黒龍野会戦 六 亡命
オオカミたちは少しずつ、じりじりと進みながら足跡を追っていた。
なかなかはかどらない追跡に、人間であればいら立ちを募らせるところだが、こういう時のオオカミは呆れるほどに辛抱強い。
それでもユニが足跡を消したあたりから二キロは進んだであろうか、突然先頭に立って地面に鼻づらを近づけていたライガが頭を上げた。
耳をぴんと立て、緊張した面持ちで空を見つめている。
リーダーの異変はすぐに周囲に伝わった。
『ライガ、ユニの声が聞こえたの?』
傍らにいたヨミが声をかける。
群れの仲間たちも周囲に集まってきた。
『いや、声は聞こえないが……ユニと繋がった気がする。
……うん、方角も今まで進んできたのと大体合っている。
よし、足跡の追跡は中止するぞ。
どうやらユニの意識が戻ったようだ。
俺に続け!』
ライガは走り出した。
群れの仲間は何も言わずにその後に続く。
矢のように駆けながら、ライガはユニに呼びかけ続けた。
* *
ユニはがばっと顔を上げた。
これ以上、意識を失った振りをする意味がない。
奥の方の若い男の見覚えのある顔もちらっと見えた。
確か中之島で遭遇した魔導部隊にいた若者だ。
その姿を隠すように、彼女の目に近づいてくる男の姿がいっぱいに映った。
痩せぎすで肉の薄い身体に張りついた乾いた皮膚、切れ長の目に薄い唇、銀髪を額で真っ直ぐに切り揃えている。
その顔には驚きの表情が浮かび、すぐに乾いた酷薄な笑みが浮かぶ。
手には小さなガラス瓶を持っている。
「おや? お目覚めですか。
――と言いたいところですが……。
その様子じゃ、だいぶ前から気がついていたんでしょう。
盗み聞きとはお行儀が悪いことだ。
まぁいい。あなたには、これから尋問を受けてもらいます。
正直にお答えになったほうが身のためだと忠告しておきましょう」
「どうせ薬で廃人にするつもりのくせに、忠告とは笑わせるわ!」
椅子に縛りつけられたままのユニは、立っている男を見上げて毒づいた。
「こんな手の込んだ芝居まで打って、私のような民間の召喚士を誘拐するなんて、どういうことなの?」
アルハンコ少佐は楽しそうな笑みを浮かべたままだが、瞳の奥には冷たい光が宿っている。
「マグス大佐があなたに是非とも礼をしたがっていましたからね。
あなたは上層部しか知らないような秘密に首を突っ込んでいるそうではありませんか。
調べる価値は十分ありそうです。
――さて、あんまりおしゃべりしていて、あなたのオオカミたちに見つかっては面倒です。
そろそろおとなしくなってもらいますよ」
しかし少佐の判断は少しばかり遅すぎた。
ユニが顔を上げ、彼と会話を始める前に、ユニとライガは意志の疎通を取り戻していたのだ。
ほんの少し、時間を遡る。
立ち込めていた霧が晴れるようにユニの頭の中がクリアになり、懐かしい声が響いてきた。
『……ユニ、ユニ!』
『ライガなの? よかった!』
『こっちも聞こえる!
そっちの位置は肉眼で確認した。お前がいるのは炭焼小屋らしい。
状況はどうなっている?』
『縛られていて身動きできない。
これから敵を確認するわ。
少し待って』
ユニは意識を取り戻したことを隠すのをやめた。
そして少佐と言葉を交わしながら、頭の中では忙しくその状況をライガに伝えていたのだ。
『敵は二人、どちらも魔導士らしい。
一人は中之島で会った障壁魔法を使う奴だわ。
不意を突かないと防御陣を張られて手出しできなくなりそう。
あたしの方でなんとか騒ぎを起こして隙をつくってみるから、待ってくれる?
