陽だまりの部屋 二 氷菓子
救済教団は、王国内では二番目に信者が多い宗派だが、神聖統一教に比べれば信者数は二十分の一にも満たない少数派である。
多神教の神聖統一教とは真逆の一神教で、創造主たる神にひたすらすがり、祈れば、死後すべての罪が許されるというのが教義だった。
「神の前では全ての者は平等である」と彼らは固く信じていた。
そのため王族や貴族、地主や大商人といった、いわゆる支配者層からは嫌われており、逆に下層階級の人々に熱狂的な信者が多かった。
そのせいか現実世界でも貧民救済の社会奉仕に熱心で、学校経営にも力を入れていた。
王国では貴族や富裕層の子弟は王立の学校に通うのが当然とされたが、庶民や貧民層は月謝の安い小規模の私学に通うことが多かった。
その中でも救済教団が運営する学校は、貧困層の子弟や障害をもった子どもたちも受け入れ、家庭環境によっては無償で給食を出すなどの支援を行っていた。
蒼城市にも〝救済学院〟という教団が運営する学校が、城壁外に広がる新市街に建てられていた。
ゴーマはフェイと手を繋いで、蒼城市の新市街をのんびりと歩いていた。
彼の幻獣、サラマンダーのエルルはいない。〝里帰り〟で幻獣界に帰ったままもう三週間以上経っていたのだ。
フェイはこざっぱりしたサマードレスを着ていた。
カシルから着てきた衣服は、アスカの家のメイドたちによってその日のうちに焼却されてしまった。
もちろん意地悪ではなく、彼女にたかっていた害虫駆除のためである。
彼女自身が気にしないと言うので、顔は隠していない。
したがって、茶色の柔らかい毛に覆われた顔も剥き出しになっていた。
道を行き交う人々の中には振り返ったり、ひそひそとささやきき合ったりする者もいたが、大柄なゴーマが付いているので彼女にちょっかいを出そうとする者はいなかった。
水色のギンガムチェックのサマードレスはノースリーブで、スカート丈は膝を隠す程度の長さだ。
ひきしまったウエストは幅広の白いサッシュで締められ、後ろで大きなリボンとなって結ばれていた。
フェイの足は普通の少女と変わらない白さで、腕は常人よりはかなり毛深いものの、顔ほどは目立っていない。
彼女の顔立ち自体は人間の少女となんら変わりはない。
くるくるとよく動く大きな目、少し上向きの小さな鼻、黙っていても笑みが浮かんでいるように見える口元など、フェイと直接話していると、そうした魅力的な面にばかり意識が向き、つい彼女の顔が柔毛に覆われているのを忘れてしまうのだ。
* *
実を言うと、メイドたちがフェイのシラミを退治しようとした時、一度彼女の髪や眉を除いた毛を剃ったことがある。
体毛に産みつけられたシラミの卵を駆除するには、それが一番確実な方法だったからだ。
メイドたちが苦労して、少女の肌を傷つけないように剃毛するのには、一時間以上かかった。
その結果、普通の人間と変わらない姿になったフェイは紛れもない美少女で、アスカ家の人たちを驚かせた。
結局、一週間もしないうちに体毛は元の状態に戻ったのだが、その後もゴーマやメイドたちは本気で日常的に剃毛することを検討したのだ。
しかし、普通の少女と変わらない状態を保つのには、二日に一度は全身を剃らなくてはならないことがわかり、その手間と時間、彼女の肌のことを考えるとそれは現実的な策ではないと判断された。
やがて多くの時間を一緒に過ごしたゴーマやアスカ家の人たちは、フェイの体毛をそれと指摘されない限りほとんど意識しなくなってしまい、誰も剃毛のことを言い出さなくなった。
フェイは外に出ても顔を隠すべきではない。
それがアスカとゴーマが出した結論だった。
そもそも彼女の顔は嫌悪感を感じさせるものではない。
かわいらしいクマのぬいぐるみが、生きてしゃべっているような印象を与えるのだ。
それに、初めは好奇の目で見られても、ある程度時間が経てば必ず彼女の人間的な魅力の方がそれを上回ると二人は確信したのだ。
* *
今日は祭りというわけではないが、表通りのそこかしこに屋台が出ていた。
フェイが食べ物に大きな執着を見せること、特に甘いものに対しては強い関心を示すことにゴーマは気がついていた。
生きることに精一杯で、甘いものを口にする機会がほとんどなかった九歳の少女であれば、それは当然と言えるだろう。
