黒龍野会戦 二十二 旅の仲間
薄暗い舞台の上、長い栗色の髪を垂らした美しい少女が、豊かな胸に幼子を掻き抱いて横たわっている。
ランプにメガホンのような覆いをつけたいくつもの集光器によって、ぼうっとした黄色い光に包まれ、そこだけが暖かで安全な場所であるように思わせる。
やがて、舞台のそでから一人の老人が静々と進み出てくる。
白く長いローブに身を包んだ旅の賢者だ。
賢者は手にした杖を幼子の額に当て、何事かをささやく。
若い母親は困惑して、すがるような眼差しを背後に送った。
それを合図に照明が切り替わり、母子の背後に立つ天使の姿を浮かび上がらせる。
白い薄絹の衣を纏い、背中には小さな翼を生やしている。
少し異質なのは、顔全体が柔らかな毛で覆われていることだった。
母親は天使に訴えかける。
「ああ、天使様。
私は無学ゆえ、東方の賢者様が話す
賢者様は何とおっしゃったのでしょうか?」
天使は慈愛に満ちた顔を少し悲しそうに曇らせた。
そして、清らかな声で若い母親に話しかける。
「賢者様は予言を授けられました。
ですから御子は人として死する運命をまぬがれません。
悲しいことですが、御子は逆縁の不孝をなすことでしょう」
母親には天使の言うことが、まだ完全には理解できていない。
「人が死ぬ定めということは存じております。
ですが、逆縁の不孝とはどういうことでございましょうか?」
天使は幼子の顔を覗き込み、額にかかった髪を撫で上げ、微笑みかける。
そして、母親に向かって静かに告げた。
「……御子は母親である貴女よりも先に亡くなるのです」
「ひぃっ!」
甲高い悲鳴を残して母親が泣き崩れる。
天使はその姿を見下ろし、
「聖母よ、嘆いてはいけません。
御子は人として死にますが、永遠の命を授かり、神の子として復活するのです」
広い講堂に詰めかけ、子どもたちの演技を見守っている保護者たちの間から、鼻をすする音が聞こえてくる。
この劇は救済学院では定番の出し物で、父兄にとってもお馴染みのものである。
今は聖母のもとを訪れる三人目の賢者が、救世主の死と復活を予言する一番の見せ場である。
この後、舞台には聖母と幼子の救世主(人形)、そして三人の天使と賢者が勢揃いし、紙吹雪が舞うなか聖歌を合唱して終わる。
――もうセリフは残っていないはずだった。
だが、天使役のフェイは、泣きじゃくる聖母の顔を抱きかかえ、にっこりと笑って話しかけた。
「泣いちゃだめ。
御子様は神の子として復活しても、きっと貴女のことを覚えているわ。
そして必ず会いに来てくれるの。
だから悲しまなくていいのよ……」
「……うぐっ、……えぐっ、……ひっく! ずずずずずーっ」
ここで堪りかねたような嗚咽と鼻を啜る音が講堂に鳴り響いた。
人目もはばからず啜り泣いているのはアスカだ。
その大きな体にしがみつくようにして、やはり顔中を涙と鼻水でぐしょぐしょにしているのは家令のエマである。
ユニもフェイのけなげな演技に目頭が熱くなっていた。
――だが、隣りの席で三十半ばの大女と五十代の痩身の女性が抱き合っておんおん泣いているのでは、泣くに泣けない。
フィナーレで子どもたちは観客から万雷の拍手を浴び、フェイも顔を紅潮させて誇らしげな笑顔を見せていた。
実際フェイの演技は見事なものだった。とても小学生とは思えないレベルだ。
ほかの子どもたちもフェイに引っ張られるように、感情のこもった演技を披露し、「今年の劇はここ数年で一番」だと、後に多くの父兄や教師たちから太鼓判を押された。
