呪われた宝珠 十二 密林の再会

 空気の密度が濃い。

 土の匂い、水の匂い、さまざまな生き物の生と死の匂い。

 そして、それらを全て包み込む濃密な緑の匂い。


 〝南部密林〟と呼ばれる森林地帯は植物の王国である。

 一年中葉を落とすことのない常緑広葉樹やシダ類が生い茂り、蔓性植物が高木にまとわりつく。

 甘い花の匂いとともに、腐肉を思わせる悪臭が漂い、えり好みの激しい虫たちを集めようと必死になっている。


 それは受粉のためだけではない。

 時には集まった虫たちを巧妙な罠にかけ、捕え、溶かし、自らの養分とする恐ろしい植物もいる。

 それらの食虫植物の中には、ネズミやウサギといった小動物すら餌にするものもいた。

 この森の主人は植物である。動物はひっそりとその中で生きることを許された部外者に過ぎない。


 その緑の王国の中を、ひときわ異質な集団が走り抜けていく。

 ユニとオオカミたちだ。


 森の中に道などない。絡み合った蔦、頑強に根を張る茨、地面を盛り上げてのたうち回る樹木の根。

 それらを飛び越え、避け、潜り、彼らは信じられないスピードで駆け抜けていく。


      *       *


 大公の居室で「リスト王国への使者を務めてもらいたい」という願いを、ユニは請け入れた。

 それを大公は、やや意外な面持ちで受け取った。

「だが――隊商路は封鎖され、ハラル海を渡るのは難しい……。

 どうするつもりなのだ?」


 ユニはこともなげに答える。

「どうって……それなら南部密林を行くしかないじゃありませんか」

 大公の顔に今度は驚きと、どこかほっとした表情が浮かぶ。

「そうか、森を行ってくれるか。

 敵の監視や待ち伏せを避けるとしたら、密林地帯を抜けるしかないとは思っていたのだ」


 彼はそこで一息つき、少し言いづらそうに続けた。

「密林を馬で抜けるのは難しいが、そなたのオオカミたちならそれも可能だろう。

 だが……あそこは獣はともかくとして、オークが徘徊する危険地帯じゃ――」


 大公はそこまで言って、やっと気がついた。

「――ああ、ああ、そうだな、……そうだった。

 そなたはオーク狩りの専門家であったな……!」


      *       *


 ユニたちはレリン市で水と食料を調達し、オオカミたちに分散して背負わせた。

 普段ならそうしたものは現地で探し、狩りをして賄うのだが、今回はそのような暇はない。


 レリンへの移動と準備のため、すでに一日を費やした。

 二百キロに近い行程を、ユニは遅くとも四日で――できることなら三日以内で赤城市に到達しようと決めていた。


 マリウスはそのままリュートリアに残ることになった。

 大公が言ったように、密林を馬で抜けるのは困難を極める。それはオークの追跡と、その後のレリンに向かう行程で嫌というほど思い知らされた。

 かといって、オオカミの背中に乗るのはこりごりだ。


 彼は大公の元で警護の任につくことを申し出た。

 いつ首長国連邦の呪術師から暗殺の手が伸びないとも限らない。

 マリウスは自分がさまざまな防御魔法の遣い手であることを明かしたので、大公の周囲の者たちに歓迎された。

 大公は自らが率先して行動することを信条としており、わずかな供回りで突然予定にない外出することが珍しくなかったのだ。


 マリウスとしては、ユニの足手まといとなってごついブーツで蹴られるより、そうやって大公に恩を売っておくほうがはるかに建設的である。


 ユニたちはレリン市を出た時点で隊商路を使わなかった。

 数キロの岩石砂漠を突っ切り、そのまま南部密林へと突入したのである。

 サキュラ兵が抑えている道沿いのオアシスは、レリンより五十キロもの北方であったが、恐らく隊商路全域にわたって監視が付けられているだろうとユニは判断した。


