第六章 陽だまりの部屋

陽だまりの部屋 一 目覚め

「んーーーーーーーーーーっ!」

 少女は膝を折った正座姿勢から、上半身を前に倒し、思いっきり二本の腕を伸ばして盛大なあくびをした。


 小さな口が思い切り開かれると、形のよい白い歯が丸見えになるが、犬歯だけが目立って長い。

 突き出された肉の薄い丸いお尻には、くるりと輪を描いた小さな尻尾が生えている。


 彼女は尻尾を出すために股上の浅い、ローライズのパンツを穿いていたが、それ以外は全裸だった。

 とはいえ、胸はわずかに膨らみかけているものの、まだ女にはなりきっていない子どもの身体だ。


 少女の顔、肩から腕、それに背中には、栗色の柔らかな毛が密生している。

 胸や腹、腰から下の脚などは毛はなく、子どもらしい白いきめ細かな肌をしている。


 フェイは猫のような伸びをしたあと、そのままぱたんと顔をシーツにうずめた。

 お日様の光を存分に浴びた、ふわふわのベッドが沈み込んでそれを受け止めると、たまらなく気持ちがよく、眠気が襲ってくる。


「ぺちん!」

 突き出したままのフェイのお尻を平手で軽く叩かれ、フェイは思わず「きゃん」と小さな悲鳴をあげた。

 そのままごろんと体を横に倒し、面倒臭そうに片目を開けて犯人を睨みつけた。


「もーっ、ゴーマったらやめてよね!」

 文句を言われた男は少しも動じない。

「黙れチビ助! いいかげん起きないと朝飯抜きだぞ」


 「朝飯」という言葉にフェイの目がぱっと見開かれ、バネ仕掛けの人形のように飛び起きた。

 ベッド脇の椅子に掛けてあった部屋着に腕を通すと、そのまま階下のリビングに向かおうとする。

 ゴーマはその襟首を捉まえて、少女をぐいと引き戻した。


「先に顔を洗え!

 心配すんな。朝飯が逃げないよう、俺が見張っといてやる」

 ゴーマはそう言ってどかどかと階段を下りていった。


 リビングのテーブルには、すでにハウスメイドの手で朝食が用意されていて、アスカも椅子に座っていた。

 ゴーマはその横の椅子に腰をおろす。


「朝稽古は終わったのか?」

「はい、兄様」

 そう言って微笑みを浮かべるアスカからは、汗を湯で流したのであろう、かすかに石鹸の香りが漂ってきた。


「フェイは起きましたか?」

「ああ、あれは猫みたいな奴だな。

 ほっとけばいつまでだって寝てるぞ。

 本当にオオカミの血を引いているのか?」


 そこへぱたぱたという足音をたててフェイが下りてきた。

「おはよう、アスカ!」

 元気よく挨拶をして通り過ぎようとするフェイを、アスカはさっと抱き上げる。


 きちんと耳の後ろまで洗っているか、チェックをするのだ。

 どうにか合格したらしいフェイを、抱き上げたままフェイ専用と決められた椅子にぽんと座らせる。


 フェイは頬をぷうと膨らませて抗議する。

「もう、あたいは子どもじゃないって!

 自分で顔も洗えるし、歯も磨けるんだから、そういうのはやめてよね」


 ゴーマがふんふんとうなずく。

「ああ、最近はずいぶんとよくなってきたな。

 だが、初めの頃は酷かったぞ」


      *       *


 アスカがフェイを引き取ると決め、自由都市カシルから蒼城市に連れ帰ったのは、八月の半ばを過ぎた頃だった。

 彼女は九月いっぱいまで遠慮という謹慎刑を受けていたので、フェイとともに家にいられたはずだった。


 しかし、実際には中之島の獣人たちと帝国軍の動きについて尋問を受けるため、王都で二週間ほど缶詰状態にされたので、兄であるゴーマに頼んでフェイの面倒を見てもらったのだ。


 ゴーマはもう、いつ幻獣界に転生してもおかしくない時期にあったので、もともと妹のもとに身を寄せるつもりだったから、二つ返事で引き受けた。


 アスカとしては気が気でなかったが、意外にもフェイとゴーマはウマが合った。


 ゴーマはこの快活な獣人のハーフの娘を気に入って可愛がったし、フェイの方も彼になついた。

 九月になって、ようやくアスカは情報部や参謀本部から解放され、自宅に戻ってきたのだった。


 アスカは蒼城市内に小さいながらも二階建ての一軒家を借りていた。

 大隊長という役付きの大佐であるから、それくらいの給与は出ていたし、アスカ自身ほとんど無駄遣いをしなかったので、家計には余裕があった。

 アスカはあまり家事が得意な方ではなかったので、家のことは古くからいるハウスキーパーのエマ女史と二人のメイドたちで管理されていた。


 フェイがアスカの家に来て、まずメイドたちが取り組んだのは彼女の衛生管理だった。

 フェイは孤児として数年間一人で生きてきたが、両親の教育のせいか、最低限顔を洗ったり、歯を磨くという習慣を身につけていた。


 そのため、虫歯などはなく歯並びもきれいだったが、問題は清潔とは言えない生活環境だった。

 毛深いフェイはシラミにとっては格好の棲家だったようで、彼女を入浴させた後、洗髪をしていたメイドがそれを発見して大騒ぎとなったのだ。


 メイドたちは薬の使用は最小限にして(この頃の駆除薬は水銀や揮発油を使用した有害なものだった)、あとは徹底して目の細かい櫛で、成虫や毛根近くに植えつけられた卵をしとった。

 彼女たちの奮闘によって、フェイのシラミは二週間ほどで撲滅されたのだった。


      *       *


 朝食はカリカリに焼いたベーコンと目玉焼き、酢漬けのキャベツ、野菜と鶏肉の入ったスープ、そして焼いたパンにバターである。


 フェイには好き嫌いがない。

 自分の分をきれいに平らげ、ゴーマとアスカが何か残さないかと目をキラキラさせている。

 ゴーマはやれやれといった顔で、大きなパンの塊りを手に取ると、テーブルの上に置かれていたイチゴのジャムの瓶を開け、たっぷりとパンに塗った。


「おっ、ゴーマ、それなんだい?」

 フェイはテーブルに置かれた瓶には気づいていたが、その中身が何かわからないので手を出さなかったのだ。


「何って、ジャムだよ。

 ほれ、食ってみろ」

 フェイはパンを受け取って、ちらりとアスカの方を見る。

 彼女が小さくうなずいたのを見ると、勢いよくパンにかぶりついた。


「何だこれ!

 すっげー甘い!!」

 フェイはあっという間にパンを食べつくした。


「なー、その瓶のやつ、舐めちゃだめか?」

「駄目だ。

 これを塗るのは一回の食事でパン一枚だけだ。

 それよりお前の口の周りがジャムだらけだぞ」


 そう指摘されたフェイは、慌てて舌を出して口の周りについたジャムを舐めとろうとしたが、すかさずアスカがナプキンでそれを抑えてぬぐい取ってしまう。


「いいか、この瓶を見てみろ。

 このイチゴの絵が描いてある横の文字が〝ジャム〟だ。

 いろんな果物を砂糖で煮詰めた保存食だな。

 それでこの隣りに書いている文字が〝イチゴ〟だ」


 ゴーマが目の前に差し出した瓶のラベルの文字を、フェイは真剣に見つめている。

 少しして彼女は目をつぶると、再び見開いた。


「よし、覚えた!

 ジャムとイチゴだな。

 あとでノートに書いておく」

 フェイが〝覚えた〟と言えば、本当にそうなのだということを、アスカもゴーマも疑わなかった。


 フェイはほとんど文字が読めなかった。

 自分が生きていく上で必要な単語をいくつか知ってはいたが、それも文字の組合せとしてではなく、一つの画像として記憶しているだけだった。


 ゴーマはフェイが来た翌日には、どこからか小学生低学年用のテキストを手に入れてきて、彼女に文字を教え始めた。

 利発そうな子だとは思っていたが、フェイは驚くような速度で文字を覚えていった。


 一度覚えた単語はほとんど忘れなかったが、それは彼女がノートに自分の覚えた単語を書き綴っていたせいもある。


 はじめはただ闇雲に単語でノートを埋めていったが、やがてフェイは文字種別にページを分けて書くようになった。

 誰にも教えられていないのに、自分で辞書を作り始めたのだ。


 文字を習い始めてまだ一か月だというのに、彼女は子ども向けの絵本ならほとんど読めるようになっていた。


 文字ばかりでなく、ゴーマは初歩の算数も同時に教え始めた。

 足し算、引き算はあっという間に覚え、掛け算も苦労しながら覚えていった。


 もともと金の計算を頭の中でするという訓練をずっとしてきたのだから、当然と言えば当然である。


 ゴーマはこの利発な少女に素直に感心し、アスカにフェイを学校へ通わせるべきではないかと相談した。

 アスカもそれは考えていたのだが、フェイの見た目をどうするのか、簡単に結論が出せないでいた。


 食後のお茶を飲みながら、ゴーマはフェイに聞いてみた。

「なあ、フェイ。

 お前、学校に通ってみる気はあるか?」


 フェイはきょとんとした顔でゴーマを見上げる。

「何でだ?

 勉強ならゴーマやアスカが教えてくれるじゃないか」


「今はな。

 だが、来月にはアスカは軍務に戻らなきゃならない。

 俺もその前にはこの世界からおさらばすることになる。

 日中お前の相手をする人間がいなくなるんだ。

 それよりも、学校に行って同い年の友だちを作った方がいいと俺は思う」


 フェイはよくわからないといった顔をしている。

「アスカもそう言ったけど、ゴーマが消えるってどういうことだ。死ぬのか?」

 フェイは〝死〟について無頓着なところがあった。あまりに身近で死という現実を見過ぎてきたせいだろう。


「いいや、死なないさ。

 むしろ俺はお前たちよりもはるかに長い生命をもつことになる。

 俺はもうじきサラマンダーの世界に生まれ変わるんだよ。

 火蜥蜴になれば、軽く百年や二百年は生きられるからな。

 それに、この世界から消えると言ったが、幻獣としてここに戻ってくる可能性だってあるんだ」


 フェイには理解が難しい話だったが、少なくともゴーマが死ぬわけではなく、消えることを恐れも悲しみもしていないことだけはわかった。


「でも、やっぱりゴーマがいなくなっちゃうのは寂しいな。

 それなら学校に行ってみるのもいいけど……、いいのか?」

「何がだ?」


 アスカの声は優しい。

 ゴーマがいなくなるという話が出ると、彼女がひどく優しくなることにフェイは気づいていた。


「だって、学校ってお金がかかるんだろう?」

「ふっ、そんなことか。

 心配するな。それくらいはどうでもない。

 それより、学校に慣れるまでは辛いかもしれないぞ」


「どうしてだ?」

「お前は獣人と人間のハーフだ。その毛の生えた顔をからかう者や意地悪をする者もいるだろう」

「ああ、そんなことか。

 それなら慣れてるさ。

 許せないようなことをする奴は殴って黙らせるからな」


 ゴーマはフェイの頭に腕を回して抱き寄せると、髪の毛をわしゃわしゃしながら笑いかけた。

「そうだな、お前なら大丈夫だろう」

 そして真面目な顔になると、アスカに向き直った。


「なあ、アスカ。

 噂で聞いたんだが、私立の学校で面白い教育をしているところがあるそうなんだが、知っているか?」


「ひょっとして救済教団がやっているという学校か?」

「そうだ。教団自体はあまり感心しないが、学校の評判はいいみたいだぞ」


「私もその噂は聞いている。

 そうだな、一度見に行ってみたいが……。

 兄様、私は日中出歩くことが許されていない。すまぬがフェイを連れて話を聞きに行ってみてくれないか」


 ゴーマは気安くそれを引き受けた。

「よおし。

 フェイ、今日は学校を見に行くついでに市場で買い物をしてこよう。

 屋台の食いもんはうまいぞ」

「本当か!」

 フェイは目をキラキラさせて食いついてきた。


 家に来たばかりと違い、最近は少女の表情がくるくるとよく変わるようになってきた。

 彼女がこの環境に慣れ、安心するようになったせいだろう。


「ああ、だが行くのは午後からだ。

 飯を食ったばかりだから、腹ごなしに剣術の稽古でもするか?」


「いいけどさぁ。

 剣術は面白いけど、あたい、ゴーマにもアスカにもちっとも勝てないからなー」

「バーカ、九歳で俺やアスカに勝てたら化けもんだ。

 それじゃあ、一丁もんでやるか!」


 ゴーマは楽しそうに庭に面した扉を開け放った。

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