もちろん、フェイの毛に覆われた顔を見て、ひそひそとささやき合い、眉をしかめる父兄がいなかったわけではない。
ただ子どもたちは、もうすっかりフェイのことを仲間だと認めていたし、その顔も「そういうものだ」としか思わなくなっていた。
彼らはそれぞれの家庭でも、よくフェイの噂話をしていたから(そのくらいフェイは良くも悪くも事件を起こしていた)、偏見を持つ人が出てくるのは仕方がなかった。
それでも、その数が意外なほど少なかったのは、子どもたちの話題に上るフェイが魅力ある人物として描かれていたからだろう。
* *
劇が終わり、終業式も滞りなく終了すると、子どもたちが勢いよく走ってきて、それぞれの保護者に抱きついてくる。
アスカは、その頃にはどうにか立ち直っていた。
仕立てのよいスーツに身を包んだ長身の彼女は、父兄の中でも一段と目立つ存在である。
蒼城市の有名人である彼女が父兄の一員であるというのは、他の保護者たちにとっても誇りとするところだった。
まだ鼻の頭が赤いアスカに向かってフェイが全速力で走ってきて、見事な跳躍で飛びついた。
アスカは軽々とその身体を抱きとめる。
フェイは満面の笑顔だ。
もう天使の衣装は脱いで普段着に着替えているが、演劇の興奮はまだ彼女の中で燃え続けているらしい。
「ねっ、ねっ、あたしどうだった?
結構うまくやれたと思うんだけどなー!」
アスカは彼女の背中に回した手でぽんぽんと叩き、下におろす。
「ああ、とても素晴らしかったぞ!
練習したかいがあったな。
私はその……お前のことがとても誇らしかった。
立ち上がってこの場の全員に向かって、あの天使の役のフェイは、私の家族なんだ! そう叫んでやりたかったよ」
「うわー、アスカったら恥ずかしいからやめてよぉ。
そうでなくてもアスカとエマさんが大泣きしていて、かなり恥ずかしかったんだから」
「ふふふ、そうか。済まなかったな。
――ところでフェイ」
アスカは少し真面目な顔つきになった。
「劇でお前が言った最後のセリフなんだが、あれは台本にあったものなのか?
家での練習では聞いた覚えがないのだが……」
「あー、あれ? アドリブだよ?」
くったくのない笑顔でフェイが答える。
「なんかさー、ゴーマのおっちゃんのこと思い出しちゃって。
それでゴーマが言ったこと、真似してみたんだ。
なんかあの場面にぴったりだったろ?」
「――そっ、そうか……」
アスカはそう言って急に後ろを向き、ユニの側に走り寄った。
かがみこんで背の低いユニの耳に口を寄せ、ささやく。
「おいユニ、すまんがハンカチを貸してくれ。
私のは予備の方までもう役に立たん……」
アスカがフェイから離れた隙を家令のエマは見逃さなかった。
痩せぎすな身体をぷるぷると震わせながら、フェイをぎゅっと抱きしめる。
「よくやりました、よくやりましたね!
あなたはとてもよくやりました。
それでこそノートン家の者です。
本当によくやりました!」
そしてフェイの身体を放し、その顔を間近で覗き込む。
「あなたはとてもよくやったので、私はご褒美をあげることに決めました」
フェイの顔がぱっと輝く。
「えっ、なになに?」
エマさんはこんな顔もできるんだとフェイが驚くような笑顔でノートン家の家令は宣言した。
「今度の日曜日にアイスクリームを作ってさしあげます。
冬ではありますが、暖炉の火にあたりながら食べるアイスというのもおつなものでしょう。
フェイさん、あなたの好きなだけお友だちを呼んでようございます!」
「キャァァァーーーー!」
文字どおりフェイは飛び上がった。
「ホントにみんなを呼んでいいの?