 サイードから聞いた、鳥の目で地上を監視する呪術が使われていると思われたからだ。

 帝国の魔術にもそんな便利なものはないが、これまで遭遇した呪術師に操られた動物のことを考えると、その可能性は高いと判断された。

 密林に向かったことは知られても、入ってしまえば少なくとも空からの監視は無視できる。


 レリンを早朝出立したユニたちは、最初の一日で七十キロを走破した。

 夜はテントも張らず、火も起こさない。

 堅く焼きしめたライ麦パンにバター、そして干肉と水だけが食事だった。

 野営の時はいつもそうであるように、ライガの身体を抱いて眠る。

 ユニの背中が冷えないように、ヨミがぴったりと身体を寄せてくれた。


 二日目、オオカミたちはさらにスピードを上げて進む。

 順調な旅かと思われたが、そうは甘くない。


 その日の午後、少し樹木がまばらになり、視界が開けてきた地点でオオカミたちが一斉に足を止めた。

 だらりと垂らした舌からよだれが滴り落ち、荒い息をしながら、彼らは頭を高く上げ周囲の臭いを探っている。


「オークなの?」

 それはユニにとって見慣れた反応だった。

『ああ、割と近い。

 だが、オークとは別の臭いも混じっているな……』


「あたしたちの進路に影響する?」

『多分……な』

 ユニは少し逡巡する。

 今回はオークを討伐することが目的ではない。

 できることならオークに接触せず、時間のロスを回避したい。


「オークを避けて――」

 そう言おうとしたユニをライガの思念が遮った。

『ユニ、まずいぞ!

 オークともう一つの臭いがこっちに向かってきている。

 血の匂いも混じっているな……。

 戦っているのかもしれないぞ』


 こうなってはやむを得ない。

 ユニはオオカミたちに警戒の指示を出して慎重に進むことにした。


 五百メートルも進まないうちに、ユニにも争いの音が聞こえてきた。

 動物同士のそれではないと、彼女にもわかった。

 オークの相手は人間だ!

「襲われている人を助けるわよ!」

 ユニは迷わず命令を発した。


 オオカミたちの速度が上がり、群れが三つに分かれる

 ライガとヨミ、ハヤトとトキがそれぞれ側面から襲いかかる。

 女衆は回り込んで退路を塞ぐという作戦だ。


 争いの音がどんどん近づき、双方の息遣いまでもが耳に入ってきた。

 ちらっと前方にオークの姿を確認したところで、ユニはライガの身体から横っ飛びに転がり落ちた。

 泥だらけになるのも厭わず、ユニは受け身をとって回転し、衝撃を逃す。

 彼女が乗ったままではライガは思うように戦えないのだ。


 ユニはすぐさま跳ね起き、オオカミたちの後を追って走る。

 すでにその手には抜かれたナガサ(山刀)が握られている。

 彼女が駆けつけた時、まさにライガとヨミがオークに飛びかかり、両者が交錯した瞬間だった。

 オークは手にした棍棒を薙ぎ払い、オオカミたちを叩き落とそうとするが、ライガもヨミも身体をよじって間一髪で避け、きれいに二手に分かれて着地する。


 そこへ間髪入れずに逆方向からハヤトとトキが跳躍して襲いかかったが、オークはそれより早くライガが襲ってきた方向に逃げ出した。

 それは、敵ながら見事と言いたくなる逃げ足だった。


 ハヤトとトキはそのままオークを追おうとしたが、ユニが止めた。

 逃げてくれるのなら、それでいいのだ。


 それより、オークと戦っていた人間の方が心配だった。

 その男は膝を突いてうずくまっている。

 荒い息で激しく背中が上下していた。


 手にはハルバートを握っていて、穂先から手元にかけて血で汚れている。

 男の怪我ではなく、オークの返り血のようだった。

 大柄な体に黒い革鎧を着込んでいる。リスト王国でよく見かける装備だった。


 ユニは男のもとに駆け寄り、肩に手を置いて声をかけた。

「あの――怪我はありませんか?

