獣たちの王国 五 アスカ

 少し時間を遡る。


 蒼城内、自分に与えられた大隊長室を出たアスカは、昼食のため城を出ようと廊下を歩いていた。

「アスカ、ちょっと待ってくれ」

 聞きなれた声に呼び止められ、アスカは少し驚いた。


 それは声の主が蒼龍帝フロイアだったからだ。

 彼女が振り返ると、大股でフロイアが追い付いてきて並びかける。


 軍服を見事に着こなした姿は、背筋がびしっと伸びていて、見ているだけで気持ちがいい。

 フロイアも身長百八十センチを超した、女性としては相当に大柄な方だが、さすがにアスカと並ぶと頭半分ほど低い。


 普段男の部下でも見下ろすことが珍しくないフロイアとしては、アスカと並ぶと背の低い女性の気分を味わえるためか、彼女と一緒になることを喜ぶ傾向があった。


「食事か?」

「はい」

「ならば付き合おう。案内してくれ」

「いや、私が行くのは新市街の兵たちがよくいく店です。

 フロイア様をご案内できるような店は存じておりません」


 蒼龍帝はくったくのない笑顔を見せる。

「よいのだ。私も兵たちが食事をするような場所に行ってみたい。

 ……ひょっとして迷惑なのか?」


「そんなことはありません。

 わかりました。ご案内しますが……」

「ん? どうした、歯切れが悪いな」

「その……下町に出ると、また女たちが騒がしくするのではと」


 何だそんなこと、という顔でフロイアはアスカの肩をバシンと叩く。

 プレートアーマーがガチャリと打ち合う音がして、周囲を歩いていた兵たちが驚いて振り向く。

「もう慣れたさ。

 そんなことを気にしていたら、どこにも行けないじゃないか」


 ――そうは言っても、城を出たフロイアとアスカが並んで歩いていると、大通りのあちこちから女性たちの黄色い声が聞こえてくる。

 それが城壁の外に広がる新市街に入ると、一層遠慮のないものとなってくる。


 中にはどこで調達したのか、花束を持って二人の前に駆け寄り、渡そうとする若い女性すらいた。

「今はプライベートでな、遠慮してくれ」

 アスカがやんわりと断ると、女性はしょんぼりとして引き下がる。


 そこへフロイアがすっと身体を寄せ、耳元に囁く。

「すまんな、気持ちだけは受け取っておくよ」


 女性は「きゃーっ!」と叫んだきりその場にへたり込んだ。

 すかさず友達らしい女たちが、彼女の両脇を抱えてずるずると引きずっていった。

 その場を後にしたアスカたちの耳には、「ずるいわ!」「抜け駆けよ!」「お声をかけていただくなんて、なんて羨ましい!」などと騒いでいる声が聞こえてきた。


 やれやれ、早く店に着かないかとアスカがうんざりしていると、前の方からも「きゃーっ!」という叫び声が聞こえてきた。

 二人の行く先にある小さな店の前にたむろしていた、若い女性の集団だった。

 アスカたちが近づくと、悲鳴をあげて蜘蛛の子を散らすように逃げていく。どの娘も何が本のようなものを抱え、顔を赤くしている。


「何だ? この店は……。

 おお、これは私ではないか。

 アスカ、お前の絵もあるぞ!」

 フロイアが興味津々しんしんの顔で店に入っていく。


 店にはそこかしこに肖像画が飾られている。大きなものもあるが、片手に収まるような名刺サイズのものが多い。

 そして、描かれている人物は様々だが、圧倒的にフロイアが多かった。

 軍服姿で蒼龍グァンダオを従えるフロイア、凛々しい軍服姿で剣を構えるフロイア、ゆったりとしたローブを身にまとった風呂上りと思しきフロイア……。それが色鮮やかな水彩画で、あるいは単色の鉛筆画で描かれている。


 そしてそれに次いで多いのが、フロイアとアスカの二人が描かれた絵である。

 ここはいわば、この世界のブロマイド屋であった。

 小さいサイズの絵が多いのは、肌身離さず持ち歩くためと、購入者が圧倒的に若い女性であるせいか、安価にするためである。


 フロイアは物珍しげに、アスカとともに描かれた自分の絵をあれこれ眺めている。

 店の奥では顔面蒼白になった女主人が、必死でアスカに目配せを送り、顔をブンブン振っている。


「よく描けてはいるが……少し美化しすぎではないかな? 何だこのバサバサなまつ毛は?