エマさん、ありがとぉーーー!」
フェイはエマに抱きつき両頬にキスの雨を降らせると、この朗報を伝えるべく級友を探しにすっ飛んでいった。
「やれやれ、相変わらず嵐みたいな
半ば呆れ顔でユニが苦笑する。
「――まったくですわ。少しは落ち着いてくれればよいのですが」
厳めしい顔でうなずくエマさんの顔を見ていると、ユニは何だかからかいたくなってくる。
「あら、エマさん。
さっきフェイにキスされてた時のあなたの顔ったら……見物でしたよ。
よっぽど嬉しかったのね?」
「私のことはよろしゅうございます!
それよりもアスカお嬢様が……」
顔を赤らめたエマだったが、急に心配そうな顔を見せる。
ユニも彼女が言わんとしていることを気にかけていた。
アスカの側に寄って小声でささやく。
「あなた、さっきフェイを抱きとめていたけど、肩とか大丈夫なの?」
* *
黒龍野会戦で倒れたアスカは、即座に部下たちの手によって後方へ下げられた。
戦場で最も〝命知らず〟と称えられる衛生兵がすぐに駆け寄り、彼女の容態を診る。
息はあった。
しかし、意識は戻らない。
衛生兵は、怪我自体は打撲で命にかかわるものではないが、脳に衝撃を受けており動かすのは危険という判断を下した。
それでも乱戦のさなかに意識のない指揮官を置いておくわけにはいかない。
一刻も早く軍医の診断と治療を受ける必要もある。
軍旗を利用した簡易担架が作られ、男四人がかりで大隊長は慎重に運ばれる。
前線からどうにか百メートルほどの距離を確保したあたりで、オオカミの背中に乗せられた軍医がすっ飛んできた。
転げ落ちるようにして地面に這いつくばった軍医に、ユニが治療道具の入った黒い鞄を押し付け、今すぐアスカを診るよう無言の圧力をかける。
言われるまでもない。
軍医はアスカの上に身をかぶせ、首に指先を当てて脈を確認する。
目蓋を指で開き、瞳孔を確認する。
傍らで心配そうに見守っている(担架でアスカを運んできた)兵士に、「おい、この鎧を外せるか?」と聞く。
慌ててうなずき、鎧の留め金に手を伸ばそうとする兵士に軍医の怒声が飛ぶ。
「馬鹿野郎! 頭を動かすんじゃない!」
上半身の鎧を外され、紙のような顔色で脂汗を滲ませているアスカに対し、軍医は見立てを宣告する。
「脳震盪を起こしているようだが、命にかかわることはないだろう。
安静にしていればじきに意識も戻るはずだ。
身体の方は頸椎の捻挫と左肩の打撲だけだが、打撲は深刻だな。筋肉が少し断裂しているようだ。
それでも、これだけで済んだのは運がいい。
わしは武器や防具のことはわからんが、アスカ殿の鎧はよほどの上物らしいな」
結局、アスカが意識を取り戻したのはその日の夕方、野戦病院のベッドの上でだった。
帝国軍との戦闘は夜遅くまで続いていたが、彼らが自国領に完全撤退し、ボルゾ川に架けられた橋がケルベロスの放った炎で焼け落ちたことでようやく終結した。
アスカは左腕が上がらない状態だったので、戦後三週間の負傷休暇をもらうことになった。
* *
軍医は完治まで一か月以上かかると診断したのだが、現実には二週間ほどでアスカは剣の稽古を開始していた。
フェイを受けとめるくらい何でもなかったのである。
終業式の次の日曜日には、アスカの家でフェイの友だちを大勢招いた〝打ち上げ〟パーティーが開催され、エマさんが用意した大量のアイスクリームが振る舞われた。
そこで起きた数々の騒動は、アスカ家のメイドたちの間で語り草となるのだが、それはまた別の話だ。
* *
黒龍野会戦終結後、ユニはフェイの終業式までアスカの家に逗留していた。
カイラ村に戻ったのは年末のことだった。
年が明けると、今度はフェイが冬休みを利用して辺境に遊びに来たが、そこでまたとんでもない騒動に巻き込まれてしまう。
ようやくその事件が片づくと、本格的な冬になって、ユニはオーク狩りで各地を飛び回る羽目になった。
冬場は森にも食料が乏しくなり、飢えたはぐれオークが村を襲う事件が頻発する。
オーク狩りを
特に名前が売れているユニは引っ張りだこで、ほとんどカイラ村に腰を落ち着けていられなかった。
ようやく一息つけたのは、三月も後半に入った頃だった。
辺境中部の村で、オークが二頭同時に現れた事件を何とか解決し、ユニとオオカミたちはくたくたになってカイラ村に戻ってきた。
もう、この冬は十分過ぎるくらいに稼いだ。
と言うより、これはもうオーバーワークだ。
もう今月は店仕舞いだ! あたしに必要なのは休憩と冷えたビールだ!
ユニは固い決意を胸に氷室亭の扉を開けた。
働かないなら飲むしかないではないか――ということらしい。
店の奥、すこし薄暗いいつもの席に向かうと、先客がいた。
一人はマリエ――村の掲示板の管理を任されている若い娘だ。
その隣には若い男が座っていて、マリエが腕に抱きつき、あからさまに自分の胸を押しつけている。
ユニは立ち尽くしたまま、しばらく言葉が出てこなかった。
若い男はくったくのない笑顔でユニを見上げている。
テーブルの上にはビールと鶏の炭火焼き。すっかりくつろいでいるようだった。
「ちょっと、マリウス!
何であんたがここにいるのよ?」
男は元帝国軍のマリウス魔導中尉だった。
「いやぁ、ユニさんを探していたら、このお嬢さんがここにいれば会えるって案内してくれたんですよ……」
「あたしを探しに? 何の用で?」
「まぁまぁ、立ち話もなんだから座りませんか?
あ、お嬢さん。案内してくれてありがとう。
ちょっと仕事の話があるから、悪いけど遠慮してもらえるかな?」
マリエは渋々立ち上がり、マリウスの耳元に唇を寄せて何事かささやいてから席を外した。
「あらま、モテるじゃない。
それより、仕事の話って言ったわね?
悪いけどあたし、今年はもう店仕舞いしたのよ」
ユニは手を上げて店員を呼び、ビールと鶏を注文する。
「あ、僕もビールをおかわり」
ユニはじろりとマリウスを睨む。
「言っとくけど勘定は別だからね。
それで、一応聞いてあげるけど、何の用なの?」
今日のマリウスは私服だった。
ざっくりと編んだ薄手のセーターに綿ズボン、革のハーフコートは椅子の背に掛けている。
「王都からのお使いですよ。
これをユニさんに渡してくれって」
彼はそう言うと、ハーフコートの内ポケットから封筒を取り出してユニに渡した。
「王都から?」
ユニは心底から嫌そうな顔で封筒をつまむ。
中から折りたたまれた紙片を取り出し広げてみる。
内容は隊商からの護衛依頼だった。
王国最南端の赤城市から南方諸国の一つ、ルカ大公国北部の都市レリンまで、出発予定は四月一日。
相場より高めの報酬とは別に、同額の成功報酬を出す。
委細はこの使いの者に聞けとあった。
「相手が違うわ。
隊商の護衛なら傭兵の仕事でしょ。何であたしのところに回ってくるわけ?
――てか、大体何であんたがそんな依頼を持ってくるのよ?」
マリウスはにこにこしたままだ。
「それは、僕もユニさんと一緒に行くからですよ」
「はぁ? 何で?」
「アリストア様にそう命じられました」
「ちょっと待ってよ!
あたしは断るって言ったでしょ?
大体、隊商を襲うのは野盗と相場が決まっているわ。
あたしはオークが専門なの!」
「だからですよ」
マリウスは涼しい顔で答える。
「南の隊商路にオークが出たんです――」
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