黒龍野会戦 五 拉致

「どうやらうまくいったようだな。

 オオカミが離れていったぞ」

 片目に当てていた望遠鏡を外すと、アルハンコ少佐は薄い唇に笑みを浮かべた。


「少佐~、少し待った方がいいですよぉ」

 マリウスの口調は相変わらずのんびりしている。


「なぜだ? せっかく邪魔者が消えたんだぞ」

「召喚士と幻獣ってのは、結構な距離が離れてても通信ができるんですよ。

 少佐の〝念話〟みたいなもんですね。

 ですからもう少し待ってからじゃないと、こっちが危なくなります」


「くっ……、そうか。

 まぁいい。オオカミがいないなら、臭気の障壁はもう解いていいぞ。

 代わりに幻惑の障壁を張って奴に近づく。

 あとは私が殺さない程度の衝撃魔法で意識を奪うから、お前は女にさるぐつわを噛ませて縛り上げろ。いいな」


「それで、縛った召喚士は誰が運ぶんですか?」

「貴様に決まっておろうが!」

「え~、やだなぁ。

 僕、こう見えて非力なんですよ」


「やかましい!

 女の一人も運べないでは嫁は貰えんぞ」

「いやぁ、ベッドまで運ぶのは得意なんですけどね~」


 少佐はそれ以上会話を続ける気力を無くしたようだった。

 無言でマリウス中尉の尻を蹴飛ばすと、幻惑の障壁の展開を強要した。


 この魔法は目くらましのようなもので、障壁の範囲内の人間の存在を気づかれにくくするというものだ。

 外から見て姿が消えて見えるというものではない。

 実際には見えているのに、それを認識できないよう、見る者の精神に作用するという魔法である。

 便利なようだが精神力の強い者には効かない場合があり、万能とはいえないものだった。


 幸い、ユニに対しては効果を発揮できたようで、二人は難なく彼女の近くまで近づくことができた。

 音までは消せないので、あまり近寄りすぎることはできない。

 ユニの背後、十メートルほどの所で二人は立ち止まった。


 アルハンコ少佐が再び両手で複雑な印を結び、聞き取れないような小声で呪文を詠唱すると、彼は片手を開いてそのままユニに向けて突き出す。

 少佐の手の前方で空気が歪み、光が屈折した。

透明だが歪んだ空気の塊りが、まっすぐユニに向けて走っていった。


      *       *


 ライガが走り去った後、ユニは手持無沙汰だった。

 村から借りてきた地図を広げ、ここまでオークを追跡してきた道筋を書き込んだほかは、何もやることがない。


 地図をぼんやりと眺めながら、彼女は帝国が召喚したオークがどうやってノルド地方にやって来たのかを考えていた。


 山はどうだろうか。

 大河であるボルゾ川も、最上流部のこのあたりになるとだいぶ川幅が狭くなる。

 その分流れも急になり、深い渓谷を形成しているのだが、ここよりもっと遡るとどうだろう。


 ボルゾ川の源流はコルドラ大山脈の雪解け水を水源としている。

 数多くの流れをどんどん吸収して、大量の水を下流へと送り続けているのだ。

 まだ集まりきっていない、流れの小さな源流部であれば、さすがに川を渡ることが可能だろう。

 だが、そんなに遡るということは、相当の高度まで山を登るということになる。


 そんなルートで渡ってきたのだとしたら、大したものだ。

 それとも、帝国には何か特殊な技術があるのだろうか……。

 そういえば、帝国がコルドラ大山脈を越えて広大な東部地域に進出した〝東進〟では、どうやって山脈を越えたのだろう?


