呪われた宝珠 十三 赤龍帝
「ふぅ……」
おもわず洩らした溜め息を誰かに聞かれなかっただろうかと、彼女は後ろを振り返った。
ここは赤城内にある赤龍帝リディア専用の浴室内だから、もちろん誰もいるはずがない。
彼女はもう一度、鼻のあたりまで湯の中に身体を沈めた。
透明な湯の中にやや浅黒い自らの裸身が見える。
小柄でほっそりとした身体ではあるが、引き締まっており見た目以上に筋肉もついている。
体つきや童顔とは不釣り合いに豊かな胸は、密かに彼女の自慢とするところだった。
入浴のため上げている黒髪は、普段はまっすぐ垂らしており、肩を隠すほどに長い。
眉が濃く、くっきりした目鼻立ちだが、目が大きく少し垂れているため、歳よりも幼く見える。
南方系の特徴を備えた肌や髪は、彼女が地元の出身であることを示していた。
この日は朝から第三軍の大規模な演習があり、リディアも全軍の最高指揮官として参加していた。
当然、訓練であるから赤龍ドレイクは出てこない。
彼女は馬上で鎧を着装して閲兵し、演習後には全軍を前にした講評、優秀者の表彰を行った。
第三軍の兵士は王国の一般兵装である鎖
革は赤く染められており、南方諸国からは〝赤い悪魔〟として恐れられていた。
リディアの鎧も基本は同じ革鎧なのだが、ルビー色にメッキされた金属プレートが追加されている。
もちろん防御を考えてのことだが、単なる装飾のためではないかとリディアは疑っている。
それほど派手なのだ。
しかも春とはいえ南方は気温が高く、またこの日はよく晴れていたため、リディアは汗だくとなっていた。
ほとんど移動ができないので身体に風が当たらず、直射日光に焙られた金属プレートは
馬を少し動かすだけでも、鞍の上で上下する腿や尻のあたりで「ぐちゅぐちゅ」と雨漏りした長靴のような音を立てる。
それでも顔には一筋の汗も浮かべていないのは意志の力なのか、側近の者たちが感心するほどだった。
演習の終了後も、処理しなければならない書類が山積みで、彼女が風呂に入れたのは夜の九時を回った頃だった。
髪と身体を洗い、ようやくさっぱりしたリディアは脱衣所で用意しておいた新しい下着に着替え、丈の短いベビードールを着て、その上からローブを羽織った。
部屋に戻ったらさっさとベッドに潜り込むつもりだったのだ。
リディアは脱衣所を出て、手ぶらで寝室に向かった。
籠に残してきた洗濯物やタオルは、身の回りの世話をしてくれる専属の侍女が回収することになっている。
柔らかな絨毯の上を音もなく歩いていき、廊下の角を曲がれば彼女の私室と続き部屋になっている寝室である。
ところが、角を曲がるとすぐ目の前に副官のヒルダ大尉が控えていた。
リディアには副官が二人いるが、夜間に用がある時は女性のヒルダが来る決まりとなっていた。
「何かありましたか?」
リディアは少しきまり悪そうに尋ねた。
はしたない格好をしているという自覚があったからだ。
「お休みのところ申し訳ございません。
ユニ・ドルイディアという二級召喚士が面会を求めております。
ルカ十二世閣下の書簡を預かっているとのことで、火急の要件だと言っております」
「大公閣下の?
