第五章 獣たちの王国

獣たちの王国 一 夜襲

 月が出ていた。

 あまり雲は多くなく、おかげで夜明け前だというのにある程度の視界は確保されていた。


 その男は確かに敵の存在を認識していた。

 茂みをかき分けて移動する音、樹上から地面に降り立つ音、それらが一定の距離を保って聞こえてくる。


 だが、方角が絞れない。敵は巧妙に移動しながら自らの位置を掴ませない。

 ただ、相手が複数だということだけはわかった。


 敵は自分たちの存在を、わざと男に知らせているようだった。

 そして彼を包囲し、しかも徐々にその包囲の輪を狭めている。


 男は茂みの中に身を伏せ、できるだけ息を殺す。

 軽装の黒い革鎧をまとい、やはり黒色の野戦服を着ている。顔は炭で黒く汚していた。

 帝国軍の兵士、それも特殊作戦に従事する専門部隊のようだった。


「ドッ!」

 鈍い音がして、男のすぐ目と鼻の先の地面に矢が突き刺さる。


「ちくしょう!

 何だって奴ら、こっちの位置がわかるんだ?」

 男は転がってその場から逃れ、身を起こしてしゃがみ込む。


「ザッ!」

 男の後方の茂みから派手な物音が聞こえ、男は反射的に振り返って剣を構えた。

 彼の視界の隅に、一瞬黒い影が映り、男は最初の物音が陽動だったことに気づいた。


 だが、すでに遅かった。

 男の横手から飛び出してきた黒い影が無言で体当たりをしてきて、彼は地面に叩きつけられた。

 影はそのまま茂みの中へ飛び込んで姿を消す。

 男は用心しつつ、再び身を起こした。


 その時、焼け火箸を腹に押し当てられたような激しい痛みを感じた。

 両膝立ちになった男は恐るおそる目を下に向ける。


 彼の腹が脇から臍のあたりまで水平に切り裂かれ、そこから腸がはみ出していた。

 男は呆然としてそれを見つめている。


 夜明け前の冷気にふれ、白い湯気を立ているはらわたが、自分のものだとは到底信じられなかった。

 すぐに彼は我に返り、慌ててはみ出た腸を両手で掴み、腹の中へ戻そうとした。


 腸は血と脂でぬるぬるとして、うまく掴めない。

 どうにか地面まで垂れた腸をすくい上げ、腹に押し込もうとしても、腹圧に妨げられてうまくいかない。


「おい、どうした!