 現在でも東西で多くの人や物資が行き来しているらしい。

 アリストアならその理由を知っているだろうか。

 今度会ったら聞いてみよう。


 そこまで考えた時である。

 ユニの背筋のあたりを冷たいものが走り、うなじの毛が逆立った。

 とっさに腰を浮かせて振り返ろうとしたが、その暇もなく後頭部に激しい衝撃を感じた。


 とても柔らかいもので殴り倒される奇妙な感覚。

 それは巨人が全力で振り回した分厚くて重い布団が直撃したようなものだった。

 ユニは棒きれのように身体をまっすぐにしたまま、ゆっくりと前に倒れた。


 鼻の奥にきな臭い匂いを感じ、意識が暗闇に呑まれていく中、彼女はライガに助けを求めていたような気がした。


      *       *


『くそっ、やられた!』

 ライガがユニを残してきた鞍部に戻った時、そこには誰もいなかった。


 ユニが座っていた場所は、すぐに見つかった。

 その側には、彼女の臭いとともに草が押しつぶされ、どうやらそこでユニが倒れたらしい跡があった。

 ユニ以外の人間の男の臭いが二つ、その周囲に残っていた。


 ライガが荒い息のまま周辺を嗅ぎまわっていると、やっと群れの連中が追いついてきた。

『あのは?』

 ヨミが真っ先にライガに詰め寄った。


『いない。ここで動かずに待っているように言っておいたんだが、姿がない。

 多分二人組の男に不意打ちをくらって、ここで倒されたらしい。

 そのままどこかへ連れ去られたようだ』


『だったら、すぐ後を追わなくちゃ!』

 ヨミの言うことはもっともだった。

『それが、この周辺から外へ出て行った臭いが残っていないんだ。

 オークの臭いがここで途切れたのと一緒だ』


『そんな……。

 呼びかけには応えないの?』

『駄目だ。意識がないんだと思う』


 ヨミは悲しそうな目でうなだれ、『かわいそうな子……』とつぶやいた。

 ライガは妻の落胆に慌てたように言葉を継ぐ。

『だっ、だが、ユニが倒れたところから血の臭いはしない。

 多分ユニは無事だと思うぞ……』


 ライガの言葉にヨミは安堵するどころか、鼻に皺を寄せて夫を叱りつけた。

『あんた、何を言ってるの? しっかりしなさい!

 ユニが無事なのは当たり前でしょ!

 でなかったら、あんたはとっくに消えているわ』


『えっ? ……あ、ああ。そうだったな。

 すまん、少し気が動転していたようだ』


『ちょっと、みんな来てくれる?』

 ヨーコが少し離れたところから仲間たちを呼んだ。

 そこは柔らかい土がむき出しになっているところで、いくつかの足跡が残っていた。


『この足跡、全然臭いが残っていないの。

 きっと何かの方法で消しているのね。

 それで、こっちの足跡の方が深く沈み込んでいるでしょ?