大公国には召喚士に一級、二級の区別はなかったはずですが……」
「はい。ユニはわが国の召喚士だと申しております」
「どういうことなの?……」
大公の書簡を届けるならば、正式な国の使者である。
それをリスト王国の者が持ってくるとは、あまりに不自然だ。
リディアは少し考え込んでいたが、はっとして顔を上げた。
「まって、ユニ……二級召喚士、聞いたことがある名ね。確か……」
ヒルダは少し表情を和らげた。
この若い上司が自分の役目をしっかり果たしている時、彼女はいつもそんな顔になる。
「はい。
参謀本部のアリストア様から格別の配慮をするようにと、内々の連絡があった者です」
「――でしたね。
いずれにしろ大公閣下の使いとあっては会わないわけにはいきません。
ただ、こんなんですから、着替えるまで少し待たせていただけますか?」
そう言うと、リディアはローブの前をばっとはだけ、ぺろりと小さな舌を出して見せた。
太腿まで露わになったベビードール姿を見せつけられたヒルダは、同性ながら思わず絶句する。
はっと気がつき、リディアを叱ろうと思った時にはすでに遅く、若い赤龍帝は笑い声だけを残して自室に飛び込んでいた。
* *
夜も遅かったため、ユニが赤龍帝に謁見したのはあまり広くない会議室のような部屋だった。
壁面に黒板が嵌め込まれ、地図が何枚も貼っているところを見ると、作戦会議室のようだった。
長方形のテーブルの上座に赤龍帝が座り、その両側に二人の副官がガードをするように立っている。
ユニの席は長方形のテーブルの対面である。
この距離にどういう意味があるのだろうかと、ユニが頭を悩ませていると、赤龍帝が一同に着席を促す。
軽く会釈して席に着くと、赤龍帝は先に副官に手渡していた大公の親書の封を切り、その中身を読んでいるところだった。
ユニの目に映った赤龍帝は、まだうら若い少女と言ってもよい見た目をしていた。
ユニと同じくらいの背丈で、ユニよりもほっそりしている。
髪は黒く長く、目が大きくて少し垂れている。
いわゆる〝タヌキ顔〟で、とても幼く愛嬌があるように見える。
* *
赤龍帝が〝代替わり〟して、リディア・クルスが新たな赤龍の召喚主となったのは、わずか二年前のことだった。
彼女はこの年やっと二十歳になったばかりで、もちろん四帝の中では最も若い。
ユニは赤城市に着いて早々、神宮の武僧と揉めた後、大衆的な居酒屋で飲んだが、その際サラーム教の伝承を教えてくれた男たちに赤龍帝についても尋ねていた。
隣りのテーブルの男たちは、我先にリディアのことを自慢しはじめ、自分こそが彼女の保護者であると主張しあい、あやうく喧嘩になるところだった。
彼らは赤龍帝を自分の娘か、歳の離れた妹であるかのように親しみをもって語った。
そして、リディアのことを決して〝赤龍帝〟とは呼ばず、〝姫〟あるいは〝姫さん〟と呼ぶのだった。
そもそも代々の赤龍帝は、なぜか南方人種の血を受けた者が受け継いできた。
先代の赤龍帝アルフレッドも、いかにも南方人といった顔立ちだった。
体格がよく、縮れた黒髪に濃い眉、濃い口髭、濃い体毛で、女と見れば挨拶をする前にまずくどくという、まさに南方人の見本といった人物だった。
〝筋肉ダルマ〟〝髭のフレディ〟とか、果ては〝赤城の種付馬〟などとあだ名されながら、豪快で裏表のない性格は、第三軍の将兵にも赤城市民にも愛された。
それだけに、彼の跡を継いだリディアを見た兵士と市民は驚愕した。
これまでと何もかも正反対だった。
黒い髪に濃い眉、浅い小麦色の肌は、確かに彼らと同じ南方人である。
だが、彼女は小柄で、華奢で、しかも可憐な十八歳の美少女であった。
赤龍を召喚した者は、その際に先代赤龍帝の記憶や経験を受け継ぐので、学院を出たての少女でもきちんと軍のトップを務められるようになっている。
また、リディアには人並み以上の剣技の心得があり、性格も負けん気が強い熱血タイプだったのだが、それは彼女に近しく仕える側近以外、知るところではない。
誰もが彼女を自分たちが〝守るべき姫〟と勝手に位置付けてしまったのだ。
かくして、公的な場以外では、誰もリディアを赤龍帝とは呼ばずに〝わが姫〟だの〝うちの姫さん〟と呼ぶようになったのである。
* *
赤龍帝は手紙を読み終わると、それを読むようにと傍らの副官に渡し、自身はユニに視線を移して口を開いた。
「大公閣下の書簡には、そなたが事情をよく知っているから、詳しいことは直接聞くようにと書いてあった。
魔人の復活とは本当なのか?
南方諸国の呪術師とは、どの程度の脅威たりうるのか?
