獣たちの王国 三 蒼城市

 蒼城市は中央平野の東端に位置している。

 四古都の一つに数えられるとはいえ、その中では最も歴史が新しい。

 辺境に一番近い都市でもあることから、活気に満ちた若々しい雰囲気の街であった。


 城壁の周囲に新市街が広がっているのは、ほかの古都と変わりない。

 ユニはその新市街にある居酒屋の一角に腰をおろした。

 初めて入る店だ。


 外から覗くと、店内は活気に満ちている。それでいて店は周囲を含めて掃除が行き届き、小ざっぱりとした雰囲気がある。

 こういう店は外れが少ない。それはユニの経験が教える鉄則だった。


 ユニが席に着くと、すぐさま女給仕が飛んでくる。

 小柄で元気いっぱいの女性だ。年齢は十八、九だろうか、小柄なユニよりもさらに背が低い。おそらく百五十センチに満たないだろう。

 決して太ってはいないが、顔も腕も脚も、肌に弾けてしまいそうな張りがあるのは若さゆえであろう。


 生まれつきなのか、縮れた髪の毛を両耳の上でまとめていて、ぴょんぴょんと跳ねるように店の中を駆けまわるたびに髪の毛が一緒に揺れる。

 くりっとした茶色の大きな目に、少し上を向いた低めの鼻、誰からも好かれそうな人懐っこい笑顔をしていた。


 そして最も人目を惹いたのは、その豊かな胸だった。

 背が低く、やや幼い顔立ちをしている分、よけいに目立った。


 店の制服は肌の露出などまったくないエプロンドレスだったが、彼女の胸は動くたびにゆさゆさと揺れて、うっかりするとボタンを弾き飛ばしてはみ出すのではないかと心配になるくらいだ。


 当然、男性客からの視線が痛いほど突き刺さるが、彼女は慣れっこなのか気にしていないようだった。


「いらっしゃいませー!」

 溌溂とした大きな声であいさつしながら、彼女はユニの前に小鉢を置く。

 古都の飲み屋ではよくある〝突き出し〟というやつだ。


「お飲み物は何になさいますか?」

 ちょっと狸を思わせる、とびきり愛嬌のある笑顔で女給仕が尋ねる。

「エールをお願い」

 ユニが答えると、彼女はちょっと眉根を寄せて首をかしげる。


「えーと、お客様はうちの店、初めてですよね?

 うちのエールは苦いですけど、だいじょうぶですか?」


「苦いって、インディアン・ペールエールなの?」

「まあ、よくご存知ですね!」

 ユニの答えに彼女は大げさに驚いて見せる。


「マスターの弟さんが小さな醸造所をやっていて、うちはそのエールを独占的に販売してるんですよ。

 すごい美味しいって評判なんですから。

 ……もっとも、あたしは苦すぎて飲めないんですけど」

 ユニは笑顔を浮かべて小さな女給仕のくるくる変わる表情を楽しんでいた。


「だいじょうぶ、それでいいわ。

 ……それより、ねえ、この突き出しは何かしら?

 なんだか何かの根っこのように見えるけど」

 ユニの目の前に置かれた小鉢には、確かに白くて細い草の根のようなものが入っている。

 女給仕はにっこりしてうなずく。


「正解です!

 それはセリの根のおひたしですね。

 上に乗っているのは干した魚の身を薄く削ったチップと、梅肉です」

「セリって、あの香草のセリ?

 根っこも食べられるの?」


「はい!

