第八章 秘匿名「R作戦」

秘匿名「R作戦」 一 初めての遅刻

 参謀本部の朝は早い。

 一応、軍の服務規程では日勤将校の始業時間を八時半と定めている。

 だが、若手将校の多くは七時を回ると大半が仕事を始めている。


 次官以上の幹部将校には、日勤・夜勤の別もなければ、始業・終業の時間も定められていない。

 必要に迫られれば三十六時間、四十八時間勤務なども珍しくはない。


 もちろん、平穏な日々が続くことだってある。

 そうした時でも、率先して朝早く、規則正しく出勤するのが幹部将校というものだ。

 アリストア・ユーリ・ドミトリウス・スミルノフ参謀副総長もその例に洩れない。


 参謀本部には四人の副総長がいて、彼らが全軍の頭脳として総てを取り仕切っている。

 一応、それぞれが戦務、作戦、補給、情報を担当しているが、〝総長〟であるから全ての分野に精通していなければならなない。


 一人が倒れても、別の者が即座にそれに代わってカバーできるようになっているのだ。

 本当の意味で各部門の専任担当となるのは、彼らの部下である次官たちである。


 参謀本部で次官以上に昇進すると、階級がなくなる(給与水準で実質的な階級は推し量れる)。

 それは、例え佐官級の参謀次官であっても、将官に命令を下すことができるためだ。

 階級が絶対の軍隊において、参謀本部の高級将校だけがそれを超越しているのだといえる。


 ちなみに、アリストアは中将待遇である。

 連隊長クラス(中将~大将)はもちろん、軍団長である四帝(別の理由で彼らにも階級がないが大将相当)であろうと、作戦上は中将扱いのアリストアの命令に従わなくてはならない。


      *       *


 黒龍野合戦の後始末は年末まで続いたが、年が明けてようやくアリストアに平穏な日常が戻ってきた。

 もっとも彼の部下たちは、まだ目を血走らせ、シャツのカラーを脂で黒く汚したまま駆けずり回っていたが……。


 国家間の紛争であり、実戦が行われ、双方に多大な死傷者が出たにも関わらず、表面上は早期にごたごたが集結したのには訳がある。


 両国は互いに宣戦布告をしていない。

 帝国はあくまで自国民保護のために王国が不法占拠している地域に進駐した。

 王国は自国に不法侵入した帝国軍を追い返した。


 つまり、これは両国間の戦争ではなく、領有権をめぐる地域的な小競り合いに過ぎなかったというのが、双方の公式な見解だった。


 しかし、黒蛇ウエマクが帝国に与えた打撃は計り知れない。

 コルドラ大山脈の東西を結ぶトンネル群、〝大隧道〟は各所で崩落し、その内部で待機していた多くの兵士に多大な損害を与えた。


 帝国軍は公表していないが、推定で二万人を超す兵士が死亡、怪我人を含めると五万人の被害を出したと言われている。


 人的被害よりも深刻なのが経済的な損失である。大山脈を挟んだ東西唯一の連絡路である大隧道の復旧は急務だった。

 復旧を急げばそれだけ国家財政を圧迫する。


 もともと百年以上の年月をかけてこつこつと開通させてきたトンネルである。

 それを一年で完全復旧などできるわけがない。


 今後十年、いや、二十年は国家財政を圧迫する要因として、大隧道が帝国の為政者を悩ますのは必定だった。

 王国への復讐?

 財布をひっくり返してみたまえ、さあ、どこにそんな余裕があるというのだ?


 帝国としては王国に難癖をつけて補償を分捕り、少しでも損失を補填したいところだが、それには力を背景とした圧力が不可欠である。


 それなのに、力の源である軍を東に送る手立てがないのだ。

 帝国が今回の紛争に対して口をつぐんでしまったのは、仕方のないことだった。


 形の上では〝勝った〟王国の状況も寒々しいものだ。

 恐らく、今ボルゾ川を渡って帝国領に攻め入れば、苦もなく帝国に勝てるだろう。

 コルドラ大山脈東部の広大な帝国領を手に入れることだって不可能ではない。


 では、その広大な占領地域を維持するだけの軍はどこにあるのだろう?