 やられたのか?」

 男の背後から分隊長の声がした。


 男はホッとして、情けない笑みを浮かべる。

「分隊長殿、すみませんが手伝ってください」

 そう言って血にまみれた両手を差し出した。

 そして、再び自分の内臓を元に戻そうという、無駄な努力に専念する。


 男に近寄ってきた分隊長は、その様子に顔をしかめた。

 そして次第に動きが鈍っていく男の背後に回ると、手にしていた長剣を振りかぶる。

 月明りを反射して鈍い光を放つ剣が一閃し、男の首筋に振り下ろされた。


 「ガッ!」という金属音とともに、青い火花が散った。

 何かにぶつかって軌道をわずかに変えた剣は、男の首を打ち落とすことができなかった。

 それでも首の大半は切断され、残った喉のあたりの皮に支えられ、男の頭部が首からぶらぶらと垂れ下がっている。


「チッ、首輪に当たったか……」

 そう言う彼自身も、首に金属製の輪をはめていた。

 分隊長は舌打ちをして刀身を確かめる。やはり小さな刃こぼれができている。


「分隊長!」

 少し遅れて追いついてきた部下が声をかける。

「先行させたアギルはやられました。

 ビルの方は無事でしたか?」

 その答えは、歩み寄ってきた部下の目の前に転がっていた。


「……腹をやられてもう助からなかった」

 それだけ言うと、分隊長は倒れた部下の身体から認識票の鎖を引きちぎり、自身のポケットに入れた。

 カチャリという乾いた金属音がしたのは、ポケットの中に先客がいたことを物語っていた。


      *       *


 緩やかに流れる川の水が、何度も反復して岸に打ち寄せている。

 小さな砂浜に、漁船に偽装した船が何艘も引き上げられていた。


 砂浜に木の盾を並べた即席の防御陣地の中では、指揮官らしき男が簡易椅子に座っている。

 目の前の組み立て式の小さなテーブルには地図が広げられ、その上に置かれた携帯用のランプが小さな灯りをともしている。


 それは地図と呼べるのだろうか。

 確かに全体の地形はかなり詳しく描かれている。


 そこには二つの×印が書き込まれ、一つは彼らの上陸地点を示しているのだろう。

 もう一つは描かれた地形のちょうど真ん中あたりにしるされ、おそらくそこが彼らの目標地点だと思われた。


 だが、その二つの印以外に地図には何も描かれていない。道も、水場も、高低も、何もない。

 これが彼らに与えられた最善の地図だとすれば、この帝国軍人たちの任務がいかに困難なものか、容易に想像できよう。


 指揮官は四十代の半ばくらいだろうか、がっしりとした体躯に口髭を生やした精悍な顔立ちをしている。

 その顔はやはり炭で黒く汚されている。


 その周囲には、やはり顔を黒く塗った兵士たちが十人余り、疲労困憊の様子で座り込んでいる。

 何人かは負傷していて、応急手当された包帯に血がにじんでいた。


 砂浜の陣地から森の茂みまでは十数メートルしか離れていない。

 その茂みからガサガサと音がした。一瞬で陣地の中に緊張が走る。

 盾の隙間から弓を引き絞って敵襲に備える兵士の手が、ふっと緩んだ。

 手を挙げながら茂みから姿を現した二人の兵士は、彼らの仲間だった。

 

 指揮官の元で敬礼しているのは先ほどの分隊長、ケネス曹長だった。

 どんな軍隊においても必要不可欠、現場で最も頼りにされる先任下士官である。

 ケネス曹長は簡潔に状況報告をする。


「中隊長殿にご報告します。

 第二小隊は人員を二分隊にわけ、併進して目標地点に接近しつつ、有効な進撃路を捜索しておりました。

 しかしミランダ小隊長殿が率いる第一分隊がトラップに遭遇、同時に敵の襲撃を受けて玉砕いたしました」


「確認したのか、トラップは何だった?」

「落とし穴であります。

 糞を塗った竹槍でミランダ小隊長ほか一名が即死。

 残る二名は矢で射殺されておりました。


 ――小官は第二分隊を率いて任務を続行いたしましたが、アギル上等兵とビル一等兵が敵の襲撃により死亡、作戦の継続は困難と判断して帰還いたしました」

「ご苦労。下がって傷の手当てを受けろ」


 中隊長は頭を抱えた。


 彼が命じられた作戦は、夜半に船で上陸し、四個小隊三十二人の兵力を投入。敵の本拠である村を夜明け前に襲撃するというものだった。

 寝入っている住民を襲い、抵抗する者は容赦なく殺害すること。捕虜は〝数人いれば十分〟だ。

 要するに抵抗しようが投降しようが、数人を残して虐殺せよという命令である。


 だが、まともな地図もなし、敵の兵力も不明という、本来なら狂気の沙汰というべき状況下での作戦だった。


 ただ、敵とはいっても、相手は民間人のはずである。軍としても特殊襲撃任務の経験者から人員を選別したのだから、それなりに気を遣っている。

 ところが、いざ上陸して森の中に侵入した途端、彼らは敵に包囲され、各個撃破されてしまった。


 極秘任務であり、敵に情報が洩れる可能性は皆無のはずだった。

 それなのに、まるで待ち構えていたかのような迎撃のされかただ。


 結局、投入した四個小隊は、すべて作戦継続を断念して逃げ戻って来ざるを得なかった。

 生き残ったのは十二名。損耗率そんもうりつは実に六二・五%である。

 軍隊では損耗率が五〇%を超えると、その部隊は〝全滅〟と見做される。


「作戦は失敗した」

 中隊長はそう判断を下し、部下に撤退の準備を命じた。


 陸揚げした荷物はそう多くなかったので、半分以下に減った人員でも船への積み込みは問題なかった。

 黙々と撤退作業が続く中、木箱に詰めた物資を係留してある船まで運んでいた兵士が大声をあげた。


 撤退を指揮していた士官が何事かと駆けつけると、船の底がことごとく打ち抜かれ、大穴が開いていることがわかった。


 陣地のすぐ近くに引き上げられていた船に、どうやったら気づかれずにそんなことが可能なのだろうか。

 しかし、それが〝帝国の兵士たちを一人も帰さない〟という、敵の意思表示だということは明らかだった。


 士官は慌てて中隊長のもとへ報告に走る。

 その時、さっと月明かりがかげった。

 兵士たちは雲がかかったのだろうと気にも留めなかったが、何人かはつい空を見上げた。


 月明りを隠したのは雲ではなかった。

 上空に舞い上がった無数の黒い点。

 それはみるみるうちに落下してきた。


「ヒィィィィィーーーーーー!」

 矢羽が風を切る、肝が冷えるような甲高い音が聞こえてくる。


 兵士たちがその正体に気づいた時には、もうどうしようもなかった。

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