第四章 学院の七不思議

学院の七不思議 一 光の球

 プリシラ・ドリーは目を覚ましたことをすぐに後悔した。

 カーテンをひいた窓からは月の光だろう、わずかな明かりが差すばかりで部屋の中は夜のとばりに包まれている。


 眠りにつく前は蛇腹状のラジエーターで心地よく暖められていた部屋の空気が、すっかり冬の冷気に支配されていた。

 聞こえてくるのは、同室の少女のかすかな寝息だけだ。


「やだなぁ、まだ真夜中よね。

 あんまりお紅茶飲まなきゃよかったなー。

 あー、ベッドから出たくないなぁ……」


 彼女は嘆いても仕方がないことをよく理解していた。

 目覚めてしまったら、尿意をがまんして再び眠りにつくことは不可能だ。

 もぞもぞとベッドから這い出ると、枕元のカーディガンを羽織って立ち上がる。


 寒さにたまらずぶるっと身震いをして、自分の両肩を思わず抱きしめる。

 長く真っ直ぐな金髪がさらりと背中で揺れる。

 白い肌と高い鼻、薄いブルーの目。典型的な北方系の顔立ちをしている。

 少し気が強そうだが、美少女と言ってよいだろう。


 同室者を起こさないよう、なるべく音を立てずにドアを開け、そっと閉める。

 寄宿舎の廊下は夜間でも壁に照明のランプが灯っているが、消灯時間が過ぎると三つのうち二つは消されるのでかなり薄暗い。


 もっともトイレまでなら目をつぶってでもいけるので、それで困ることもない。

 寒さに肩をすくめながら、プリシラはパタパタとスリッパの音を立てて歩いていく。


「それにしても、二人部屋はやっぱりいいものだわ」

 彼女は十五歳という、自分の年齢に感謝する。


 王立魔導院の寄宿舎では、一年生から三年生(六~八歳)までは一学年全員が同じ大部屋で過ごす。

 四年から九年生(九~十四歳)になると男女別に部屋が分けられるが、大部屋という点は変わらない。


 そして十年生(十五歳)以上になると、やっと二人部屋(同性同士)になれる。

 二人部屋にはベッドが二つ備えつけられているが、大部屋は二段ベッドでなかなか安眠することができない。


 上段だと、こうして夜中にトイレに起きた場合、梯子はしごを降りるきしみ音や振動で下段の者を起こしてしまわないよう、非常に気を遣う。

 下段は下段で、頭上で寝返りをされるたびに圧迫感を感じ、神経質な者の中には不眠症となるケースもあった。


 二人部屋の別々のベッドならそうした気苦労から解放されるし、同室となったミムラは行儀のよい、おっとりとした娘でなんの問題も起こさない理想的な相棒だった。

 プリシラは二人部屋になって以来、生まれて初めてといってよい安らかな眠りを満喫していた。


 目の前の角を右に曲がると、トイレの前に出る。

 そろそろがまんが限界に近づいてきて、プリシラの歩みが腿をこすり合わせるような内股になってくる。


 彼女は角を曲がろうとして、ふと足を止めた。

 何かおかしい。

 その違和感が何なのか、プリシラはすぐに気づいた。


 トイレ側の廊下が明るすぎるのだ。

 用務員が灯りを間引くのを忘れたのだろうか。

 それとも誰かがいるのか。

 彼女はそっと角から顔を出して廊下の先を覗いてみた。


 トイレ前の壁の灯りは規定どおり、三分の一だけが点されていた。

 だがそれ以外に、明かりがもう一つあった。

 直径が二十センチほどの球形の明かりが、廊下の真ん中――つまり空中に浮かんでいたのだ。


 それがランプや蝋燭の明かりではないことは明らかだった。

 もっと柔らかな優しい明かりで、青とも緑とも黄色ともつかない不思議な色をしていた。


「なんなの、あれ?」

 プリシラは近づいてみようと、廊下の角から身を乗り出した。

 その時、光の球体がふわりと動いた。


 彼女が近づいた分、明かりは後ろの方へ下がったように見えた。

 驚いた彼女は身体を引っ込め、もう一度そろそろと顔をのぞかせた。

 すると、もう光の球は消えていた。

 一、二歩前へ出て、きょろきょろとあたりを見回しても何もなかった。


 さて、どうしたものかとプリシラは考える。

 寝呆けていたのか、錯覚なのかは知らないがとにかく気味が悪い。


 しかしもう尿意はがまんできないレベルに迫っていた。

 とりあえず、トイレを大至急済ませて、もう一度よく調べてみよう。

 彼女はそう結論を出し、トイレの扉に手をかけようとした。


 その瞬間、彼女の耳元に笑い声が聞こえた。

 「うふふふふ」という、小さな小さな笑い声。少女が思い切り耳元に口を近づけて、囁くような笑い声。

 そんな距離感のない笑い声が突然、右の耳元で聞こえたのだ。


 冷水に打たれたようにプリシラの身体が固まった。

 首が動かせないので、目だけをおそるおそる右に動かす。

 視界の隅には、確かに先ほどの光の球が映っていた。


 ふわふわと宙に浮いて、彼女の耳のあたりで漂っている。

 プリシラは意志の力を総動員して、ゆっくりと首を動かした。

 彼女の目の前で光の球がゆらゆらと揺れている。

 顔から数センチしか離れていないのに、まったく熱くない。


 そればかりか、微かに風を感じる。

 球体から目を離すことができないまま、その場に固まっていると光の球の表面に変化が現れた。


 ゴム風船の内側からこぶしを突き出すような感じで、小さな塊りがぐにゃりと浮かび上がってきた。

 その塊りの表面は、最初つるつるしていたが、やがてその中に小さな突起が出てきた。


 それは鼻だった。

 冗談のように小さな鼻、そしてその周囲に目が、口が浮き出てきて、小さな塊りは顔になった。

 突然その目がぱちりと見開かれ、唇が開き、さっきと同じ笑い声をたてた。

 そして、幼い女の子の声で「……ア・ソ・ボ」とささやいた。


 プツリと糸が切れるような感覚があった。

 そして急に身体の自由が戻り、彼女は盛大な悲鳴をあげた。


「ぎゃあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁーーー!」

 内股を熱い液体がだらだらと伝い流れ、パジャマを濡らし、床に水たまりをつくる。

 つかの間の解放感を味わういとまもなく、プリシラは気絶してその場に崩れ落ちた。

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