フェイは屋台で美味しそうな匂いをさせている食べ物に興味津々だったが、ゴーマはそれを無視して少女の手を引いて先に進んでいく。
「なんだよー、ゴーマ奢ってくれんじゃなかったのかよー」
フェイが頬を膨らませてぶうたれている姿も、ゴーマにとってはご褒美と思えるほど愛らしいものだった。
「慌てるな。もうちょい先だからおとなしくしてな」
そう言うと、いきなりフェイの身体を持ち上げて軽々と肩車をする。
「おーっ! いい眺めじゃないか!」
フェイの機嫌はたちどころに直った。
新市街の大通り、雑多な店と行きかう人の群れを上から眺めるのは新鮮な驚きだった。
普段、百五十センチほどの身長(九歳にしてはかなり大柄だが)で見ている光景と全く違う世界が広がり、自分が急に大人になったような錯覚を抱かせてくれる。
ゴーマは上機嫌のフェイを担ぎ上げたまま、白い漆喰で外壁をきれいに塗った小さな店の前で立ち止まった。
肩の上のフェイを両手で掴み、そのまま下に降ろすと見せかけて、ゴーマは「ぶん」と彼女を上に放り上げた。
「きゃーっ」
楽しそうな歓声を上げて、フェイがくるりと空中で一回転して見事な着地を決める。
これは、よく庭でアスカやゴーマにねだるフェイお気に入りの〝遊び〟だった。
彼女は本当にネコのようなバランス感覚を持っている。
降り立ったフェイの目の前に、きれいに飾られた店が待ち構えていた。
「なんだこの店?
すげえ可愛いな!」
フェイの言うとおり、漆喰の壁に優美な出窓が並び、窓には真っ赤な花を咲かせた小さな鉢植えが並んでいる。
古風な木の扉には、乾燥させた色とりどりの花を編み込んだリースがかけられている。
ゴーマはフェイの頭の上にぽんと片手を置くと、重々しい声を出した。
「こういうところに男一人で入るのは、実にハードルが高い。
したがって、お前の力が必要だ。……わかるな?」
「お、おう!」
何だかわからないが、とりあえずフェイは「とん」と自分の胸を叩く。
「よし、じゃあこの扉を開けてくれ、俺は後から続くからな」
フェイがおしゃれな木の扉を開けると、上部に下げられている小さな鐘が「チリン」と鳴った。
「いらっしゃいませ~」
若い女性の声が響き、白いエプロンを着けた女給仕が出迎えてくれた。
彼女は入ってきたフェイの顔と後から続く大男の姿を見て、一瞬ぎょっとした顔をした。
しかし、すぐに営業用の笑顔を取り戻し、二人を窓際の席に案内する。
店内はそこかしこに花が飾られ、窓にはすべてレースのカーテンがかかっている。
白い小花の柄のミントグリーンの壁紙が張られた壁に、蒼龍帝フロイアの肖像画が掛けられているのはご愛嬌だった。
店内は半分以上の席がうまっていたが、すべて若い女性客ばかりだ。
先客たちは、ちらちらとゴーマの方に視線を送っているのが痛いほどわかる。
なるほど、ゴーマが入るには相当の勇気がいるだろう。
ゴーマは椅子に腰かけたフェイの耳元に顔を寄せて素早くささやいた。
「いいかフェイ、ここでは俺は〝パパ〟だ。お前は俺の娘役だ。うまくやれよ!」
フェイは少し緊張した顔でこくりとうなずく。
よくわからないが、この店は油断できない所らしい。
すぐに先ほどの女給仕がお盆に乗せたコップを運んできて、銀色の水差しから冷たい水を注ぐ。
「ご注文はお決まりですか?」
「娘にアイスクリームを。俺のにはビターチョコをかけてくれ」
「かしこまりました」
にこやかな笑顔で軽くお辞儀をして彼女は注文を奥に伝えに戻った。
「なあ、ゴーマ」
「パパだ」
「おっ、おう。そうだったな」
フェイはコホンと小さな咳払いをする。
「ねえ、パパ。
アイスクリームって何?」
「やっぱり知らないか。
そりゃあよかった。
なに、すぐに出てくるから自分で確かめればいいさ。
これから学校に乗り込むからな、景気をつけるのよ」
「ふーん」
フェイは目の前のコップを手に取り、一口水を飲んでみた。
井戸水なのかけっこう冷えている。
夏の日差しの中を歩いてきたものだから、とても美味しく感じられた。
ことりとコップをテーブルに戻す。
丸いテーブルには白いテーブルクロスが掛かっている。四隅にはレースの刺繍が施されていた。
アスカの家もそうだったが、カシルで浮浪児として生活していた時には触れることもできなかったものばかりだ。
利発な少女は、自分が突然こんな恵まれた生活を送ることが許されるのか、という疑問を感じずにはいられない。