 シャキシャキとした歯ごたえと、香りが強くて、葉や茎よりも断然美味しいですよ」

 「へー」とユニは感心する。

 試しにフォークで一突きしたセリの根を口に運んでみる。


 彼女の言うとおりだった。シャキっとした歯ごたえがあるものの、決して固くはない。

 根っこなら土臭いえぐみや苦みがあるだろうと予想したのだが、まったくそれらは感じられない。


 そして驚くほどのセリの香りが口中に広がり、鼻腔を通って漏れ出てくる。

 ユニの顔を覗き込んでいた女給仕は、「でしょう?」と言って得意顔だ。


「あなたの言うとおり、この店は初めてなの。

 料理はあなたにお任せするから、お薦めのものを二、三皿選んでちょうだい」

 ユニがそう言うと、彼女は「かしこまりぃ~!」と大声で応え、スキップで戻っていく。


 通り過ぎるテーブルの常連客がすかさず彼女に声をかけたり、冗談を飛ばしたりするが、その都度彼女はとびきりの笑顔を振りまいていく。

 彼らが「ケイティ」と呼んでいるから、ケイトが彼女の名前なのだろう。


 彼女が仕事を愛していること、そして常連たちに愛されていることは誰の目にも明らかだった。


 そう言えば結構な広さの店なのだが、まだ日が沈んだばかりだというの八割がたテーブルが埋まっているところを見ると、かなり繁盛しているのだろう。

 ここは当たりだ! ユニは自分の勘が外れなかったので上機嫌だった。


      *       *


 ユニが蒼城市に来たのは、アリストアからの出頭命令によるものだった。


 カイラ村にある軍の出張所から受けた書類には、「六月二十日に蒼城市に入る予定になっている。同日一三〇〇ひとさんまるまる時に蒼城に出頭せよ」と書いてあった。


 人の都合などまったく無視した、居丈高な物言いはいつものことだった。

 ただ、王都の参謀本部まで出頭させられるのに比べれば、蒼城市は辺境に近く負担が軽い。アリストアなりに少しは気を遣ったのだろう。


 ユニは辺境に暮らしながら、まだ蒼城市に行ったことがなかった。

 このところ懐も暖かいし、三日ほど早く行ってあちこち見物してみようと思い立った。


 ゴーマに声をかけると、予想どおり彼の元にも出頭命令が来ているというので誘ってみたが、彼は彼で蒼城市に別の用事があるらしく、ユニは一人で行くことにしたのだ。


 その初日、活気のある市場を覗いたり、芝居小屋で観劇したりで、ユニは大いに休日を楽しんだ。

 そして日が暮れたなら、酒場に入らないわけにはいかない。


      *       *


「お待ちぃ!」

 元気のよい声を上げてケイトが戻ってくる。

 背の高いグラスに色の濃いエールがたっぷりと注がれている。


 ケイトはグラスをテーブルに置くと、さらに皿を一つ添える。

「とりあえず手早くできるものを持ってきましたぁ」


 皿の上には薄く切って焼いたパンが何枚か乗っている。その横にあるのはどう見ても卵の黄身だった。

 パンを一枚手に取って匂いを嗅いでみると、ほのかにニンニクの香りがする。

「これはこのまま食べるの?」

 ユニの問いに、ケイトは得意げに解説する。


「いえいえ、これは香りづけにニンニクを塗って焼いただけなので、味がついてないんですよ。

 その卵の黄身を塗って食べてください。美味しいですよ!」

 よくわからずにユニは言われるまま黄身にスプーンを入れる。


 火が通っているように見えない黄身は、破れて中身が広がるのだろうと思ったら、案に相違してねっとりとしている。

 なるほど、これならパンに塗れそうだ。

 ユニはバターナイフに持ち替えて、粘度の高い黄身をパンに薄く塗り広げた。


 口に入れると、濃厚な黄身の旨味とかなり強い塩気を感じる。それがサクサクのパンと混じり合い、なんともエールが欲しくなる味だ。

「うん、美味しい!

