黒龍野会戦 二 アスカ邸

 朝早くにカイラ村を出立したユニたちは、午後三時ころには蒼城市に着いていた。


 以前に軍の呼び出しを受けてゴーマとともに王都に向かった時は、オオカミたちに牛車を曳かせていたが、今回はユニ単独なのでライガの背に乗るだけでよい。

 そのため速度も前回とは段違いに早い。

 晩秋の冷たい空気を切って、オオカミたちと進む旅は気持ちのよいものだった。


 蒼城市に着くと、いつものように群れのオオカミたちとは別れ、ライガだけを連れて混雑する新市街を抜け、城門を通過する。


 街には豊富な商品が溢れていて、相変わらず活気に満ちている。商店から聞こえる呼び込みの声、値段交渉に声を張り上げるおばちゃんたち、旅人を捕まえようとする宿の客引き。

 雑多な騒音に包まれて歩いていると、辺境での生活との格差を思い知らさせる。

 ただ、どちらが幸せかと言えば、それは別の話だ。


 三十分も歩かないうちに、アスカの小ざっぱりした屋敷に着いた。

 扉のノッカーを叩くと、顔見知りのメイドが顔を覗かせ、一瞬ライガの姿にぎょっとした後、慌てたように笑顔を取り戻してユニを迎え入れてくれる。


 まだアスカもフェイも戻ってきていないと聞き、ユニはメイドに、埃まみれなのでまず入浴をしたい旨を願うと、すべて準備が整っているらしく心得顔で案内される。

 埃まみれなのはライガも同様、というより一層酷いので、外で身体を洗ってもらうことにする。


 ライガは心底嫌そうな顔で、耳を倒し、尻尾を股に巻き込んで抵抗の意志を示したが、「身体を洗って拭いてもらわないと家の中に入れない」とユニに脅かされて渋々と従った。


 メイドたちが用意してくれていたお湯で身体を洗い、さっぱりとして浴室を出ると、脱いで籠に入れておいた彼女の衣服は既に持ち去られ、代わりに客用の部屋着が用意されていた。


 ユニが替えの下着(さすがにこれは持参してきたものだ)を履き、よい匂いのする部屋着に袖を通す。

 サイズもぴったりで、この辺はアスカ家を取り仕切っているハウスキーパーのエマさんの心遣いだ。


 リビングでお茶とエマ女史ご自慢のお手製クッキーをご馳走になり、ユニがゆったりとくつろいでいると、やっと解放されたらしいライガがのそのそと中に入ってきた。


「ぶわはははははっ!」

 ユニは思わずお茶を吹き出し、危うくお相伴をしていたエマさんの顔にかけるところだった。


「ごっ、ごめんなさい!

 でっ、でもっ! おっ、おっ、おかしくって……、うひひひひひ」

 ユニは呆れてテーブルを拭いているエマさんにどうにか謝ったものの、しばらく腹を抱えて笑い転げた。


『なんだ、何がおかしい?』

 その様子を見て、憮然とした表情でライガが側にやってくる。

「だっ……だって、あんた、いきなり太ったみたいで……きゃははははは!

 もっ、もう許して……!」


 ライガは巨体だが、引き締まった体躯をしている。

 アスカ家のメイドたちは、埃まみれのライガをたっぷりのシャボンを使って完璧に洗い上げたが、全身を毛皮に覆われたオオカミの身体は、タオルで拭いたくらいでは簡単に乾かない。