 それにどうして背景に花を背負っているのだ?

 私の瞳に描かれているののは星か? どういう意味なのだ?」

 アスカには答えようがない。

 気の毒な女主人の無言の哀願を汲み取って、フロイラに「そろそろ参りましょう」と促す。


「待て、あれは何だ?

 さっき逃げていった娘たちが持っていた本ではないか……」

 とうとうフロイアは気づいてしまった。

 女主人は「あわわわ」と言ったきり、頭を抱えてしゃがみ込んでしまった。


「ずいぶん薄い本だな……。

 ん? ああ、買わないと中が見られないよう封をしているのか。

 これも表紙が私とアスカだが……。


 ――おい! アスカ、見ろ。

 お前がタキシード――いや、違うな、これは執事服だ。男の格好をしているぞ!

 待て、見て見ろ。私も男装だ」


 フロイアは完全に興味をそそられたようだ。

「ふむ。買わなくては中が見られないなら仕方がない、何冊か買っていくとするか」

 フロイアが薄い本に伸ばしたその手を、すっとアスカが抑える。


「いけません、フロイア様。お目が穢れます。

 これは庶民の娘たちが好む猥褻な枕絵です。

 あなた様が見てよいようなものではありません」


「そっ、そうなのか?」

「はい」


「むう……。お前がそう言うのならそうなのだろうな?

 しかし、枕絵というのは男女のむつみごとを描いたものと聞いていたが、私とお前では女同士ではないか。

 それでよいのか?」

 ――アスカは天を仰いだ。


「はぁ……。普通、枕絵は男どもの楽しみで、私も部下たちが兵舎で回し読みをしているのを何度か取り上げたことがありますが……。

 最近の娘たちはそういう男女のものよりも、男同士のものを好むようです」

「ほう、それは初めて聞いたな。いや待て、だからお前と私は女同士ではないか?」


 ――ああ、何と言えばこのお嬢様に理解してもらえるのだろう?

 アスカも以前にこの店の前を通りかかった時、今日と同じように娘たちが悲鳴をあげて逃げ去るのを見たことがある。

 気になって、後でハウスメイドに頼んで、何冊か薄い本を買ってこさせたことがあるのだ。


 内容は、実にくだらないものだった。

 どれもこれも、フロイアとアスカが登場人物だが、顔だけがそうで身体は男として描かれていた。

 中には胸までは女性でありながら、股間は男性のそれが付いているという倒錯したものまであった。

 そして男同士の二人が絡み合うのが見所で、物語はいいかげん、さらには結末オチすらないというお粗末なものである。

 こんなもののどこがよいのか、理解に苦しむようなものだった。


 アスカとしては、まだ自分が裸にされ男に凌辱される内容だったら理解もしよう。

 汚らわしいし、腹も立つが、自分が女性として評価されているという、多少の救いがある。

 しかし、何が悲しくて男になって尻を掘ったり掘られたりしなければならないのだ!


 アスカはメイドに買ってきた本を一冊残らず焼却するよう命じたが、このメイドがこっそり何冊かを抜き取り、自分の部屋に隠していたことが後に発覚し、彼女をクビにするというおまけまでついた。


 身近にいた女性に〝おかず〟にされていたという事実は、アスカの乙女心をいたく傷つけたのである。

 彼女としては忘れてしまいたいトラウマだった。


 フロイアを引きずるように店から連れ出し、本来の目的である飯屋に着いたのは、もう正午を三十分も過ぎたころだった。

 そこは安くて量が多いと評判の店で、アスカの部下たちが贔屓にしているところだ。

 中に入ると案の定、店内は見知った顔の兵士で溢れかえっていた。


 驚いたのは兵士たちである。

 隊長が食べに来るのはいつものことだが、第四軍の総司令官、蒼龍帝のフロイアが入ってきたのだから無理もない。


 アスカは庶民――それも辺境の出だったが、フロイアはれっきとした大貴族――メイナード侯爵家の三女である。

 このようなせいの店に来るなど有り得ない話だったのだ。


 たちまち兵士たちは立ち上がり、直立不動の姿勢をとった。

 フロイアは少し困った顔になったが、そこはさすがに一軍の将である。

 答礼を返すと、よく通る凛とした大声を出す。


「諸君の邪魔をするつもりはなかった。詫びを言おう。

 実は君たちが美味そうなものを食っているとアスカから聞いてな。

 どんなものか試してみたくてお忍びで来たのだ。


 ――だが、こうした店に来たことが実家にバレると叱られてしまう。

 そこで諸君には、このことを秘密にしてほしい。

 口止め料として、この場の全員にビールを奢ろう。

 それで許してくれるか?」


「おおおおおおおーっ!」


 兵士たちの野太い声が感激の叫びを上げる。

 店の給仕たちは大わらわで兵士たちのテーブルにビールのマグを配り始めた。

 ビールが配られたテーブルから順番に、「フロイア様に!」「蒼龍帝に!」「第四軍に!」といった乾杯の唱和が湧き上がった。

 店主の案内で奥の個室に案内された二人は、席についてやっと一息つく。


「よいのですか? 昼間っからビールなど振る舞って」

「何、一杯くらいで酔いつぶれる情けない者は、私の部下にはいないと思うぞ?」


 アスカはそれ以上何も言わない。

 こういうところがお嬢様育ちでありながら、部下たちから絶大な信頼を寄せられる所以ゆえんであろう。この人は生まれつき人の心を掴むすべを心得ている。


「で、ここは何が美味いんだ?」

「はあ、名物と言えば串揚げでしょうか」

「串揚げ?」

「はい、竹串に肉や魚、野菜などを刺して、薄い衣をつけて揚げたものです。

 どれも一本銅貨一枚と安い割に腹にたまります」

「なるほど……ではそれをいただこう」


 アスカがテーブルに備え付けの呼び鈴をチンと鳴らすと、「はーい」という主人の声が聞こえた。

 そのすぐ後に、何やらもみあう気配がして、「ダメよ! 父さんは引っ込んでいて!」という女性の声が聞こえてきた。


 果たせるかな、ノックをして個室に入ってきたのは若い女性――店を手伝っているマリラという店主の娘が満面の笑みを湛えて注文を取りに来た。

「串焼きをお任せで頼む」


 アスカがそう言うと、すかさずフロイアが付け加える。

「それに私たちにもビールだ」


 あまり待たされずにビールと料理が運ばれてくる。

 皿の上には薄い衣で揚げられた串が三本のっている。

 そしてバケットに焼きたてのパンがどっさりだ。

 フロイアが身を乗り出して、奥に聞こえないよう小声で囁く。


「おい、これだけか? 少ないのではないか」

 二人とも体格に見合った大食いなのだ。

「大丈夫です。次々に揚げられてきますから。

 一度に出すと、さめてしまうでしょう?