 この黄身はどうやって作るのかしら……」


「調味液に卵の黄身だけを丸一日漬け込むんですよ(レシピは秘密ですけどね!)。

 次、肉料理持ってきますから、少し時間をくださいね」

 そう言い残すと、ケイトは手を挙げて彼女を呼んでいるテーブルへと小走りに駆けていく。


 ユニはグラスのエールをあおる。

 強烈な苦みと少し焦げたような風味、それにチョコレートのような香りが口の中に広がり、喉の奥へと滑り落ちていく。


 かなり個性的な味だが、旨いことだけは間違いない。

 これはケイトが言っていた肉料理も期待大だな……。ユニの顔がひとりでにニヤついてしまう。


      *       *


 その時、店の扉をあけ、頭がぶつからないよう身をかがめて一人の客が入ってきた。

 さっきから何人もの男たちがその扉を出入りしていたが、身をかがめた者など一人もいなかった。


 それだけその客は背が高かった。多分百九十センチ以上はあるだろう。

 それだけなら驚きはしないが、その客は全身鎧――鈍い銀色をしたプレートアーマーを身にまとっていた。


 兜は背中の方へ跳ね上げていて顔を出しているのだが、驚くことにそれはどう見ても女のものだった。

 黒い髪を肩に届かない程度に切り揃え、意志の強そうな太い眉、高い鼻、引き結んだ大きな口……。

 女性らしい可愛らしさや線の細さはないが、凛々しい顔立ちはそれなりに美しいと言えた。


 女騎士はカチャカチャと金属鎧の音をさせながら、迷いなくカウンター席に向かい、スツールに腰を下ろす。

 恐らく彼女は常連客で、そこが指定席なのだろう。


 異様な出で立ちにも関わらず、ほかの客たちは誰も驚く様子を見せない。それどころか、彼女に向ける視線には明らかな敬意と好意が籠っている。


 今時あんな鎧を着ている人がいるのか……。

 ユニにとっては驚きだったが、じろじろ見ては失礼だ。


 そう思ってなるべく彼女を見まいとするのだが、どうしてもちらちらと視線を送ってしまう。

 カウンターに座る彼女が、こちらに背を向けているのが救いだった。


 彼女が席につくと、すぐに数人の女給仕たちが周りを取り囲んだ。

 出遅れたらしいケイトもほかの仲間の後ろでぴょんぴょん飛び跳ね、なんとか彼女の顔を見ようとしている。

 女騎士は言葉数少なく注文を述べたようだった。


 取り囲んだ女たちがきゃいきゃい言って騒いでいると、彼女は一人の頭に大きな手を乗せ、撫でてやる。

 たちまち「きゃー!」という悲鳴が上がり、撫でられた娘を「ずるい、ずるい!」と叫んでもみくちゃにしている。


 うんざりした顔で厨房から出てきた主人らしい男の一言で、やっと娘たちは自分たちの仕事に戻っていった。

 ずいぶんともてるんだなぁ……。ユニはぼんやり感心する。


 店内はさらに混んできた。喧噪が一段と上がり、いかにも下町の気の置けない居酒屋という雰囲気である。

 ユニはこういう騒がしさを愛していた。

 そこへまた、客が入ってくる。


 今度は四人組だが、これまた異様な客だった。

 まず四人のうち三人は、見た目からしてごろつき然としている。身体が大きく、腕も太い。


 いかにも暴力で世間を渡ってきたという雰囲気がある。

 古傷がある醜い顔に下卑た笑いを浮かべている。


 そして、もう一人は格好が上等だった。

 高そうな生地に最新流行の服。薄手の外套は毛皮でできた高級品だ。宝石がきらきらと光る指輪をいくつもはめている。


 どう見ても貴族か富豪といった出で立ちである。

 三人の男たちが、この裕福そうな男の腰巾着となって、せいぜいいい目をみようとしているのは一目瞭然であった。


 すでに店内には開いたテーブルがなく、彼らが座るには相席をするしかなかったが、ガラの悪い取り巻きたちは絵に描いたような脅し方でほかの客を移動させ、席を確保してしまう。


「エールを四つ持ってこい、大至急だ!」

 そう怒鳴ると男たちは腰を下ろす。いずれも赤い顔をして、かなり酔っているようだった。

 ケイトがお盆に四つのグラスと突き出しの小鉢を乗せて持ってくる。


「いらっしゃいませ!」

 精一杯の笑顔でエールの入ったグラスを置き、小鉢を並べる。

 身をかがめるとテーブルにつきそうになるたわわな乳房を、男たちは卑猥な目つきで眺めている。

 ふと、金持ち男が目の前に置かれた小鉢に気づいた。


「娘、なんだこれは?」

「はい、セリの根のおひたしです。美味しいですよ」

 ケイトは愛想よく笑顔で答える。


 次の瞬間、その男はテーブルの上に並べられた小鉢もグラスも、いっぺんに腕で払いのけた。


「ふざけるなーっ!」

 ガシャンと派手な音を立て、床に落ちたグラスや小鉢が砕け散る。

「この店はエレノア公爵に草の根を食わそうというのか!

 おい、ビル。

 貴様が近頃評判の店があるというから、こんな薄汚いところまで付き合ってやったのだ。

 それがなんだ、この扱いは!