 王国は召喚士の能力に頼ることで軍事費をぎりぎりまで削減し、繁栄してきた国だ。


 帝国の兵力は公称六十万人である。

 王国の総兵力は、わずかに四万五千人に過ぎない。

 リスト王国は自国を守ることができても、他国を侵略する力など持っていない国なのだ。


 戦後処理に必要な書類は、雪崩を起こしそうな高さでアリストアの机上に積み上がっている。

 それでも、向こう十年は帝国の侵攻はないだろう。

 ――それこそが大切なことだった。


      *       *


 アリストアは朝、七時十五分に王宮に登城し、控室で制服に着替える。

 そして、七時半きっかりに執務室に入り、座り心地のよい椅子に身をゆだねる。


 それを待ち構えていたように秘書官室の扉が開き、ロゼッタが銀のお盆に乗せた茶器を運んでくる。


 透明感のある乳白色の白磁のカップは、外側に藍色でオリエンタルな模様が描かれている。

 そこに注がれる金褐色の紅茶が、薔薇のような芳香を放つ。

 ロゼッタが実家から持ち込んだ最高級の茶葉だ。


 砂糖もミルクもなし。

 その代わり、小さな平皿に秘書官お手製のクッキーが二枚添えられている。


 干しレーズン少しとナッツをたっぷり練り込み、バターを効かせ、甘さは控えめでわずかに塩気も感じさせる焼き菓子。

 それは、甘いものが苦手なアリストアの好みに合わせ、なおかつカロリー補給を重視したものだ。


 ロゼッタはアリストアが朝食をあまり摂らないことを心配していた。

 それを補うために毎朝早起きして焼いてくるのだ。

 はじめは普通の甘いクッキーだったが、アリストアは残すことが多かった。


 彼女は目に涙を浮かべて、何が悪かったのか、どんな味が好みかと食い下がり、次第に彼好みの味を探っていったのである。


 このお茶の儀式は、今ではアリストアの朝の楽しみとなっており、秘書官にクッキーの枚数を三枚に増やしてもらうよう頼むべきか、密かに悩んでいるところだった。


 その日もアリストアは執務室の机を前にして、椅子に腰をかけた。

 いつものように扉が開き、ロゼッタが鈴を転がすような声で「おはようございます」と言いながら紅茶とクッキーを持ってくるはずだった。


 ――しかし、いくら待っても扉が開かない。


 五分過ぎ、十分が過ぎた。

 アリストアは懐中時計を制服のポケットに戻すと立ち上がった。

 秘書官室に通じる扉の前に立つと、ためらいがちにノックをする。


 ――反応がない。

「ロゼッタ、開けるぞ」

 アリストアは声を掛けてから扉を押し開ける。


 部屋の中には誰もいなかった。

 女性士官用の制服を完璧に着こなし、美しい金髪を結い上げ、薄い銀縁の眼鏡をかけた自慢の秘書官の姿がない。

 彼女が毎日、朝の七時には秘書官室に入っていることをアリストアは知っていた。


 夜勤明け、あるいは溜まった書類と格闘しようとして早出している若手将校から聞いていたので間違いない。

 もちろん、秘書官の出勤時間も規定では八時半である。


 アリストアは内心の動揺を押し殺して考える。

『おかしい……。

 彼女は私の秘書官になって八年、一度として遅刻したことはない。

 いや、まぁ……まだ始業五十分前だから、遅刻とは言えんが――。

 ……そういえば、昨日のロゼッタはどこか様子がおかしかったな』


 日勤者の終業時間は午後五時半である。

 ただ、ロゼッタはいつも午後七時、遅い時には八時頃まで残っていることが多かった。

 アリストアが「もう遅いから帰りなさい」と声を掛けると渋々帰る――そんな毎日だった。


 それが昨日は、午後六時前だというのに、ロゼッタは彼の執務室に顔を出し「今日はこれで失礼いたします」と言ったのだ。


「ん? ああ、ご苦労さん。

 ――いつもより早いが、何か用事でもあるのかね?」

 思わず尋ねたアリストアに対し、ロゼッタは意外なことを口走った。


「ええ、食事の約束がありまして……」

「そうか、女性同士の付き合いもあるだろうからな……」

「いえ、それが殿方とのお約束ですの。

 いろいろと支度がありますのでご免くださいまし」


 ロゼッタはそう言い残すと会釈をし、コートを手に抱えて執務室を出て行った。

 殿方と食事……だと?