蒼城市に来て以来、ほぼ四六時中フェイの面倒を見てくれるゴーマやアスカに、自分は何ができるのだろう。
答えの出ない疑問は、どんな時でもフェイの頭の片隅にあって。彼女を悩まし続けていた。
そんな彼女の思いを打ち破るように、女給仕が銀のお盆に乗せられたガラスの器を運んできた。
フェイとゴーマの前にそれぞれ注文の品が置かれる。
厚手で青っぽい色をしたガラスの器は、浅い皿に脚をつけたような形をしている。
その上には乳白色の半球状の塊りがのっていて、脇に切った果実と生クリームが添えられている。
くんくんと匂いを嗅いでみると、ひんやりとした甘い香りがした。
「えーっと、パパ?(ぷっ) なんかこれ、めちゃくちゃ旨そうな匂いなんだけど……妙に冷たいぞ」
「ああ、これがアイスクリームっていう氷菓子だ」
「氷菓子? 夏なのに氷があるのか?」
「その辺は家に帰ったら教えてやるよ。
とりあえず食ってみろ。気に入るはずだ」
そう言って、ゴーマはスプーンを手に取り、自分の器からひと匙すくい取る。
彼のアイスにはチョコレートがかかっていて、匙を入れると冷えて固くなったチョコがパリッという微かな音を立てた。
フェイも小さな銀のスプーンを手に取り、恐る恐る小さな塊りをすくい取って口に運んだ。
口の中に牛乳で作ったと気づく香りが広がり、冷たい塊りが舌の上で溶けていく。
そしてその甘さと言ったら!
フェイの瞳が焦点を失ってとろんと潤んだ。
何だこれ? 何だこれ? 何だこれ?
世の中にこんな美味しいものがあっていいのか?
フェイの手が次のアイスクリームをすくおうと動き、すかっと空振りをした。
はっと彼女が気づくと、ガラスの脚付皿の上に残っているのは、果実と生クリームだけだった。
「あああああ、どうしよう、全部食べちゃった!」
そう言って涙目になって自分の方を見上げるフェイを見て、ゴーマは大いに満足した。
さっきから夢中になってアイスを味わっている少女の姿を、彼はニヤニヤしながら楽しんでいたのだ。
「食べかけだが、俺の残りも食うか?」
フェイの泣きべそ顔が、ぱあっと明るくなる。
「いいのか!」
「ああ、チョコは苦い奴だから除けろよ」
アイスクリームなどの冷たい菓子は、まとめて氷菓子と呼ばれていた。
冬の間に水のきれいな湖などから切り出した氷を氷室に貯え、それを夏場に利用して作るものだから、おのずと高価なものになる。
本来は貴族や大商人といった富豪たち向けの贅沢品だったが、最近は氷室を造る商人が増えてきて氷の値段が下がり、一般市民を相手にした店でも提供されるようになってきたのだ。
「ありがとうございました~」
扉の鐘がチリンと鳴り、ゴーマはフェイの手をつないで外に出た。
しばらくの間、フェイは無言だった。
そして「ほうっ」と溜め息をついて、人生初のアイスクリーム体験の感想を口にした。
「……あたい、これから先どんなお菓子を食べても悲しくなると思う。
絶対アイスクリームと比べてしまうもの……!」
ゴーマは笑いを噛み殺してフェイを元気づける。
「そう悲観したもんじゃないぞ。
今度、ハウスキーパーのエマさんに頼んで作ってもらおうか?」
「えっ、あの人そんなことが出来るのか?」
「ああ、前にエマさんが作ったアイスクリームをご馳走になったことがあるんだ。
彼女は貴族の家に長いこと仕えていたんだが、そこで覚えたらしい。
氷を買うには予約が必要だったり、準備が大変らしいから、すぐには無理だろうがな」
「そっかー、楽しみだなぁ。
でも、アスカを誘って、さっきの店に一緒に行く方が簡単じゃないの?」
「バーカ、アスカは謹慎中だろ?
まだ外には出られないんだよ。
第一、あいつをあんな店に連れて来たら、絶対女たちがキャーキャー言って騒ぎになるからな。
家で作ればみんなでゆっくり食べられるだろう」
「そうなのか……。
じゃあ、エマさんに頼んでよ! 絶対だぞ! 約束だからな!」
「ああ、わかったわかった。
さあ、元気が出たところで、今度は学校へ行ってみるぞ」
先を行くゴーマをフェイは慌てて追いかけ、その手を握る。
少し汗ばんだ少女の手を、ゴーマの大きな手がきゅっと包み込んだ。
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