 不愉快だ! 出るぞ!」


 公爵と名乗った男は激怒している。

 取り巻きの男たちは顔を見合わせている。「いや、あんたが連れて行けっていうから……」と顔に書いてあるが、もちろん口には出さない。


 ケイトは一瞬驚いたが、すぐにしゃがみ込んで割れたかけらをお盆の上に拾い集める。

 酔っ払いには慣れているし、たまには暴れる客もいる。これくらいで泣き出すようでは給仕は務まらない。


 立ち上がった公爵はその様子を見下ろしている。

 嫌でもしゃがみ込んだケイトの胸元が目に入ってくる。

 膝に押しつぶされた胸が行き場を求めて衿ぐりからはみ出している。


 彼の怒りは一瞬で劣情に変化した。

 男はケイトの腕を掴んで乱暴に引き上げる。

 「あっ」と言って、その手を振りほどこうとするが、小柄なケイトが男の力にかなうはずがなかった。


「いい考えだ」

 公爵は下種げすな笑いを浮かべて、三人の取り巻きに命じる。

「おい、この娘を持ち帰るぞ。

 こんな店で出される料理より、よほど旨そうだ」

 三人は即座に歓迎の意志を示す。うまくすると〝おさがり〟にありつけそうだ。


 ビルと呼ばれた三人のリーダー格らしい男が公爵からケイトを受け取ると、そのまま手下の男に渡す。


「お前はこの娘を連れて行け。

 おい娘、そう暴れるな。公爵様は情け深いお方だ。

 お前がこのちんけな店で一月かかっても稼げないほどのご褒美をくださるだろうよ。

 ――さ、公爵様、参りましょう。

 おい、イワノフ、お前、外に行って馬車を拾ってこい」


 慌てて店の主人が飛んでくる。

 非礼を詫びて許してくれるよう懇願するが、もちろん彼らが聞くはずはない。

 主人はビルに顔面を殴りつけられ、鼻血を吹きだしてうずくまった。


「心配するな、ちょっと一晩出稼ぎに行くだけだ。

 明日になればちゃんと返してやんよ」

 そう言って暴れるケイトを担ぎあげると、彼らは公爵とともに店を出ようとする。


「いやっ、やめてー!」

 店の中に女給仕の悲鳴が響くが、客たちは粗暴な男たちに手を出せないでいる。


 何人かが「やめろよ、嫌がっているじゃないか」と声をあげたが、ぎろりとビルが目を剥き、

「ごらぁ! 文句のある奴は前へ出てこい!」

とすごむと、それきり黙ってしまう。


 ユニはうんざりしていた。

 せっかくのいい店、美味いエールに料理が台無しにされてしまった。

 気が進まないが、あの愛嬌のある娘を助けないという選択はユニにはない。


 ただ、体格が違い過ぎるので、ナガサを抜かないとあの三人組を相手にするのは苦しそうだ。しかし、やはり刃傷沙汰はまずいだろ。


 仕方ない、外の物陰で目立たないよう待機しているライガを呼ぶしかないか……。

 そう思うのだが、何か妙な違和感が彼女の行動を鈍らせる。


 何というか、店の中全体に漂う空気に切迫感がないのだ。

 娘が連れ去られようとしている。きっと凌辱の限りを尽くされ、ボロ屑のようになって捨てられるのだろう。

 そんな想像が容易につくという状況なのに、妙に〝ゆるい〟雰囲気が漂っている。


 全員がこれから始まる芝居を待っているような、わくわくとした雰囲気なのだ。

 危機の当事者であるケイトですら、抗い暴れながらも、何かを期待している表情が浮かんでいる。


 理解しがたい状況ではあったが、とにかく見過ごすわけにはいかない。

 ユニがげんなりした顔でようやく覚悟を決め、腰を浮かしかけた時、ガチャリと金属が打ち合う音がした。

 あの女騎士が立ち上がり、ずかずかと騒ぎの中心に近づいていくのが目に入った。


 驚いたのは四人の男たちだ。彼らのテーブルからは死角になって女騎士の存在に気づいていなかったようだ。

 時代錯誤のプレートアーマーを着込んだ女が自分たちの方に向かってくる。

 ならず者の頭目、ビルも背は高いが、それ以上に大きな女だ。


 店内の空気は一変する。

 安堵と期待、それがないまぜとなって次の展開を心待ちにしている……。そんな雰囲気だった。


 暴漢に担ぎ上げられたケイトの顔には、誰よりも激しい期待と歓喜の色が浮かんでいる。

 一方、男たちは明らかにたじろいでいた。


「何だてめぇ!

 文句でもあるっていうのか!