 そこでメイドたちはドライヤーを持ち出してきたのだ。

 これは木箱の中に水車のような羽根つき車が入っているもので、手動でハンドルを回すと先端のノズルから風が出るというもので、髪の毛を乾かすのに使われるものだ。


 アスカは短髪なのであまり必要としないが、フェイは首筋や背中に生えた毛を隠すため、結構長い髪をしているので、メイドたちの願いで最近買い込んだものだ。


 メイドたちは全力でハンドルを回し、勢いよく風を当てながらブラシを使ってライガの体毛を乾かしていった。

 彼女たちの奮闘が報われた結果、ライガの体毛は空気を含んでふわふわに膨らみ、彼の体積は五割増しに膨張していたのだ。


 オオカミの言葉がわからないエマ女史にも、ライガの不機嫌さが見て取れる。

 しかし、ユニの足元にどかっと寝そべったライガは、どう見ても出来損ないの羊みたいな毛玉の塊りだ。

 ユニが笑い転げているのは、あまり責められない気がする。


 ユニが不作法にもテーブルに顔を突っ伏し、お腹を両腕で抱え、「ぐっ、……うぐっ」とウシガエルのような声を出して痙攣をこらえている最中、学校からフェイが戻ってきた。


「ただいまーっ!

 ユニ姉ちゃん来てるー?」

 走って帰ってきたらしいフェイが、息を弾ませて飛び込んできた。

 フェイは手提げ鞄をその辺の床に放り投げ(エマ女史の額にぴくっと青筋が浮かんだ)、寝そべっているライガに滑り込むように飛びかかった。


「きゃーっ!

 ライガ、どーしたのよ、もっふもふじゃん!

 かっわいー!」


 そう言ってライガの首にぶら下がるように抱きつくと、スカートがめくれてお尻が丸見えとなった。

 彼女の巻いた小さな尻尾が、ぱたぱたと振れ、喜びを爆発させている。


 これにはさすがのライガも不機嫌な顔を続けられず、タヌキのように太くなった尻尾をばっさばっさと振り、フェイの柔らかな毛に覆われた頬をべろべろと舐めだした。


 キャーキャー笑いながらライガから逃れようとしているのを、ユニがひょいと抱き上げ、隣りの椅子に座らせる。

 これがゴーマやアスカだったら、そのまま膝の上に抱き上げるのだろうが、フェイは身長が百五十センチくらいある。

 ユニより五センチほど低いだけなのだ(体重はだいぶ違うが)。


「フェイ、久しぶり。元気にしてた?

 あんたまた背が伸びたんじゃない?」

「ユニ姉ちゃん、いらっしゃい!

