗っているので、小柄な彼女の姿は離れたところからもよく見えた。


 彼女は少し甲高いがよく通る声で民衆に呼びかけた。

「赤城市民たちよ!

 事の次第は耳に入っている。

 だが、諸君らの行動は度を越してきている。冷静になって自重したまえ」


 その言葉に民衆からは一斉に不満の声が上がる。

 リディアはすぐに遮らず、それらの声に耳を傾けてから手を挙げて制した。

「まずは根本のところから整理しよう。

 事件の発端となった婦人のご主人はおられるか?」


 民衆の最前線にいた若い男が手を挙げて進み出る。

「そなたの妻が赤城神宮の武僧によって、公衆の面前で恥辱を与えられたと聞いた。

 間違いはないか?」


 群衆から一斉に「そうだ!」「俺も見たぞ!」「奴を引きずり出せ!」といった声が上がる。

 リディアはもう一度手を挙げてそれを制する。

「私は夫であるこの男に聞いている!」

 民衆はしんと静まり返った。


 リディアの斜め後ろに控えているヒルダは内心で感心していた。

 暴徒に近かった群衆が、今やすっかりリディアに支配されている。

 わずか十八歳の少女に、群衆の心を掌握する力があるとは驚かざるを得ないし、決してそれは先帝フレディに支配された言動ではない。

 彼女本来の資質の成せるわざだとヒルダは確信していた。


 被害者の夫は声を震わせて訴えた。

「間違いありません!

 妻はもう二度と外を出歩けないと泣いています。

 自殺を図らないように親戚の女たちがずっと見張っていなければなりません。

 そうか、あの不埒者を引き渡して、恨みを晴らさせてください!」


 群衆から「そうだ、そうだ!」と声が飛ぶ。

 リディアはうなずいた。

「よかろう。

 だが、私刑リンチは認めるわけにはいかない。

 刑罰を与えるのは、軍と行政を預かる私の専権事項だ。

 であるがゆえに、私はここに宣言する。

 かの武僧は尋問の上、鞭打ち十二打の刑に処す!」


 鞭打ちは軽い刑に思われがちだが、実際には相当に過酷な刑であり、しかも十打以上というのはめったにない。

 最高でも二十打と決められているが、それは〝死刑〟を意味していた。

 革で編んだ九筋に分かれた鞭で打たれると、二、三打で背中の皮が剥ける。

 十打も打てば背中の皮はずたずたになり、肉が露出してぐずぐずになる。

 それ以上打ち続けると、一打ごとに血と肉片が飛び散る凄惨な光景となってしまう。


「たとえ尋問で否認しようが、これだけの目撃者がいては罪を逃れることはできまい。

 鞭打ちは後日、改めて公開で行う。

 そなたの妻に愚か者の末路を見せてやるがよい。

 よいな!」


 リディアの凛とした言葉に、群衆からどよめきが起きた。

 確かに、それならばこの事件の対応としては文句がない。

 ただ、それでこれまで積りに積もった恨みまで水に流れるだろうか……。


「一つ問いたい。

 それは何のために用意したのか?」

 リディアの指し示す先に、群衆の足元に転がっている一本の丸太があった。

 結構な太さで、先が荒く削られて尖っている。


「門をぶち破るだめだ!」

 どこからか声が上がった。集まっていた人々はそれぞれに頷いた。


「ほう、門を破ってどうするつもりだった?

 くだんの武僧を探すのか?

 ――そうではあるまい。

 諸君は神宮の食糧庫を襲うつもりではなかったのか?」


 群衆が静まり返った。

 実際リディアの言うとおりだったからだ。

 そのうち誰かが叫んだ。

「俺は知ってるぞ、奴らはしこたま溜め込んでいるって!」


「だから奪ってよいのか?

 今まで散々嫌がらせをしてきたから、それが許されると言うのか?

 ……まぁよい。

 諸君らに朗報がある」


 リディアは朗らかな声で笑った。

「赤城神宮の祭司殿は、今回の事件をひどく憂いておられる。

 内部から不心得者を出したということもそうだが、昨今の物価上昇で市民が困窮している事実についてもだ。

 そこで、司祭は赤城神宮が備蓄している食糧の一部を皆に無償で提供してくださるそうだ」


「おおおーーーっ!」

 今度のどよめきは大きかった。


 ヒルダは慌てた。

 そんな話は聞いてなかったからだ。

 彼女はロレンソに馬を寄せ、周囲に聞かれないようにささやいた。


「ロレンソ殿、これは一体どういうことですか?

