陽だまりの部屋 四 別れの日

 フェイが起こした事件の少し後、彼女が救済学院に通い出して半月が過ぎた頃のことである。


 午後に学校から帰ったフェイは、いつものように元気いっぱいで「ただいま!」と言って扉を開けた。

 そのままリビングに行こうとすると、何だか変な匂いがしてきた。


 フェイは獣人の血を引くだけあって、常人よりも鋭い嗅覚を持っていた。

 その匂いはカシルで暮らしていた頃、場末で嫌というほど嗅いだお馴染みの匂いだった。

 酒だ。

 瞬間的にカシルでのすさんだ日々が脳裏に蘇り、少女は顔をしかめた。


 フェイはもちろん酒は飲まないし、甘ったるい酒飲みの吐息もあまり好きではなかった。

 ゴーマもアスカも、夜になるとほぼ毎日のように飲んでいたが、量自体は自制したものだった。


 玄関の方まで匂ってくるというのは、相当のものだ。

 彼女がこっそりとリビングの様子を窺うと、果たしてそこでは酒宴が繰り広げられていた。

 アスカとゴーマは当然として、もう一人懐かしい客がいた。


「ユニ姉ちゃん!」

 フェイは教科書の入った手提げ鞄を放り投げると、オオカミのような勢いでユニに飛びかかった。


「おお~、フェイかぁ。

 久しぶり……ってか、あんた、ずいぶん別嬪さんになったわねー!」

 ユニが覚えているフェイの姿は、ボロ布でぐるぐる巻きにして顔を隠した姿だったから無理もない。

 今のフェイはスカートをはいた普通の女の子の格好をしている。


「どうしたんだ、ユニ姉ちゃん?

 まだ夕方だっていうのに、何でみんなして飲んでるんだ?」


 ユニはポリポリと鼻の横を掻いた。

「ん~?

 まぁ、その……、何だ。

 久しぶりにアスカやゴーマの顔が見たくなってね。

 せっかくだから飲もうって話になっただけよ」


「フェイ、お前は学校の課題とかあるんだろう?

 夕飯になる前に済ませておきなさい」

 アスカが一応保護者ぶったことを言うが、顔が赤い。彼女も結構飲んでいるようだ。

 いつものプレートアーマーではなく、ゆったりとした薄い花柄のガウンの部屋着を羽織っていた。


「はぁ~い」

 酔っ払いの相手は好きではない。

 フェイは素直に鞄を拾い上げると、二階の自分の部屋に向かった。


 ファイの姿が消えると、ユニが真面目な顔になった。

「本当に普通の子みたいに学校に通っているのね。

 大丈夫なの?」


「まぁ、それなりにいろいろあったが、最近はうまくやっているようだぞ」

 ゴーマが顔に笑みを浮かべてしみじみと答える。

「あの子は頭がいいし、あんな育ちの割に性格も素直だ」


「ずいぶんデレデレした顔をするのね」

 ユニのからかいに、アスカも大いにうなずく。

「そうなのだ。兄様はフェイに甘くていかん。

 まるで従者のようにべったりなんだ」


 ゴーマは、ばりばりと短い黒髪を掻いて伸びをする。

「まー、素直に認めるさ。実際、あの子は可愛いくて仕方ないよ。

 だから、あんまり悲しい思いはさせたくない。

 その辺はお前らに任すしかないな」


 アスカの表情が曇る。

「兄様、その……本当に今日なのか?」


 ゴーマは「ふう」と溜め息をついた。

「多分、間違いないな。

 最近、夢にエルルがよく出てくるようになった。

 目が覚めても、どこかにあいつの気配を感じるんだ。

 もう二十年以上付き合ってきた相棒だ。気のせいってことはない。

 迎えに来てくれたんだよ、俺をな」


      *       *


 程なく夕食時になって、フェイが二階から降りてくると、既に酒宴は終わっていた。

 食卓にはフェイの分として、いつものような食事が並べられていたが、ほかの三人の前には薄く切ったパンとバターだけしか置かれていない。


 さっきまで散々飲み食いしていたのだから、もうお腹はいっぱいというわけだ。

 ゴーマたちはフェイに気にせずに食べるよう勧め、自分たちはゆっくりとお茶を飲んで談笑していた。


 フェイはその場の雰囲気にどこか違和感を覚えながら、そそくさと食事を済ませた。

 食事が終わると、ハウスメイドがすぐに食器を片づけ、フェイにもたっぷりのミルクが入ったお茶を淹れてくれた。


 ゴーマは酒に酔ったのか、居眠りをしているようだったが、フェイがお茶を飲んで一息入れると、片目を開けた。

 彼は両手を組んで顎を支えると、穏やかな顔でフェイの顔を覗き込んだ。


「ゴーマ、どうしたんだ?