 アスカがね、あたしはアスカと同じくらい大きくなれるかもって言ってたよ」

「そっ、それは楽しみね……」

 妙に現実味のある話に、ユニはひきつった笑いを浮かべた。


「今日は泊まっていくんでしょ?」

「ええ、そうよ。

 一晩だけどお世話になるわね」


 フェイは学校で描いて褒められたという絵を見せるんだと言って、ばたばたと二階に駆けあがっていった。

「フェイさん! 家の中で走ってはいけないと……」

 エマの言葉だけが空しくリビングに響いた。


「……まったくもう」

 そう言いながらエマ女史の目元は優しく笑っている。

 ユニはフェイがこの家の者に愛されていることを感じてほっとした。

 自分はアスカが彼女を引き取ろうとした時に、最初は反対したという負い目を感じていたのだ。


「どうなの、フェイは学校でうまくやっているのかしら?」

 ユニは気になっていたことを聞いた。

 エマ女史はその問いに、小さな溜め息をついた。


「そうですね。何もないわけではありませんが、思ったよりはずっと溶け込んでいるようですね。

 とても利発な子ですから、勉強の方もほとんど周囲に追いついたみたいですよ。

 あれでもう少し落ち着いてくれればよいのですが……」


 しかし、そう愚痴った後で彼女はくすりと笑った。

「あの子が来てからというもの、この家はすっかり変わってしまいました。

 アスカお嬢さまは寡黙な方ですから、ゴーマさまがお訪ねに来られた時を除けば、静かな家だったのです。

 それが今や、フェイの走り回る音や笑い声で包まれた家になってしまいました。

 ……お嬢さまは、とても救われていると思いますわ」


 優しそうな瞳でそう伝えた後で、すぐに彼女は謹厳な家令の顔を取り戻した。

「もっとも、この短期間であの子がしでかしたトラブルも数え切れませんが……。

 近所のガキ大将と決闘して泣かせるわ、捕まえてきたトカゲをベッドの中に連れ込むわ、お屋敷の花瓶の半分近くを壊すわ……」


 フェイが戻って来なかったら、ユニはエマさんの愚痴を延々と聞かされたことだろう。

 その代わり、ユニはフェイから学校で褒められたこと、親友になった女の子のこと、好きになった勉強のことなどを、嵐のような勢いでたっぷりと聞かされる羽目になった。


 彼女は学校で友だちもできて、うまくやっているようだ。

 そうこうするうちにアスカも帰ってきた。

 ユニは三人と一匹で愉快な食事を楽しみ、フェイが学校の課題を片付けるために自室に引き上げると(本来は夕食前に済ませるのが約束だった)、アスカと二人で酒を酌み交わした。


 葡萄酒を蒸留させた、香りと度数の高い火酒を小さなグラスでちびちびやりながら、ゴーマが消えた日からの互いの近況報告を済ませた。

「ところでユニ、手紙には蒼城市に寄るから泊めてくれとしか書いていなかったが、一体どういうことだ?」

 アスカが本題に入った。


 軍事郵便は、相手が軍人ならば民間でも出せ、届くのも早いが、一つ欠点がある。

 検閲があるのだ。


 軍人が出す手紙、届く手紙に関わらず、その内容は検閲官の審査と許可が必要になる。

 もし軍事機密に抵触するような内容が含まれている場合、そこは黒く塗りつぶされてしまう。

 そしてそれは、情報部へと報告されることになる。


 ユニは指名依頼が軍事郵便で届いたという話を聞いた時点で、すでにこの件に対して警戒をしていた。

 アスカに〝泊めてくれ〟と頼むだけの用件だが、ユニの頭にある人物の顔が浮かんできて、手紙には余計なことを書かない方がいいと判断したのだ。


「実はね、ノルド地方のモラン村というところから、あたしを指名したオーク討伐の依頼が来たのよ。

 それで、ノルドに行く途中だから、あなたの家に寄ったってわけ」

「ノルド?

 何だってそんなところにオークが出るんだ?」


 驚くアスカに対して、ユニは肩をすくめた。

「それはあたしも聞きたいわ。

 でも、そんな遠方から、わざわざあたしを指名して、しかも軍事郵便でその依頼が届いたのよ。

 思いっきり怪しいでしょ?」


 アスカは「ふむ」という顔で考え込み、グラスの酒を呷った。

「確かに、妙な依頼だが……。

 それ以上に、ノルドとはな……」


 ユニの眉がぴくりと上がる。

「何? ノルドに何かあるの?

 あたし、そっちの方には全然知識がないのよ。

 アスカ、何か知っているのなら教えてちょうだい」

 ユニはそう言って、自分もグラスを呷って空にする。


 アスカは瓶のコルクを抜いて、二人の空になったグラスに火酒を注いでから説明を始めた。


      *       *


 ノルド地方は、王国の北西部の端にある地方だ。

 その西側には、ゴンドワナ大陸を東西に分ける脊梁山脈である〝コルドラ大山脈〟が聳え、人の侵入を拒んでいる。


 ノルド地方の北側にはボルゾ川が流れているが、上流部に近く川幅は狭い代わりに高低差があって流れが速く、深い渓谷を刻んでいるため川岸は絶壁で、舟運も不可能となっている。