いよいよ危ないって時は突入していいわ』
『わかった、気をつけろよ』
ライガは追いついた仲間たちに周囲を固めさせ、待機させる。
ユニが監禁されていたのは、村人が炭を焼くときに寝泊まりする粗末な小屋だった。
中に突入するとすれば窓からしかなさそうが、板戸が閉まっている。
一度の体当たりでそれをぶち破るれるか、賭けとしか言いようがない。
ユニがどんな騒ぎを起こすつもりか知る由もないが、中の様子に神経を研ぎ澄ませて待つしかない。
窓は両側に二つ。
ライガは突入役を自分と、二番目に体の大きなハヤトに決めた。
飛び込んだら、敵に魔法を使う隙を与えずに一気に噛み殺す手筈だ。
一方、中ではユニが必死になって頭脳を回転させていた。
何とかしてライガたちが突入するきっかけを作らなければならない。
ライガには大見得を切ったが、何かいい案を思いついたわけではない。
――足は縛られていないのだから、体当たりしてみるか?
いや、椅子に身体をくくりつけられたままでは、立ち上がるのもままならない。
第一、右足のブーツの紐が解けて脱げそうになっている。
走ろうとしても、つまづいて転びそうだ。
どうする? どうしたらいい?
ユニの焦りをあざ笑うように、少佐と呼ばれる男は、つかつかとユニの側に近寄ると、腰からナイフを抜いた。
全身に冷たいものが走り、鳥肌が立った。
駄目だ! ライガを呼ぶか?
しかし、少佐の動作はユニを刺そうというものではなかった。
そのまま無造作にユニの右腕を掴むと、ニの腕のあたりの服に刃を滑り込ませ、布を切り裂く。
ユニの白い腕が露わになると、彼はそれで満足したようだ。ナイフをしまい、テーブルの方に戻っていく。
少佐はテーブルに置かれた鞄から黒いマスクを出して顔に着ける。
次に革ケースから注射器を取り出し、先ほど取り出しておいた薬瓶の蓋を取った。
男は注射器で透明な液体を薬瓶から吸い上げると、再び蓋を閉める。
薬液が空気に触れていたのはわずかな時間なのに、周囲に刺激臭が漂い、マリウスが顔をしかめて顔を袖で覆った。
「ああ、済まない。
言うのを忘れていたが、これは揮発性が高いんだ。
まあ、大量に吸わなきゃ頭痛がする程度です。心配いりませんよ」
後ろで迷惑そうな顔をしている中尉を振り返って、少佐は言い訳をする。
マリウス中尉は「言い忘れた? 絶対わざとだ!」という顔で、恨めしい視線を送っていた。
そして少佐はユニの方に再び振り返る。
その瞬間、ユニは椅子ごとお尻をずらして自由な右足を大きく後ろに引くと、そのまま勢いよく前に蹴り出した。
「ズボッ」と間の抜けた音がして、つま先に鉄板を埋め込んであるブーツが脱げ、こちらを振り返った少佐に向かって飛んでいく。
それが敵の頭部にでも当たったのなら、相当な衝撃を与えていただろう。
だが、そうそう物事は都合よくはいかない。
というより、どう考えても命中する方が奇跡だ。
当たり前のようにブーツは狙った少佐から大きく外れてテーブルにぶつかり、「ゴトッ」という重たげな音を立ててそのまま床に転がった。
「やれやれ……。まったく、とんでもないじゃじゃ馬だ。
おい、マリウス! こいつの足も縛ってしまえ」