 酔ったのか?」

 不思議そうに尋ねるフェイに、彼はゆっくりと話し始めた。


「フェイ、前に言ったことがあると思うんだが、俺は幻獣界でサラマンダーに転生する運命にある」

 フェイは黙ってうなずいた。


「それは近いうちだと言ったが、どうやらその時が来たらしい。

 俺はもう行かなくちゃならない。

 せっかくお前の友だちになれたのに、別れるのは辛いが、これはどうにもならないことだ。わかるな?」


 アスカとユニは目を伏せ、アスカの方は鼻をすすっている。

 フェイは信じられないといった顔で目を見開いた。

「そっ、……ちょっとあんまり急すぎるよ。

 本当に今日消えちゃうのか?」


「ああ、そうだ。

 だが、前にも言ったとおり俺は死ぬわけじゃない。新しい命を得るんだ。

 だからフェイ、俺を祝福してくれ」


 そう言うと、ゴーマはフェイの身体を引き寄せ、抱きしめた。

 そのまま彼女の耳元で、ささやくように語り続ける。


「結局、お前には紹介できなかったが、俺の相棒のエルルが迎えに来ている。

 あいつとは人生の半分を一緒に過ごしてきた。

 この二か月近く、あいつは俺を迎え入れる準備をするため、自分の故郷に帰っていたんだ。

 そうはいっても、ずっと一緒だった仲間がいなくなるのはとても辛い。

 その辛さをお前が癒してくれた……本当に感謝している」


 ゴーマの幅の広い背中に回されたフェイの手が、彼の衣服をぎゅっと握りしめた。

「……やだよ。

 ゴーマ……いかないでくれよ」


 自分の胸に抱き寄せたフェイの顔に熱いものが浮かんで、シャツを濡らしているのが感じられる。

 ゴーマは彼女の頭をやさしく撫で続けた。


「よく聞いてくれ。俺はこの世界を去ることを恐れてはいない。

 だが、たった一つだけ、心残りがあるんだ。

 俺が消えれば、アスカの肉親はこの世界に一人もいなくなる。

 だから、お前がアスカの新しい家族になってくれ。

 あいつはああ見えて、結構寂しがり屋の甘えん坊なんだ。

 頼む! 妹を支えてやってくれ……」


 そう言うと、ゴーマはしばらくの間、フェイを強く抱きしめ続けた。

 おかげで、フェイは苦しくて、もう何も喋ることができなかった。


 涙だけではなく鼻水まで出てきて、ゴーマのシャツが大変なことになっている。

 そうだ、あたしが洗ってあげよう――そんな場違いなことが頭に浮かんでくる。


 逞しいゴーマの身体を全身で感じながら、やがてフェイは一つの結論にたどり着いた。

 あたしのことをからかってばかりで、お尻を平気で叩くおじさん。

 あたしの最初の友だちだと言ってくれたおじさん。

 生まれて初めてのアイスクリームを食べさせてくれたおじさん。

 そして……今日は泣き虫なアスカ。


 この家に来てから、ずっと自分を悩ませていた疑問――「この人たちのために、自分は何ができるのだろう?」。

 今のゴーマの言葉が、その答えに違いない。

 泣きながらフェイは心に誓った。ゴーマの願いを必ず果たそうと。


 フェイがやっと解放され、顔を上に向けると、ゴーマは笑顔でうなずき、ぽんとフェイの頭に軽く手を置いた後、ユニの方に向かっていった。

 涙に濡れた彼女の視界に、何かキラキラした粉のようなものが映った。

 それはゴーマの身体から零れ落ちたような気がした。


 ゴーマはユニを軽く抱き寄せ、彼女の頬に自分の頬を当てた。

「ユニ、お前と走り回ったこの一年は、俺の人生で一番楽しい時間だった。

 感謝するぜ」


 ユニは黙ってうなずいた。

 彼女は泣いてはいなかったが、どう言葉をかけていいのかわからなかった。

 彼の手がユニの身体を放すと、二人の間にふわりと金色の粉が舞った。


 ゴーマは笑いながら続けた。

「お前にもアスカのことを頼む。

 時々でいいから、会いに来てやってくれ。

 あいつはぶっきらぼうで人に誤解されやすいが、あのとおりなんだ」


 そう言って、彼はアスカの方を目で示した。

 アスカはさっきから両手を目に当て、子どものように泣きじゃくっていた。

 ゴーマは苦笑しながら彼女の側に行き、フェイと同じように妹を強くぎゅっと抱きしめた。


 ゴーマより頭半分は背が高いアスカが、兄と抱き合いながら声を上げて泣いているのは、奇妙な光景だった。

 少し滑稽だと言ってもいい。


「アスカ……。

 お前には兄らしいことを何もしてやれなかった。すまない。

 フェイのことを頼む」


「兄様……、兄様、兄様……」

 アスカが言えたのはそれだけだった。


 彼女の腕の中で、ゴーマの身体は徐々に崩れ始め、キラキラと輝く光の砂となって零れ落ちていった。

 そして床に散らばった光の粒が輝きを失い、消え去っていくなか、どこか遠いところからゴーマの声が聞こえてきた。


「俺が幻獣としてこの世界に召喚されることがあったら、必ずお前たちに会いに来る。約束するぞ……」


 ゴーマが消え去った部屋には、彼が遺した衣服を抱きしめたまま泣き崩れるアスカと、呆然として立ち尽くしているフェイが残されていた。