 オークは逃走しましたから、もう安心ですよ」


 男は荒い息のまま、「ガッ」とハルバートを地面に突き立てた。

 反射的に傍らのライガが姿勢を低くして警戒の姿勢をとる。

 ユニが慌てて片手でそれを制していると、男は疲労困憊といった様子で、ハルバートにすがるようにして身を起こした。


 背の高い、がっちりした体格の男だった。

 短く刈り込んだ黒い髪、陽に焼けた精悍な顔に、目だけがいたずらっぽい光を湛えている。

 年齢は四十過ぎだろうか……彼は呆然としてユニを見ていた。


 ユニの目が大きく見開かれる。

 全身にがたがたと震えが走った。

 顔は青ざめ、形のよい真珠のような歯が、かたかたと音を立てる。

 やがてみはった目から、大粒の涙が零れ落ちた。


「……ゴーマ……なの?」

 それきり言葉が続かない。

 ユニは男の身体にぶつけるように身を投げうった。

 そしてそのまま彼の胸に顔を埋める。

 顔がこわばり、泣いている自覚はないが、涙だけがぼろぼろと落ちていく。


 それは前年の秋、幻獣界に旅立った召喚士、ゴーマだった。

 彼は妹であるアスカの屋敷で皆に別れを告げ、ユニの目の前で確かに消えたはずだった。


 しばらくして、やっとユニは顔を離した。

 背の高いゴーマの顔を見上げるようにして尋ねる。

「あなた、幻獣界に転生したはずでしょ……。

 何でこんなところにいるのよ?」


 ゴーマは抱いていたユニの両肩を少し押しやった。

「それが……俺にもよくわからないんだ。

 お前たちの前から消えた後の記憶がなくてな。

 半月ほど前なんだが、気がついたら辺境の森の中にいたんだ」


「……どういうことなの?」

「さてな。ひょっとしたら〝穴〟のせいかもしれないな。

 とにかく、この世界に戻ってきたことは確からしかったから、とりあえずカイラ村に戻ったんだ。

 お前が隊商と大公国に行ったと聞いて、後を追って来たんだが……。

 途中で道が封鎖されていて、仕方なく密林を抜けようとしたんだが、このありさまだ」


「……そうなの」

 俯いたユニの顔は蒼白のままだ。

 彼女はもう一度ゴーマの胸に顔を埋め、かすれた声でつぶやいた。

「もう一度だけ……会いたいと思っていたの……」


「俺もだよ」

 ゴーマの手は、今度は肩ではなくユニの背中に回された。

 男に抱かれたまま、ユニのささやきが続いた。

「……だから、許せないわ」


 ゴーマは突然がくりと両膝をついた。

 そして、そのまま音を立てて仰向けに倒れる。

 その胸には、ユニのナガサが柄もとまで深々と突き刺さっていた。


 ユニは何かを振り払うように頭を振った。

 酷い頭痛が突然襲ってくる。

 こめかみを棍棒で規則正しく殴られているようだった。


 それと同時に、むっとするような獣臭が鼻腔を突く。

 それは倒れた男と、それに抱かれていた自分の身体からも漂ってくる。


 地面に転がっているのはもはやゴーマではなく、一頭の大柄なヒヒに変わっていた。

 額には見慣れた呪印が刻まれている。


「見事なものだわ。

 匂いまで騙せるなんてね……。

 でも、オオカミの鼻までは欺けなかったようね――」


 それは呪術師による罠だったのだろう。

 不審な動物に接触された覚えはないから、この一帯に何らかの薬が撒かれていたのかもしれない。

 呪術師はユニの心の弱いところ、密かな願望を引き出し幻術をかけたのだ。

 彼女は罠にはまり、自分の記憶の中からゴーマの幻影を生み出してしまった。

 そして、混乱のあまりライガの声も聞こえない状態になっていた。


『違う! ユニ、目を覚ませ! そいつはゴーマじゃない!』

 オオカミたちの嗅覚も騙されたのだが、それはただ〝人間の臭い〟というだけの不自然なものだった。

 彼らが記憶しているゴーマの臭いでは断じてなかった。


 ユニを人質に取られた格好で、うかつに手を出せないライガが必死で呼びかけ続けなければ、彼女はヒヒの手であっさり首をひねられていただろう。


 口惜しさと情けなさ、そして思い出を穢された怒りに、ユニの目から再び涙が零れ落ちた。

 ユニはヒヒの死骸からナガサを引き抜くと、シャツの裾で血をていねいに拭った。

 鋭い刃でシャツに切れ目を入れてから、ナガサを腰の鞘に収める。

 そしてシャツを引き裂き、血で汚れた布切れを死骸の上に放り投げた。


 ユニは黙ってライガの背に飛び乗り、オオカミたちに出発を呼びかけようとした。

 しかし、いつの間にかライガとヨミ以外のオオカミたちが姿を消している。

「みんなどうしたの?」


 ライガは涼しい顔で答える。

『なに、忘れ物を取りに行っただけだ。

 すぐに戻ってくるさ』


 その言葉どおり、群れのオオカミたちは五分もしないうちに戻ってきた。

 ゆったりと尻尾を振りながら、ヨーコがユニの側に寄ってきた。

『ごめんね、ユニ。

 でも、あなたを騙して泣かせた奴は許さないわ。

 私たちは家族だからね――』


 彼女の口から胸元にかけての白い毛並は、真新しい血で汚れていた。

 オオカミたちは、いったんは止められたのに、逃げたオークを追ってズタズタに引き裂いてきたのだろう。

 ユニは彼女の頭を抱き寄せて頬ずりをした。

「ありがと、ヨーコさん」


 そして、改めてオオカミたちに命じる。

「さあ、時間が惜しいわ。

 先を急ぎましょう!」


 ライガを先頭にオオカミたちは密林が織りなす緑の闇の中へと走り出した。

 ただ、その日、ユニはほとんど口をきくことなく、黙り込んでいた。

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