 あ、……ああ、そうか。

 彼女の実家は大きな繊維商だし、ロゼッタは長女だ。そうした接待もあるのだろうな。


 アリストアは内心の動揺を抑え込み、努めて平静を装った。

 彼女に限って浮ついたことはないだろう。


 ロゼッタが美人で、有能で、魅力的な女性だということは誰もが認めており、それはアリストアの密かな自慢であった。

 ――ならば、三十歳を過ぎても未だ独身だというのはどうしたことだろう?


 それは、ふとした瞬間に時々浮かび上がってくる疑問だったが、彼はできるだけ深く考えないようにしていた。

 部下とはいえ、女性のプライバシーに立ち入るのは許されることではない。


 机の上を指がこつこつと叩く音が響く。

 悶々として時を過ごすアリストアを嘲笑うかのように、時間はなかなか進んでいかない。


 永遠とも思える時が過ぎ、正規の始業時間である八時半になった。

 しかし、秘書官室にロゼッタが現れる様子はない。


 彼は待ちかねたように執務室を出て、総務課を訪ねた。

 事務の女性に秘書官がまだ出勤していないことを告げ、遅れるとか休むとか、何か連絡はなかったか尋ねてみた。

 係りの女性は何も聞いていないと答えるのみだった。


 彼は「ふむ……」と考え込んだ。

 執務室の隣りには、二名の副官が詰めている部屋がある。

 彼はそこに顔を出し、秘書官が出勤しておらず、連絡もないことを告げて、誰か若い将校を彼女の実家に向わせ、様子を見てくるよう手配を頼んだ。


 秘書官の無断欠勤は重要事項であるし、彼女の安全、健康には上官として気を配る義務がある。


 それに彼女の実家、ファン・パッセル家は王国でも有数の大商人だ。

 数多くの紡績工場や縫製工場を所有し、製造・卸・小売から輸出入にいたるまで手掛けている。

 そんな富裕商人の長女であるロゼッタの身に何かあったでは、軍の立場すら危うくなる。


 とりあえず副官の一人、ヤン大尉に秘書官の代理を務めてもらうよう頼む。

 副官と秘書官の役割は近く、その違いを明確に説明することは困難だが、秘書官はより私的なサポート役、副官はより公的な職務上の補佐だと言える。


 極めて乱暴な分け方だが、アリストアが王宮の執務室で事務処理や来客者との懇談をする場合は秘書官が側につき、会議室での軍議や、演習・戦場においては副官が側にはべると思えばよい。

 

 ヤン大尉とその日のスケジュールを確認し、仕事の段取りを話し合っているうちに、使いに出した将校が戻ってきた。


 使いの若い少尉は即座に執務室に通された。

 彼は緊張しながらも、少し困ったような顔でアリストアに報告する。

 ロゼッタの家の者の話では、彼女はいつもの時間に出かけたと――。


 アリストアは眉間に皺を寄せてその報告を聞いた。

「これは、彼女の身に何かが起こったという可能性が高そうですね。

 ロゼッタ中尉の日頃の行動から考えるに、彼女が自らの意志で失踪したとは考えにくいでしょう。

 彼女は軍の一員であり、かつ私の秘書官です。

 軍の威信にかけても捨ててはおけません」


 アリストアはもう一人の副官、リュック大尉に命じ、捜索班を組織し早急に行動を開始するよう指示を出した。

 リュック大尉はえらく張り切って執務室を出ていった。


 ロゼッタの捜索隊は有志によって編成されることになったが、志願者が殺到して抽選になった。

 彼女を密かに(またはあからさまに)慕っている男性将校は少なくなく、参謀本部以外の部署から噂を聞きつけて問い合わせてくる者すらいた。


 ロゼッタの出勤経路を解明して調査、聞き込みをすること、誘拐や人身売買をする組織の洗い出しや情報収集が、活動の第一歩となる。

 参謀本部とのつながりが深い情報部からも全面協力が確約された。


 この時点では、ロゼッタの発見・救出はさほど困難ではないと楽観視されていたのである。

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