 ちっとばかりデカいからって調子にのんじゃねぇぞ、ごらぁあ!」

 精一杯の脅しにも、女騎士は顔色ひとつ変えない。


「娘を離せ。

 おとなしく店を出ていけば何もすまい。

 それとも痛い目をみたいのか?」

 落ち着いた低い声が響く。


 ならず者たちは互いに顔を見合わす。

 いつもだったら問答無用に殴りかかっているところだ。


 だが、全身を覆う金属鎧相手にそんなことをすれば、自分の拳を痛める結果になるだろう。

 だからといって、ここで引き下がっていては暴力で世を渡るという稼業の看板を下ろさなくてはならない。


 ビルは目で手下に合図をすると、手近な椅子に手を伸ばして、フルスイングで女騎士に叩きつけた。


 「バキッ!」という音を立て、木製の椅子はバラバラになって破片を巻き散らす。

 女騎士はまったく痛痒つうようを感じていないようだが、それは予想範囲のことだった。


 頭目に目配せされた手下が、夏で火を落としている壁の暖炉のもとに駆け寄る。

 そこには金属製の火掻き棒が壁に掛けてあった。

 男はそれを手に取ると、「兄貴っ」と言ってビルに向け放り投げる。


 ビルはそれを片手で受け取ると、「ブンッ」と音を立てて一振りし、身構える。

 店に備え付けの大型暖炉用に作られた火掻き棒は、長さが一メートル半ほどもあり、太さも十分だった。

 まともに頭に食らえば即死間違いなしという、完全な凶器だった。


「おいお前、それは危ないぞ。

 当たったら怪我では済まないではないか」

 女騎士がのんびりとした声でたしなめる。


「へへっ、よく言うぜ。

 そんな鎧を着込んでおいて、いまさら許してくださいは通りゃしないぜ!」

 言い終わらないうちにビルの腕が一閃し、火掻き棒が唯一剥き出しとなった女騎士の頭部を襲う。

 店中から「ごくり」と息を飲む音が聞こえた。


 火掻き棒は正確に彼女の耳のあたりを狙って襲いかかる。

 「ガンッ」という鈍い音がしてそれは受け止められた。女騎士が左腕を上げ、金属製の小手で弾きかえす。


 男が体勢を崩した瞬間、女騎士は大きく踏み込んで男との間合いを詰める。

 彼女の左腕はそのままするりと伸び、伸びきった男の右腕に絡みついた。まるで蛇のような滑らかな動きだった。

 女騎士はその腕をぐいと引き寄せ、そのまま脇に抱え込む。


 かなりの膂力なのだろう、男はまったく抵抗できずになすがままになっている。

 次の瞬間、「ふんっ!」という軽い気合とともに女騎士が体を半回転させ、体重をかけて男を押し倒す。


 下敷きになった腕から「めきっ」という嫌な音が聞こえ、同時に男の絶叫が響き渡った。


「がああああああああああああっー!

 うっ腕がぁ、おれの腕がぁぁぁぁあー!」


 床でのたうち回る男の右腕は、外側に向けてくの字に曲がっている。肘関節が破壊されているのは間違いない。


「だから危ないと言っただろう。

 そんなものを振り回したら、手加減ができぬのだぞ」

 女騎士はほとんど表情を変えずにぼそぼそと説諭する。


 残る二人のならず者は完全に戦意を喪失していた。

 女給仕を放りだすと、両側から彼らの頭目を抱え上げ、ほうほうの体で店から出ていった。


「さて」

 女騎士がずいと歩を進める。

 そこに残っていたのは、公爵を自称した男だった。


「貴公、なんとか公爵と言ったな?

 金で女を買いたいのであれば、この街にもそういう所はある。

 そなたに似合いの汚らわしい場所だ。

 だが、この店には金で身体を売るような娘はいないのだよ」

 女騎士は貴族の顔をしげしげと覗き込んだ。


「貴族とは民の手本となり、民を導くものであろう。

 それがなんだ、このざまは。

 どうやら、貴族としてのまともな躾を受けてこなかったと見える」

 男は圧倒的に不利な状況を自覚していたが、それでも虚勢を張ることをやめない。


「何を無礼なっ!

 きっ、貴様のことは聞いたことがあるぞ。

 フロイアの家来に、時代錯誤の鎧を着たオークのような大女がいるとな。

 あ奴もオークじみた大女だと思っていたが、なるほど部下はそれ以上か。

 わしに少しでも手をかけてみよ、フロイアもろともただでは済ませんぞ!」


 彼の抵抗はそこまでだった。

 女騎士は、貴族の襟首を片手で掴むと、ぐいと引き上げる。

 どうやら男が彼女の上司を侮辱したことが、よほど癇に障ったようだ。

 貴族の身体は軽々と宙に浮いた。


 そのまま彼女はテーブルの上にどかりと腰を下ろし、膝の上に貴族をうつぶせに乗せた。

 左手で首根っこを押さえつけると、男の腰に右手を伸ばし、ずるりと下着ごとズボンを引き下げる。


「なっ、何をする、放せっ!