 串揚げは揚げたて熱々が美味いのですよ」


 そう言うと、アスカは一本の串を手に取り、テーブルに置かれた金属の箱の蓋を取る。

 中には真っ黒なソースがたっぷりと入っている。

 その中に串を入れ、ソースを衣に吸わせると引き上げ、口に持っていきかぶりつく。

 「サクッ」という気持ちのいい音がフロイアにも聞こえた。そのまま美味そうに噛みしめると、ビールをぐいと呷る。


 フロイアはたまらなくなって、彼女の真似をする。

「あ、ソースの二度づけは禁止ですからね」

 すかさずアスカが鉄の掟を言い渡した。


 薄い衣がサクッと歯に当たったかと思うと、衣から甘酸っぱく、香辛料の効いたソースが染み出してくる。

 その中には脂身の多い豚の肉が隠れていた。柔らかな豚バラは脂がとろけるように甘く、噛むたびに肉汁と脂が一緒になって吹き出してくる。


「何だこのソースは? 初めての味だが……うん、悪くない!

 上品さは感じないが……何ていうか下品ながらパンチが効いているな」


 それは大量生産されている普通のウスターソースだったが、彼女が普段食べ慣れているグレービーソースとは、味も香りも見た目も、全く違っていたのだ。


「しかもこの豚!

 こんなに脂身のある豚を食べたのは初めてだが、脂身が甘いとはついぞ知らなんだ……。

 いや、驚きだよ。世間は広いのだな……」


 この後、フロイアはレンコン、タマネギ、紅ショウガなどの野菜類に驚愕し、ウズラの卵に狂喜し、チーズに悶絶したのだが、彼女の至福の時間については割愛する。


 テーブルに置かれた小さな陶器の壺には三十本ほどの竹串が放り込まれ、籠いっぱいだったパンもあらかた無くなった。

 ビールも一杯では済まず、結局二人とも三杯ずつお代わりをした。


 腹が膨れた二人は、口直しにコーヒーを飲みながら向かい合っていた。

「それで、今日は何のご用向きですか?」

 アスカが静かに聞く。


「なんだ、バレていたのか?」

「長いつき合いですから」


 フロイアは少し困ったような顔でアスカを見ている。

「お前、おとといどこぞの貴族ともめただろう?」

 アスカはあっさり認める。


「はい。

 素人の娘を連れ去って慰み者にしようとした下種げすがおりましたので、躾をしました。

 なんとか公爵と名乗っていましたが、どうせどこかの三流貴族がかたっているのだろうと思っていましたが……」


「エレノア公爵だ」

 フロイアは溜め息をつく。


「よりにもよって、本物で、しかも大物だ。

 お前にその――躾をされた後、高熱を出してベッドで唸っていたらしいが、今朝になって詰問状が届いたよ。

 不届き者に処分を下せ、とな。


 ――エレノア卿の素行の悪さは聞いていたが、義理とはいえ仮にも陛下の兄君だ。無視するわけにもいかん。

 お前にはしばらく休暇をやろう。ずっと働き詰めだったのであろう?」


 そう言うと、フロイアはにやりと笑う。

「一応、向こうの顔を立てるために〝遠慮〟三か月というのが公式の処分だ。

 だが、家に閉じこもるのはお前の趣味ではあるまい。

 蒼城市からの三か月追放でも、同等の処分と見做されるから、お前にはそっちの方がいいだろう。

 確か兄上が辺境に住んでいるのではなかったか?

 そちらに身を寄せたらどうだ」


 〝遠慮〟と言えば、閉門・蟄居ちっきょ・謹慎などに比べ処分としては軽い方だ。恐らく蒼龍帝はそれで済ますために相当な無理をしたのだろう。

 アスカにはそれがわかるだけに、言い訳もできない。


「兄とはちょうど今夜会うことになっていますから、相談してみます」

「兄上と? 何かの用事でこちらに来られたのか?」

「はい、詳しくは知りませんが、軍から出頭命令があったようです」


「蒼城市に? というとアリストア殿の絡みか。

 そう言えば、お前の兄君は先の白虎帝に仕えておったのだな……。

 ん? 確か召喚士だとも言ったな。

 ……ああ、なるほど。例の件か……」


 蒼龍帝は何事か納得したようだった。

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