そなたの率直な意見を聞かせてほしい」
ユニは内心で舌を巻いた。
なるほど、見た目に騙されてはいけない。
童顔の美少女に見えても赤龍帝は赤龍帝である。
「はい。魔人の復活は間違いないかと思います。
ただ、実際にその魔人を見た者はおりません。
ですから、それがどの程度の脅威となるのかはわかりません。
その力を手にしたサキュラが、他の四国を実質的に支配しているところを見ると、わが国の四神獣クラスだと想定した方がよいのではないでしょうか。
――呪術師については直接の攻撃力という面では、帝国の魔導士にも及びません。
彼らが得意とするのは人や動物を操っての暗殺や幻術ですが、それも用心すればほぼ防げます。
ただ、恐ろしいのは情報力です」
赤龍帝は濃い眉根をわずかに寄せた。
「どういう意味か?」
ユニは呪術師が動物を操る際、その気になれば〝目や耳を奪える〟ことを話した。
「――ですから、空を飛ぶ鳥の目を奪えば、軍の配置や行動が丸裸にされます。
ネズミの耳を奪えば、どんな秘密会談も筒抜けになります。
相手は太陽のもとで、こちらは月もない闇夜の中で殴り合うようなものです」
「なるほど……。
それはある意味帝国の魔導士より恐ろしい相手となるな……」
ユニは赤龍帝の理解力の高さにますます感心した。
呪術師の真の恐ろしさはその情報力であることを、この美少女はあっさり納得している。
「して、大公閣下は至急の出兵を求められておるが、敵が動くのはいつと見ているのか?」
「はい。大公は最短で二週間と予想されていました。
その時からすでに四日経過していますから、あと十日ほどかと」
「まずいな……」
赤龍帝は唇を噛んだ。
「ロレンソ、遠征軍を編成して出立するまで何日を要すると思うか?
私はうまくいって六日、下手をすると一週間はかかると思うが……」
ロレンソと呼ばれた男性副官は顔に微かな笑みを浮かべた。
彼もヒルダと同じで、赤龍帝の才気が嬉しくてならないのだろう。
「はい。おっしゃるとおりかと。
軍の編成自体は五日あればなんとかなりますが、肝心の物資の集積が間に合いません。
輜重隊を置き去りにして出発するのは自殺行為です」
「赤城市を空にして出るわけにはいかん。
休暇中の兵をかき集めても、出せる兵力は最大で八千だろう。
その内輜重・工兵はぎりぎり削っても三千は必要だ。
――となると、隊商路を封鎖しているという二千の敵を突破するのは容易ではないな。
何もなければギリギリ間に合いそうなのだが……」
その言葉に慌てたようにロレンソが口を挟む。
「いや、さすがに二千の兵を相手に苦戦することは……。
わが第三軍は王国でも最も実戦経験を積んでいる部隊ですぞ」
赤龍帝は少し不機嫌そうな顔で答える。
「そなたは先ほどのユニの言葉を聞いていなかったのか?
敵は戦場でわが軍の動きを逐一掴んでいるのだぞ。
奇襲も待ち伏せも思いのままだ。
目を開けた相手に目隠しして挑むのだということを忘れるな!
大体、実戦経験を積んでいるとお前たちは言うが、ほとんどが小競り合いではないか。
本格的な戦闘にまで及んだのは十年前が最後だろう――」
「ははっ!」
ロレンソは
リディアは考えを固めたようだった。
「明日、参謀会議を開く。
輜重隊の幹部には今すぐ伝令を走らせろ。
寝ていたら叩き起こして構わん。
商工組合も同様だ。
夜明けまでには物資の集積計画を完成させるんだ。
文句を言ったり値を吊り上げたら、購入ではなく徴発に切り替えると脅してやれ!」
顔に似合わぬ厳しい言葉に、かき集められた伝令将校たちが慌てて走り出した。
赤龍帝は取り残された格好になったユニに向き直ると、愛らしい笑顔を振りまいた。
「ユニ殿、遠路ご苦労であった。
隊商路が封鎖されているというのに、レリンから丸三日で到達したのが並大抵のことではないとは理解している。
今夜はゆっくり休まれよ。
ただし、明日からはまた働いてもらうからな」
そして、少し無理をしたような低い声で厳かに宣告した。
「赤龍帝の権限において、ユニ・ドルイディア二級召喚士には従軍を命じる」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます