黒龍野会戦 二十一 黒蛇ウエマク

 中央部隊の前方で作戦を指揮していたアリストアと黒蛇帝のもとへ伝令が駆けつけたのは、アスカが倒れてから十五分ほど後のことである。


 念話が使えない王国軍は、情報の伝達という点では帝国に大きな後れを取っていた。

 伝令将校は黒蛇帝の前に転がるようにして駆けつけ、報告する。


「申し上げます!

 左翼の第四軍指揮官、ノートン大佐負傷!

 現在、後方に搬送中。敵が魔法で放った岩石の一部が直撃したようです」


 アリストアが険しい顔で問いただす。

「容態はどうなのだ!」

「はっ、息はあるとのことですが、意識が戻りません。

 詳しいことは軍医が診るまでは何とも……」


「やれやれ、せっかくあの娘に宝剣を渡したというのに……。

 確かにあの鎧は強力な魔法防御が付与されていますが、岩石自体は魔法とは無関係。

 敵も一筋縄ではいかないようですね」

 

 突然頭の中に鳴り響いた、男とも女ともつかない声に、伝令は驚いて顔を上げ、きょろきょろと周囲を見回した。

 アリストアは苦笑して伝令をその場から下がらせる。


 声は明らかに黒蛇帝の後ろに控えている輿の上から発せられたものだ。

「アスカとミノタウロスが突破すれば、十分敵を崩壊させられるかと思いましたが、少し予定が狂いました。

 でもご覧なさい。敵は退却するようです」


 こくウエマクが言うように、帝国軍は左翼のような急激な撤退ではないが、中央も右翼も戦線を維持しながら徐々に後退を始めていた。

「どれ、このまま帰すのでは帝国が得るものはないに等しい。

 ここは少し彼らにお土産を持たせてやりましょう。

 ヴァルター、私が前に出ます」


      *       *


 総退却とは言いながら、マグス大佐は本国まで撤退するつもりなどない。

 ノルドの村々を囲む形で防衛線を再構築し、増援を待つ腹だった。

 表向きはノルド人の保護だが、実際には住民は人質、あるいは最悪〝肉の盾〟にすればよい。


 先ほど念話によって、対岸の後方には援軍の要請を出している。

 すぐに大隧道内の各所で待機させている部隊が動き出すだろう。

 遅くとも明日までには四万の援軍が来るはずだ。

 そうなれば、王国の奴らを数で圧倒できる。


 鎧女を確実に仕留められなかったのは心残りだが、あの様子だと当分戦場には復帰できないだろう。


 三体の幻獣たちも追撃することなく、こちらの後退を静観している。

 恐らく彼らとて、全く疲労しないわけではないのだろう。

 緒戦は躓いたが、明日になればまた爆裂魔法が撃てる。その時を待っておれ……。


      *       *


「何だあれは!」

 大佐が明日の勝利を確信していた時、幕営内の誰かが叫び声を上げた。

 まだ少尉に任官されたばかりの若い連絡将校が指さす先。

 それは王国軍中央部隊の先頭である。

 そこに何か黒い旗か柱のようなものが立っている。


 マグス大佐も、幕僚の将校たちも、みなそれぞれに望遠鏡を覗きこんだ。


 ――目に映ったのは黒い蛇だった。

 それが高さ三、四メートルほども首をもたげている。

 地面に残る身体は一、二メートルしか残されていないから、常識的に考えてそんな高さまで首を上げられないはずだが、現実にそうなっている。

 望遠鏡で拡大された蛇体は、全身が黒い羽毛で覆われていることが確認できる。


「何なんだ、あれは……?」

 誰かがまた同じ疑問を口に出した。

 しかし、王国第二軍の中央部隊、その先頭に立つ黒い蛇――で、あるなら〝黒蛇ウエマク〟以外にありようがない。


「あんなものなのか……」

 マグス大佐が気が抜けたようにつぶやいた。

 体長はせいぜい五、六メートル、直径は二、三十センチといったところだろう。

 ニシキヘビやボアといった南方に棲む蛇なら珍しくもない大きさだ。


 あんな蛇に戦う力があるのだろうか?

 ――いや、仮にも王国の四神獣の一つだ。ラオフウが雷を操ったり、グァンダオのブレスのように、あの蛇も地脈を操るという特殊能力で攻撃してくるのかもしれない。

 だが、あの大きさで? という疑念はどうしても拭い去れない。


 もともと帝国軍による今回の作戦目的の一つが、謎に包まれているウエマクの情報収集というものだった。

 少なくともその姿を確認できただけでも僥倖である。

 あとは、その能力さえ確認できれば、多少の兵を失ったとしてもお釣りがくる。


「さあ、我々を攻撃してみろ!」

 マグス大佐は周囲に対物防御障壁を展開しながらほくそ笑む。

 視線は望遠鏡を通したウエマクから外さない。


      *       *


 敵味方の全軍が注視する中、ウエマクは高くもたげた首を、風に吹かれたようにゆらゆら揺らしている。

 そしてその口がゆっくりと開き、上を向いた。


「アアアアーーーー、アアーー、アーーーーーー、アアーーーーアーーーーー……」


 突如として頭の中に響き渡る甲高い歌声に、その場の全員が身体をびくりと震わせ、思わず身をすくめる。

 それは帝国側だけではなくなく、王国の兵士たちも同じだった。


 耳からではなく、頭の中に直接鳴り響く歌声――そう、それは〝歌〟としか表現しようがなかった。


 ウエマクの声を聞いたことのあるアリストアさえも驚いていた。

 黒蛇の声は、男とも女とも判別できない一種独特のものだったが、今聞こえている歌声は、完全にソプラノの女の声のようだった。


 歌詞はなく、ただ「アー」という音だけで構成された歌。

 不快ではないが、心地よくもない。あまりに複雑で奇妙な歌だ。

 多分、歌ってみろと言われても真似をすることは不可能だろうと思われる、そんな歌だった。


 歌は一分弱続き、突如止んだ。

 戦場に静寂が訪れる。


 両軍の誰もが「何かとんでもないことが起こる」と思って、不安に身構えていた。

 それを知っているのは、ウエマク自身と黒蛇帝ヴァルターだけなのだ。


 五秒過ぎ、十秒過ぎ、二十秒が過ぎた。

 ――何も起きない?

 帝国兵も、王国兵も、みな顔を見合わせ、ひそひそとささやき合っている。

 ウエマクは謎の歌を歌い終えると、持ち上げていた首を戻し、地上で悠々ととぐろを巻いていた。


 マグス大佐は望遠鏡を覗いたまま、苛立たしげな声をあげる。

「何だ、何も起きないぞ? ――おわっ!」


 その瞬間、戦場にいた全員が激しいショックに襲われた。

 がくん! という縦揺れ。足元の地面が十センチほど忽然と消えてしまい、無防備のまま落下したような感覚だ。


 続いて身体を左右にゆっくりと振り回されるような、気持ちの悪い感覚が襲ってくる。

 揺れは次第に大きくなり、しまいには何かに掴まらないと立っていられないほどになった。


「地震だ!」

 誰かの叫び声が聞こえてくる。

 確かにそれは地震、それも結構大きな地震だった。

 ゆらゆらとした揺れは二十秒ほども続き、段々と収まっていき、やがて戦場はもとの状態に戻った。


 マグス大佐は通信魔導士に、全軍の被害状況を一応確認させた。

 しかし、大きな地震とはいえ、ここは荒野である。

 建造物があるのならその倒壊に巻き込まれることもあるだろうが、この程度の地震で兵士に被害が出るとは考えにくい。


 ――これがウエマクの能力だと?

 確かに噂だと、ウエマクは地脈を操ると言われていたから、地震を起こすということは考えられる。

 しかし、これでは何の攻撃にもならないではないか?


 第一、相手に被害を与えるような大地震を起こせたとしても、それでは自分たちの兵士や国土にも被害が及んでしまうだろう。


せん!」

 吐き出すようにマグス大佐が言い放った。

 それは両軍の多くの者の気持ちを代弁するようなものだった。


      *       *


 アリストアも同じ疑問に捉われていた。

 涼しい顔をしているウエマクは、するすると体をくねらせて輿のうえに這い上がり、再びテントのような覆いの中に入ってしまった。


「一体ウエマクは何をしたのですか?」

 彼は馬を並べているヴァルターに訊ねる。


「何って、地震を起こしたのですよ」

 黒蛇帝は当然のことだと言わんばかりに答える。

「それはわかりますが、どういう目的があるのですか?

 特に何かが変化したということもなさそうですが……」


 ヴァルターは少しいたずらっぽい笑顔を浮かべた。

「アリストア殿、前にウエマクは局地戦が苦手だという話をしましたな?」

「ええ、確かに伺いましたが……」


「地震はウエマクの持つ能力の一つに過ぎませんが、あまり大きな地震を起こすと、兵士ばかりか王国の市民や建造物にまで被害が出るから使いづらいのです」

「……それは、わかります」


「だったら、もっと遠いところで地震を起こせばよいのです。地脈はつながっていますから。

 そうは思いませんか?」


「あ――」

 やっとアリストアも理解した。

 なるほど、その手があったか!


 ヴァルターは愉快そうに笑った。

「いやぁ、ここでさえあれだけ揺れたのです。震源地はえらいことになっているでしょうなぁ……。

 連中、慌てふためくことでしょうよ。

 さて、それでは仕上げと参りましょう。


 ――全軍を進撃させよ!」


      *       *


 何も起こらず、ウエマクも隠れてしまったとあれば、いつまでもぐずぐずしている必要はない。

 マグス大佐は全軍に命じて、ノルド地方東端のスニフ村近郊までの退却を命じた。


 粛々と後退を続ける中、三十分くらいして通信魔導士が長距離念話を受信したと報告してきた。


「大変です! ボルゾ川に渡した仮設橋が地震で被害を受けたようです。

 橋の補強に当たっていた多くの作業員が落下した模様。

 橋自体もかなりの部分崩落し、通行に支障をきたしているとのことです!」

「何だと!」

 報告を受けたマグス大佐の顔色が変わった。


 まずい! 橋の通行に制限がかかれば援軍の渡河に影響する――というより、万一の時の撤退が困難になっては、作戦自体が維持できなくなってしまう。

 第一、補給路が絶たれたら、そこで我々はお終いだ。


 どうする? 緊急に対岸まで撤退するか?

 いや、それはあり得ない。

 まずは時間を稼ぐんだ。そうすれば橋も復旧して増援も期待できるだろう。

 うん、そうだ。それしかない。


 大佐が頭脳を忙しく回転させ、状況への対応を決心した時、通信魔導士が悲鳴を上げた。

「どうした!

 まさか橋が落ちたとか言うんじゃないだろうな?」

 魔導士はふるふると顔を横に振る。その目には涙が浮かんでいる。


「先ほどの地震で、大隧道の各所が崩落……中で待機していた増援部隊との連絡が途絶えたとのことです」


      *       *


 ウエマクは地脈を操るという能力を持っている。

 したがって、地脈がつながっている限り相当の遠方であってもその力が及ぶ。

 かの蛇はコルドラ大山脈、それも帝国が東西交通路として掘削した〝大隧道〟を標的に局地的な地震を起こした。


 岩盤が崩落し、圧死した帝国兵は数知れず――それよりも深刻なのが東西交通の遮断であった。

 トンネルを復旧し、交通を復活させるまで一年か、二年か……あるいはそれ以上かかるかもしれない。


 今となっては援軍を望むなど夢物語、橋が無事なうちに一刻も早く帝国領まで撤退しなくてはならない。


「全軍、退却する!」

 刻々と入る念話による通信で状況を把握したマグス大佐の判断は早かった。

 ――というより、それ以外取る道がなかったのだ。


 問題は退却に当たって、王国軍の追撃をいかに阻止するかだった。

 特に、最終局面で橋を落とされるわけにはいかない。

 ケルベロスなんかを近づけて、火球で橋を焼かれたら目も当てられない。


 そのため、最後尾の撤退戦は酸鼻を極めた。

 魔導士たちがいつものように殿しんがりを務めようとしたのに対し、一般兵がそれを許さなかったのだ。


 最後尾が無事に橋を渡ることは絶望的だった。

 そのため、貴重な魔導士を無事に帝国領に後退させるため、千を超える一般兵が王国領内に踏みとどまり、幻獣たちの餌食になることとなった。


 帝国にとって幸いだったのは、王国軍が過剰な追撃を控えたことである。

 王国がその気になれば、帝国軍を殲滅させることも不可能ではなかった。

 ケルベロスやスプリガンを先回りさせる以外にも、橋を落とす手はいくらでもあったからだ。


 唯一の退却路と補給路を断たれた場合、帝国軍の命運は火を見るよりも明らかである。


 王国軍がそれをしなかったのは、何のメリットもないからだった。

 多くの魔導士、そしてマグス大佐まで失うことになれば話は別だが、帝国にしてみれば、たかが一万の一般兵を失うことなど大した損害ではない。

 ウエマクの力を見せつけることで、帝国に対する抑止力の顕示は十分に達した。


 領土侵害に対する懲罰と言える大隧道の崩落は、帝国の国家財政に影響を及ぼすほどの経済的打撃を与えたはずだ。

 ならばこれ以上敵を追い詰めて、死に物狂いの反撃を受ける必要はないだろう。


 それがアリストア、黒蛇帝ヴァルター、黒蛇ウエマク――三名の一致した意見だった。


 最終的に橋を渡って帝国領に撤退したのは八千弱。二千人余の帝国兵が、泥炭混じりの荒野に屍をさらす結果となった。

 さらに、増援として大隧道で待機していた兵たちの犠牲が一体何人にまで膨れ上がるのか、今のところ見当もつかない。

 そして兵士はともかくとして、貴重な魔導士を大量に失った痛手はあまりに大きい。


 多大な犠牲を払って帝国が得たのは、北の護り、黒蛇ウエマクの恐るべき力と、国家召喚士が率いる幻獣の圧倒的な威力という〝情報〟だけだった。

 のちに「黒龍野会戦」と呼ばれるようになるこの局地戦は、王国軍の圧勝とされ、それが長い間戦史研究家の常識となる。


 ただ、約百年を経過した後年には、これは王国への進出を目論んだ帝国にとって「最初の勝利」だったと評価する研究者が現れ、その議論の決着は今もってついていない。

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