 ユニはどちらを慰めにいったらよいのか決めかねて、ただおろおろとしていた。


      *       *


 季節はすっかり秋になっていたが、温暖な中央平原ではまだ朝晩が冷え込むほどではない。

 窓のカーテン越しに入ってくる朝日が眩しくて、フェイは目覚めた。


 両腕を思い切り伸ばしてあくびをしてから、目をぱちりと開ける。

 ふかふかのベッドで仰向けになった彼女の視界に、見慣れた部屋の天井が……映らなかった。


 フェイの部屋には少女らしい花柄のきれいな壁紙が張られていて、それは天井も同様だった。

 今、彼女の目に映っているのは、白い飾り気のない天井だ。


 フェイは伸ばした手で頭をぽりぽりと掻きながら、ぽつりとつぶやいた。

「……ったく。しょうがないなぁ」


 そしてぐるりと寝返りを打つと案の定、彼女の顔は暖かくて柔らかいものに押しつけられた。

 寝間着の布一枚を隔てて、そこにあるのはアスカの乳房だ。

 アスカはフェイの方を向いて、ぴたりと身を寄せたまま、すやすやと眠っている。


 フェイは毛布をそっと押し上げ、するりとベッドから抜け出した。

 相変わらず股上の浅いパンツ以外は何も身に着けていない。

 メイドたちは彼女にパジャマを着せたがったが、寝間着ではどうにも寝つきが悪くなるので、これだけはわがままを通していた。


 フェイの均整のとれた身体は九歳にしては大柄で、手足も長い。

 身体は細いが、しなやかな筋肉が全身を覆っている。

 顔と背中から腰にかけて栗色の柔らかい毛に覆われ、可愛らしいお尻の上の方からは尻尾が生えている。


 くるりと輪を描いている尻尾をぱたぱたと振ってみてから、彼女は「よし!」とうなずいて衣服を身に着ける。

 ちゃんと着替えまで持ってきているのが、几帳面なアスカらしい。


 ゴーマがこの世界から消え去ったのち、しばしばアスカは熟睡しているフェイを自分のベッドに拉致して、一緒に寝るようになった。

 朝になるたびにアスカはモジモジして「ごめん」と謝るのだが、なかなか止められないようで、最近はフェイの方が諦め気味だ。


 アスカの〝遠慮〟はすでに解け、彼女は毎日登城して軍務についている。

 昨日のアスカはボロボロになって帰ってきて、フェイをびっくりさせた。

 心配して話を聞いてみると、何でも蒼龍帝と久しぶりに稽古をしたらしい。


「アスカがボコボコにされるなんて、やっぱりフロイア様って強いのね」

 フェイが感心したように感想を洩らすと、アスカはむっとした顔をする。


「馬鹿を言うな。十二勝十二敗の引き分けだ。

 剣術と槍術は私の方が分がいいのだがな、フロイア様は格闘術がやたらとお強いのだ。

 今日も散々関節を決められてなぁ。腕ひしぎ逆十字は耐えたのだが、アンクルホールドで降参した。

 あれは……痛いぞぉ!」


 いつもならアスカは夕食の後、フェイの学校の様子を聞いたり、勉強を見たりしてくれるのだが、昨日は入浴をするのが限界だったらしく、ばったりと寝てしまった。


 疲労困憊して熟睡しているのだから、明日は自分の部屋で目覚められるなと思っていたのに、いつの間にアスカのベッドに連れて行かれたのだろう?

「ひょっとしたら、エマさんがぐるになっているのでは!」

 フェイは、はたと思いついた。


 ハウスキーパー(家令)のエマさんは厳しい人だが、アスカを娘のように可愛がっているからありえる話だ。

「でも、あの人を白状させるのは簡単じゃなわね……。

 よし、学院に行ったらララちゃんとミリイちゃん(最近フェイと登下校を共にしている友人)に相談してみよう!」


 彼女は服を着て、自分の部屋に戻って登校するための準備にかかる。

 教科書や昨日出された課題、筆記用具、ハンカチ、ちり紙……。うん、準備オッケーだ。


 あとは顔を洗って……、いやその前にエマさんに頼んでアスカを起こしてもらわなきゃいけない。

 寝坊している時のアスカを起こすのは、エマさんにしか出来ないのだ。


 フェイは階下に降りてエマさんを探そうと、はずむ足取りで自分の部屋を出ようとした。

 しかし、ドアの前でふと立ち止まり、何となく振り返った。


 小さな自分の部屋。花柄の薄いピンクの壁紙が張られた少女らしい空間は、彼女のお気に入りの絵や、きれいな造花で飾られている。

 ふかふかのベッドはきちんと整えられており(やっぱりエマさんが怪しい!)、クマのぬいぐるみが枕元にちょこんと座っている。


 窓から差し込む陽の光がそれらを照らし、ぽわんとした暖かな空気が溜まっているのが感じられた。


 ここはあたしの家なんだ……。

 そう思うと、何だか喉元の奥の方が熱いもので満たされていく感じがする。


 フェイは扉に向き直り、勢いよく廊下に飛び出すと、ぱたぱたという元気な足音を響かせて駆けていった。

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