少佐がそう命じた時、「カチャン」という何かが割れる音がした。
たちまち部屋中に刺激臭が広がる。
ブーツがぶつかった衝撃で、テーブルに置かれていた薬瓶が倒れ、そのまま転がって床に落ちたのだ。
「息を吸うな! 窓を開けろ!」
少佐が叫び、自ら板窓を開ける。マリウスも慌てて反対側の窓に向かう。
板窓は〝しとみ戸〟と言って、下から跳ね上げるように開け、軒から下がる鉤に引っかけるようになっている。
少佐は板戸を跳ね上げ、新鮮な空気を入れて一息つくと、振り返った。
マリウスの方は窓の引っかけ方がわからないらしく、板戸を持ち上げたままもたもたしている。
「この役立たずが! 何をぐずぐず……」
マリウスを叱りつけようとした少佐の言葉は、途中で途切れた。
背後から飛び込んできた巨大な黒い影が、彼の後頭部にまともにぶち当たり、床に突き倒したのだ。
それはユニの幻獣、ライガだった。
オオカミは小屋の中に降り立ったが、途端に激しいくしゃみを繰り返す。
堪らず口に咥えていたものを放り投げ、ユニの方に後ずさった。
ライガが放り出したものは、ゴロゴロと床を転がり、倒れているアルハンコ少佐の身体にぶつかって止まった。
それは噛みちぎられた少佐の頭部だった。
倒れた彼の身体の周りには血溜まりができ、それがゆっくりと広がっていく。
マリウス中尉はライガが飛び込んできた瞬間に窓の前から飛び離れた。
一回転して片膝をついたのは戸口の前だ。
両手は複雑な印を連続して結び、口元からは高速の呪文が零れ落ちる。
わずかに遅れ、マリウスが手を離したため閉まった板窓が派手な音とともに吹き飛び、ハヤトが飛び込んできた。
ハヤトは床に着地したするや横に跳躍し、マリウスに飛びかかる。
しかし、その時にはすでにマリウスの防御障壁が展開された後だった。
ハヤトは獲物の直前で目に見えない壁に弾き飛ばされ、大きく後退して着地した。
そこで彼も息を吸ってしまったらしく、ライガと同じく激しいくしゃみに襲われて顔をしかめることになった。
二つの窓が開いたことによって、やっと外の空気が部屋の汚れた空気を押し流した。
マリウスが立ち上がった。
ライガとハヤトが前に出て、牙を剥いた恐ろしい形相で唸り声をあげている。
部屋の空気はすっかりきれいになったようだが、オオカミの嗅覚にはまだ刺激臭が感じられるのだろう。時々くしゃみが出る。
若者は場違いにのんびりした声でユニに呼びかけた。
「いや~、参った参った。
ユニさんだっけ? 僕のこと覚えているよね。
僕はマリウス・ジーン。帝国の魔導中尉だ。
もう降参するからさ、このオオカミ君たちをおとなしくさせてくれないかなぁ……」
ユニは椅子に縛られたまま、彼を睨みつけた。
「信用できると思う?
あなたが障壁魔法を使えることは知っているわ。
今もそれで身を守っているようね。
私をその範囲に入れれば、オオカミたちが何もできないまま私を連れ去ることができるじゃない」
マリウスは「困ったなぁ~」という顔をして肩をすくめた。
「うーん……。
とりあえず僕としては、君の縄を解いてあげたいんだがなぁ。
結構きつめに縛ったから、オオカミにはどうしようもないだろう?