 この人間がユニを運んでいるんじゃないかしら』


 オオカミたちは嗅覚に自信がある分、そこに頼り過ぎるきらいがある。

 目に見える痕跡に気づいたのは、元人間であったヨーコだからかもしれない。


 〝臭いがない〟足跡を追跡すれば、ユニの後を追えるかもしれない。

 彼らの目に希望の光が灯った。

 少なくとも、何のあてもなく走り回るよりはずっと効率的だ。


 とはいえ、彼らの追跡は難航し、遅々としたものとなった。

 足跡の残りやすい土の地面は少なく、ほとんどは下草に覆われている。

 踏みつけられた草は、時間がたてば回復して元通りになってしまうのだ。


 茂みを掻き分けた時の折れた枝、草地のわずかな凹みを頼りに進むのだが、しばしば痕跡は途切れ、オオカミたちを悩ませた。

 何より臭いが残っていないため、視力に頼らざるを得ないのが問題だった。


 オオカミの視力は、基本的に優れたものだと言ってよい。

 狩猟によって生きる彼らは、かなり遠くの――特に動くものを捉えることを得意としていた。動体視力ば抜群によいのだ。


 逆に苦手なこともある。動かないものに対する注意力が散漫なのだ。

 目の前のものでも、それが静止しているとうっかり見逃してしまうことがある。

 そのため、微かな足跡の痕跡を目で探すというのは、オオカミの生理からすれば苦行に近いものだったのだ。


 それでもライガの群れの誰一人として、弱音を吐く者はいなかった。

 彼らの群れの結束は固い。

 ユニは〝群れの仲間〟だった。諦めるという選択肢は、オオカミには存在しないのである。


      *       *


 どこかで銅鑼の音が聞こえる。ヒビでも入っているのか、濁った不快な音が「グワァン、グワァン」とうるさく鳴り続けている。

 やかましい音が止まないため、頭痛がするくらいだ。


 そう、こめかみのあたりの血管が脈動するたびに、頭に響く痛み……。

 そこでやっと気づく。銅鑼の音だと思っていたのは、自分の血管から響いてくる鼓動だということを――。


 ユニは意識をゆっくりと取り戻した。

 薄いベールが絡みついているようで、なかなか頭がはっきりとはしないが、少しずつ思考が回復してきた。


 彼女が身じろぎしたり、声を出さなかったのは賢明だった。

 目を閉じたまま、自分の感覚を慎重に確かめる。


 目隠しはされていない。口にはずっと猿轡が噛まされていたようで、唇の両端がひりひりと痛むが、今は外されている。

 口元がぱりぱりとして、引きつるような感覚がある。

 ちろりと舌先で舐めてみると、鉄錆の味がする。

 多分鼻血を流したのが乾いて固まっているのだろう。


 手は座っている椅子の背の方で、後ろ手に縛られている。

 指先が痺れているのは、かなりきつく縛られている証拠だ。

 胴も椅子に縛りつけられている。

 足だけは幸いなことに縛られていない。


 次に慎重に薄目を開ける。

 目に映ったのは木の床と、ごついブーツを履いた自分の足だった。

 右足の方は靴紐の結び目が解けている

 顔が動かないように左右を窺うと、薄暗い小屋の中にいるらしいことが分かった。


 あまり大きくない部屋であるらしいこと、壁が皮を剥いだだけの丸太でできていること。

 窓はあるものの、板戸(しとみ戸)らしく閉じられていること。

 ――その程度はわかった。


 どうやら自分は意識を失って拉致されたようだ。

 倒れた時の記憶をたどると、何かの魔法攻撃ではないかと思われた。


 そうなると、やはり帝国軍か……。

 彼らの目的が自分の拉致であれば、いろいろなことが納得できる。

 オークは自分を誘き出すための餌だったのだろう。


「少佐ぁ、この娘どうするんですかぁ?」

 場違いなほどのんびりした男の声が聞こえた。

 ユニはそっと目を閉じ、気絶したままのふりをする。


「上の命令は本国へ連れ帰ることだったが……。

 いかんせん、イケアと連絡が取れん」

 答えた男が〝少佐〟なのだろう。


「イケアって、召喚主の?」

「ああ、念話に応答しない。やられたかもしれんな。

 オオカミを引き離すためとはいえ、オークを出したのは失敗だったか……」


「僕は彼のことをほとんど知らないんですが、奴がくたばると何か困るんですか?

 目的の女は確保できたじゃないですか」

「計画では、女はオークに運ばせることになっていた。

 貴様、ここまで女を運んでくるだけで泣き言を洩らしていただろう。

 女を担いで山を越えるつもりか?」

「それは……御免こうむります」


 彼らはユニを帝国に連れ帰る相談をしているらしい。

 やはり山を越えて侵入してきたのか……。

 オークの召喚主がやられたらしい、ということは、きっとライガたちが倒したのだろう。

 またオオカミたちに人殺しをさせてしまった……。ユニの胸が痛んだ。


「それじゃ、女を歩かせたらどうですか?」

 若い男の声が提案する。

「歩くということは、意識がある状態だろう。

 召喚士が幻獣と通信ができる以上、そんな危険は犯せない」


『ん? 幻獣と通信……、そうだ、ライガを呼ばなきゃ!』

 ユニは肝心なことを忘れていた自分を殴ってやりたかった。

 すぐさま精神を研ぎ澄ませ、頭の中でライガに呼びかける。

『ライガ、どこ? 応えて!』

 しかし、返事はなかった。彼とはだいぶ離れた位置にいるらしい。


 もう一度、ユニは思いを込めて、ただ彼の名だけを呼んだ。

『ライガ……ライガ! ライガ!!』

 十八歳の召喚の日、初めてライガと精神の繋がりを得た至福の瞬間を思い浮かべた、純粋な呼びかけ。


 相変わらずライガの応答はない。

 しかし彼女の意識の奥深く、真っ暗な世界の奥底で、ぽっと小さな光が灯ったような気がした。


「それじゃ、どうするんですか?」

 明らかに不満そうな声で若い男が尋ねる。

 少佐と呼ばれた男は「ふん」と鼻で笑うと、何かを探っているようだった。

 ユニが男たちの方を見るためには、顔を上げなければならないため、彼らの行動は想像するほかない。


「本国へ運べないなら次善の策だ。ここで尋問する。

 貴様は知らんだろうが、私はこの道の専門家でね。

 この作戦に選ばれたのも、そのためなんだよ」


「尋問のですか……?

 僕は少佐が拷問の専門家かと思ってましたよ」

「馬鹿なことを言うもんじゃない。

 私は尋問手法の研究で修士論文を書いているのだぞ。

 拷問は……そう、あれは崇高な趣味だな」

 少佐は若者の揶揄を笑いとともに受け流した。


「第一、拷問は相手の意識がはっきりしていなければ意味がない。

 ここでそんな危険は犯せんよ。

 ――非常に残念だがね」


「尋問も同じではないのですか?」

 少佐は「ふふふ」と笑っている。

「私は専門家だと言っているだろう」

「……それは?」


 少佐は探し物を取り出したらしい。

「世間では〝自白剤〟と言っているようだが……。

 実際には相手の意識を混濁させ、思考力を奪う薬だ。

 これを注射した上で適切な誘導を行えば、たいていの情報は取り出せる。

 もちろん、意識は朦朧としているから幻獣に通信することは不可能だろう」


「へえ~、そりゃ便利な薬ですね」

「だろう?

 まぁ、薬が切れても被験者の意識が回復しないのが玉に瑕だが……」

「へ?」


「これを使った後、この女は糞小便を垂れ流す廃人になるということだよ。

 些末なことだ」

「うわぁ~、僕はそういうの苦手だなぁ」

「私もこんな楽しい仕事をお前に分けてやるつもりはないから安心しろ。

 さあ、準備をするぞ」


 がたり、と椅子を立つ音がした。

 そして、こつこつという軍靴の音がゆっくりとユニに近づいてきた。

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