 舟運が可能になるのは、ノルド地方から五十キロほど東方にある黒城市からで、それは対岸の帝国でも同じだった。


 ノルド地方は中央平野の一部ではあるが、山岳地帯に近いため、それほど豊かな土地ではない。

 もともとは森林地帯で、そこを切り開いて開拓したという歴史があり、そういう意味では東部の辺境によく似ている。


 問題は、その開拓民が北方民族のノルド人だということだった。

 〝ノルド地方〟という名も、単純に〝ノルド人が住む土地〟という意味で名づけられたものだ。


 ノルド人は北部山岳地帯周辺に分布する民族で、その居住地の大部分は帝国領に属している。

 ノルド地方は数百年の昔、ボルゾ川を渡った彼らの一族が王国側の土地を開拓したもので、当時はボルゾ川に吊り橋が架けられ、双方に頻繁な行き来があったと伝えられている。


 その頃は、コルドラ大山脈の東側、かつボルゾ川の北側は、少数民族が局地的に居住する未開拓地という扱いだったので、王国としても特にそれを問題視していなかった。


 王国の土地に居住する以上、彼らは王国民であり、定められた租税を納めるのならば、開拓に文句を言う筋合いはなかったからだ。


 ところが、百五十年ほど前、帝国がコルドラ大山脈を越えてボルゾ川北側の土地に進出する〝大東進〟が起こった。


 当然、王国はそれを〝勝手な侵略〟だとして非難し、何度か小規模な衝突も起きたのだが、王国にとってボルゾ川北側は、もともと放置していた土地であった。

 戦争をしてまで確保するほどの魅力はなかったのである。


 その結果、自然の成り行きとしてボルゾ川が両国の国境線となり、その北側は帝国領となった。

 同じように王国の東部、タブ大森林は別に王国領ではなかったのだが、成り行き上ボルゾ川の南側だからという理由だけで、王国領ということになってしまった。


 こうして王国と帝国は、互いを仮想敵国として睨み合いながらも、それなりに共存してきたのだが、とばっちりを食ったのがノルド地方である。


 それまでは自由に川の両岸を行き来していたのが、国境の確定とともに両者は分断され、架けられていた吊り橋も落とされてしまった。

 往来を禁じられた王国のノルド人は困惑した。対岸には親戚や友人たちが大勢住んでいる。彼らの先祖の墓所や、聖地とされる場所も帝国側にあったのだ。


 そのため、しばしばノルド地方では騒動が起きた。

 始めは〝飛び地〟として帝国側に編入されることを要求していたが、この五十年余りは自治権の獲得を求めて運動を継続していた。


 ただし、ノルド地方に住むノルド人は五、六百人に過ぎない。

 とても反乱を起こすほどの勢力ではなく、騒ぎが起きても簡単に鎮圧されてきた。

 ノルド人側も本気で抵抗するわけではないので、これまで流血の惨事に至ったことはなかった。


 ところがこの十年ほど、帝国側が「ノルド地方は帝国領である」と主張して、その割譲を求めるようになった。

 当然、王国はその要求を一蹴したが、これまでに数回、ノルド地方に大量の武器を持ち込もうとしたり、帝国側のノルド人が潜入してオルグ活動をしようとして摘発される事件が発生し、王国は神経を尖らせていたのである。


      *       *


「なるほどね~。

 こりゃきな臭いなんてもんじゃないわね……」

 アスカの説明を聞いて、ユニはがっくりと肩を落とした。


「黒城市に展開する第二軍は、帝国の侵入に対処するのが大目的だが、最近はノルド地方の監視にも力を入れていると聞くぞ。

 取締りの一方で、住民の不満を懐柔するための施策も行われているそうだ。

 どうしてオークが出たのかは別として、もしそれが本当なら、軍が彼らにユニを推薦したというのは考えられるな」


 アスカがそう言ったのは、辺境でオーク狩りの達人として名声の高いユニを派遣することで、ノルド人たちのご機嫌を取ったのではないかという意味だった。

 しかし、ユニは全く別の意味に取った。


「あー……。なんかその、あたしの名前を出した人の顔が浮かんできてしょうがないわ」

 片眼鏡モノクルをくいと押し上げた澄まし顔。


 常に皮肉が混じった落ち着いた声まで聞こえてきそうだった。

「ユニ、君はノルド地方になぜオークが現れたのか、それを探るのだ。

 もし、そこに帝国の関与が疑われるなら、それが種であるうちに潰してしまいなさい。

 わかったね」


 ……きっとそうだ。いや、そうに違いない。絶対そうに決まっている!

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