ナイフなんかは使わないからさぁ、ここは信用してよ。
一応さ、こう……協力的なことしておかないと僕の印象悪いじゃん?」
ユニは言葉に詰まった。
確かに椅子と身体、それに手を縛っている縄を解いてもらわないと満足に移動もできない。
オオカミに縄を解くことが出来ないのも事実だ。
「……わかったわ。
でも、少しでも変な動きをしたら、そこに転がっている変態と同じ目に遭うことを覚悟するのね」
そう言うと、ユニはライガとハヤトを自分の身体の脇にぴたりと付けさせた。
「それじゃ、障壁は解くからね。
頼むから噛ませないでおくれよ」
マリウスはその場でゆっくりとナイフを指でつまみ上げ、手を横に広げて床に落としてから、両手をあげてゆっくりとユニに近づく。
魔導士である彼は、もともとそれ以外に武器と呼べる代物を持っていないのだ。
低い唸り声を上げ続ける巨大なオオカミの横を、おっかなびっくりすり抜けると、彼はユニの背後に回って結び目を解き始めた。
ナイフで縄を切れば早いのだろうが、それはさすがにオオカミたちが許さないだろう。
マリウスは苦労して少しずつ結び目を緩めていき、かなりの時間がかかったが、どうにかユニを自由にすることに成功した。
中尉はまた両手を上げ、ゆっくりとユニから距離を取った。
すかさずその間に二頭のオオカミが滑り込み、警戒の姿勢を崩さない。
ユニは痺れた両手を揉みほぐしたり、両手をぐるぐる回したりして血行を回復させる。
最後に首を左右に「コキコキ」と振ってから、大きく深呼吸をした。
開いた窓からジェシカとシェンカが入ってきて、ユニに飛びついて舐めまわしている。
ユニは顔をそむけて姉妹の攻撃を避けながら、オオカミたちに威嚇されているマリウスの方を横目で見た。
「投降したからには、あなたは捕虜になってもらうわ。
当然、軍によって尋問を受けることになるでしょうね。
さっきみたいな薬を使われないよう、天に祈るがいいわ。
その先は私にはわからないけど、捕虜交換とかで帝国に帰れるのはだいぶ先のことになりそうね」
マリウスは手近に倒れていた椅子を起こすと、それに座って背もたれの上で腕を組み、顎を乗せた。
どう見ても捕虜の態度ではない。
「でね、ちょっと君にお願いがあるんだけど……」
「捕虜の分際でずうずうしいわね。
まー、言うだけ言ってみなさい」
ユニが呆れた声で答える。
マリウスはにっこりと人懐こい笑顔を浮かべて切り出した。
「実はね、僕は王国に亡命することを希望したいんだ」
「は? どういうこと?」
ユニがいきなり大きな声を出したので、オオカミたちが一斉に毛を逆立てた。
マリウスは平然として続ける。
「今回の作戦で王国に侵入したのは、僕とそこに倒れている気の毒な少佐、あとはオークとその召喚主の四人だけなんだ。
オークも召喚士もやられちゃったんだろ?」
「ええ、私のオオカミたちが倒したわ」
ユニはうなずいた。
「つまり、僕が帰らなければ、帝国軍は僕らが失敗して全滅したと判断すると思うんだ。
だったら帝国に戻って失敗の責任を追及されるより、王国に残って、こっちでのんびり暮らした方が楽だと思わない?」
マリウスは「名案でしょ?」と言いながらにこにこしている。
「だって、あなた故郷に帰りたくないの?
家族とかいないの?」
「まあ、親戚とかはいるけどね。
両親はもう亡くなったし、僕は一人っ子だから心配しなくて大丈夫。
君は知らないかもしれないけど、帝国の魔導士部隊ってのは、とにかく人使いが荒いんだ。
ブラックもいいところでね。
僕はずっとこの機会を待っていたんだ。
そう、これは神さまのお導きかもしれない!」
マリウスが手を組み、涙ぐみながら天を仰いだのを見たユニからは、溜め息しか出てこなかった。
「それで、私に何をしてほしいと言うのよ?」
「簡単さ。僕が亡命を表明していたことを証言してほしいんだ。
どうせ、これから軍に報告を上げるんだろ?」
「あなたが亡命希望者だとしても、軍に拘束されて尋問されることに変わりないのよ」
「別にそれは構わないさ。
でも抵抗した捕虜の尋問と、協力的な亡命希望者では扱いが違うだろ。
僕は出来るだけ楽をしたいんだ」
ユニは軽い眩暈を覚えた。
「堂々とそんなことを言えるのって、ある意味尊敬するわ。
わかった。上には亡命希望者だってことにしておく。
でも、軍が来るまではあなたの身体を拘束させてもらうわ。いいわね?」
マリウスは「どうぞ」と言うように、にっこりとうなずいた。
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