 私はそのような話を聞いておりませんぞ」

 もう一人の副官は顔に満面の笑みを浮かべた。


「ああ、今日はバタバタしていたからな。

 出発する直前だが、神宮の祭司が訪ねてきて内密に面談したのだ。

 私もその内容までは知らんが、どうもその時にリディア様が話をつけたようだな。

 うむうむ、さすがは赤龍帝になられるお方だ」


 ロレンソ少佐はすっかりリディアに感心している。

 ヒルダはもの凄く不安になった。


 そんなにうまい話があるのだろうか?

 大体、リディアが自分に打ち明けずに物事を進めようとする場合、何か無茶をしでかすことが多いのだ。


 ヒルダの心配をよそに、リディアの話は続く。

 彼女の声は群衆の数百人に届くだけだが、その内容は神宮を取り囲んだ数千人の人々へ、すばやく伝えられていった。


「諸君らには解散して包囲を解いてほしい。

 そうすれば、軍の輜重隊が神宮に入って供出分の食糧を運び出す。

 心配なら十人ばかりも残して見張っていればよい。

 私の言葉が嘘ではないとわかるだろう」


「分配はどうするんだ?」

 群衆から声があがる。


「考えてもみたまえ。

 いくら神宮が食糧を溜め込んでいようと、この街の貧しい者たちに分配するだけの量ではあるまい?」


 群衆からさあーっと熱が冷めていくのがわかる。

 だが、リディアは動じない。


「心配するな、私の名誉にかけて約束しよう。

 市内の主だった穀物商にも小麦の拠出をさせる。

 同時に軍の糧秣倉庫からもできうる限り供出する。

 それらをいったん郊外の軍倉庫に集め、そこで配分する」


 その言葉に、冷めていた熱が再び燃え上がった。

 それならば、かなりの量が配給されるだろう。


「ただし、配給は納税手帳の五番、六番に限らせてもらう。

 暮らしに余裕がある者にまで配給するほどの量が集まるとは思えないからな。

 どれくらいの量が集まるかで計算しなけらばならんが、六番は五番の五割増し程度に差を付けさせてもらう。

 配給量は対象者に行き渡るように決められるから、慌てずとも貰いそこねることがない。

 これなら納得するだろう」


 群衆はすっかり安堵して、顔には喜びの表情が浮かんだ。

 納税手帳とは、市民に課せられた税の納付書兼領収書のようなものだ。

 郊外で耕作をする農民と違い、都市部に暮らす住民は、過去二年間の収入の平均でその年の納税額が決められ、その納税額が記入された納税手帳が配布される。


 収入額に応じで一番から六番のカテゴリーに分けられており、番数が多いほど低収入ということになる。

 この場に集まっていた人間のほとんどは、五番か六番の低所得者だったので、彼らが喜ぶのは当然であった。


「納得してくれたのなら、この場を解散してほしい。

 そして、ほかの場所で集まっている連中にこのことを伝えてほしい。

 一時の感情で商店を打ち壊したり、略奪をしている者がいるらしい。

 そうした者たちは処罰されることになる。

 そんなことをしなくてもよいと、早く伝えて仲間を救ってくれ!」


 リディアの呼びかけは、波のように群衆に伝わり、人々はぞろぞろと引き上げ始めた。

 群衆を扇動していた者たちは、何人かが残って実際に赤城神宮から食糧が運び出されるのか確認することにしたらしい。


 リディアはロレンソに呼びかけた。

「貴官は戻って至急輜重隊を編成してくれ。

 練兵場の倉庫は空いているはずだな?

 食料はそこに運び込んで、警備の兵もつけるように」


 ロレンソは命令に従い、城内に戻っていく。

 リディアはヒルダにも命令を伝える。


「ここの警備はもう少数でいいだろう。

 残りは私とともに穀物商の方に向かうぞ。

 ここよりもあっちの方が心配だ」


 ヒルダは慌てて警備に残す部隊を選び、各指揮官に移動の準備をするよう伝令を走らせた。

 鮮やかにこの混乱を収束させたリディアに感心する一方、市民に対する安易な約束に不安を隠せないでいた。


 しかし、今は赤龍帝の命令に従い、動くよりほかなかったのである。

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