 無礼は許さんと言っただろうが!」

 男は喚き散らすが、べろんと生白い尻が剥きだしにされた格好では、貴族の威厳も何もなかった。


「世の母親というものは、子どもが悪いことをしたらこうして躾けるのだ。

 気の毒に貴公はそれを知らぬと見える。

 だから私が代わって躾けてやろうというのだ。おとなしくしていろ」

 そう言い終わるなり、女騎士は右手を振り上げ男の尻に叩きつけた。


「ボグッ!」

 鈍い音が鳴る。

 平手で打ったのだから、普通なら「バチン」とかいう音がしそうだが、そんな生易しいものではない。

 公爵はあまりの激痛に悲鳴すら上げることができないでいる。


 旧日本軍のしごきに〝精神注入棒〟という木の棒で尻を叩く暴力行為があった。いわゆる〝けつバット〟だが、そんな感じなのだろう。

 尻が痛いのではない、肛門とそれに直結する腸の内部に響くような打撃――女騎士の一撃は、それほどの威力があった。


 もともと二メートル近い体格なのに加えて、軍で鍛えた筋力、金属鎧の重量が重なったフルスイング。まさにバットで殴りつけるようなものだった。


 女騎士はさらにもう一発、手を振り下ろす。

 そしてもう一発。

 貴族の顔面はどす黒く鬱血し、額に脂汗がにじんでいる。


 彼は自分の肛門が破壊され、そこからだらだらと内臓が零れ落ちていくような感覚を味わっていた。

 実際にはそんなことはなく、ただ漏らした小便が女騎士の膝を汚しただけだったのだが……。


 彼女は三発で男を解放した。

 もう二、三発見舞ってもよかったが、本当に死ぬかもしれないと思い直したのだ。

 まぁ、一週間は椅子にも座れないだろう。


 女騎士は再び貴族の襟首を掴んで引き上げると、店の外まで引きずっていった。

 外にはまだ、ならず者たちがいて、彼らの兄貴分の腕を何かの布で吊って応急手当てをしているところだった。


 彼女はその前に男を放り投げた。

「こいつも連れて行け。

 そして二度とこの店へ顔を出すな。


 ――というより、この街から出て行け。

 お前たちの顔は覚えた。今度見つけたら手加減はしないぞ」

 そう凄むと、男たちは頭目と貴族にそれぞれの肩を貸し、慌てて逃げ去っていった。


 女騎士が店内に戻ると、一斉に乾杯の音が鳴り響いた。

 「うわーん」というくぐもった騒音が壁に反射して耳を刺す。


「アスカ様に!」

「蒼龍帝に!」

 そこかしこでそんな声が唱和されている。


 真っ先に駆け寄ってきたのはケイトだった。

 ほとんど体当たりのような勢いで女騎士に抱きつくと(多分相当痛かったはずだ)、目をうるうるさせて顔を見上げる。


「ああっ、アスカ様!

 ありがとうございます!

 アスカ様がお助けくださらなかったら、あたし……」

 そこで彼女は「わあっ」と泣き出す。


 アスカと呼ばれた女騎士は、やれやれといった表情でケイトを引きはがした。

「どうということはない。いつものことだ。

 ケイティは主人の手当てをしてやれ。

 それとエールを一杯頼む。さすがに疲れた」

 そう言うと、アスカは自分の席に戻る。


「ふ~ん……」

 ユニは感心してその様子を見ていた。

 店の客たちは、〝いいショーを見られて幸運だった〟と、皆満足げな表情をしている。


 女給仕たちは集まって、きゃあきゃあかしましくお喋りをしている。

 断片的に「アスカ様が……」「今度はあたしが……」とか言う声が聞こえてくる。


 どうやらこうした騒ぎは初めてではないらしい。

 あのアスカとかいう女騎士は、何度もトラブルをこうやって収めてきたのだろう。

 さっきの貴族の口ぶりでは、蒼龍帝フロイアの部下らしいが、すごい女性がいたものだ。

 ユニは素直に感心した。


 ただ、彼女の興は完全に削がれてしまった。

 これはもう、酒や料理を楽しむという雰囲気ではない。

 肉料理の皿がきたら、それを食べて店を出よう――ユニはそう決心した。

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