第一章 鬼の軍勢

鬼の軍勢 一 開拓村

 王国の南東部辺境、広大なタブ大森林に虫喰い跡のように食らいついているのがケド村である。

 開拓村として切り拓かれてから約三十年、それなりに歴史を重ねて貧しさからはやっと抜け出したような村だった。


 村の周囲には、丸太と土壁で造られた四メートルもの高さの堅固な防壁を巡らせており、さらに外縁部の畑や放牧地の周囲にも簡易ではあるが、害獣を防ぐには十分な防柵が延々と続いている。


 門番の村人に軽く手を挙げて挨拶をし、ユニは村に入った。

 濃緑の綿シャツに茶色い半袖の革上着、ゆったりとしたズボンの膝から下にはゲートルが巻きつけられている。

 四角い背嚢はいのうを背負い、右手には長い棒を杖のように持っている。

 腰の左と後ろには、木製の鞘に収めたナタのようなものをぶら下げている。


 明るい栗色の髪をゆるい一本の三つ編みにしており、見たところ二十代半ば前後の若い女性に思えた。

 化粧っ気はないが、もともと色白なのだろう、陽に焼けてはいるものの浅い小麦色の肌で、整った顔立ちをしている。

 質素だが実用的な服装、だが明らかに農民ではなく、狩猟民のようないでたちだった。


「これは召喚士さん、お早いお帰りで……」

 すれ違う村人がひきつったような愛想笑いを浮かべて挨拶をする。

 しかし、彼女の顔や上着が血に汚れているのを見て取ると思わず顔をしかめ、慌てて作り笑いを顔に貼りつけ直す。


 その村人との間に割り込むように、のそりと巨大なオオカミが歩を進める。

 体長は尻尾も含めるとゆうに三メートルを超し、肩は並んで歩くユニの顔のあたりにあった。

 その肩のまわりの筋肉の塊りが、歩くたびにボコボコと上下する。

 オオカミは悠然としたものだったが、村人は後ずさりをして、もごもごと聞き取れない言葉を残して立ち去っていった。


「ライガ、村の人を脅かさない!」

 歩みを止めずにユニはオオカミを睨みつける。

『馬鹿言え、唸り声ひとつ出していないぞ』

 ゆっくりと尻尾を揺らしながら視線だけをユニに向け、ライガと呼ばれたオオカミが応えた。

 とはいえ、オオカミが人間の言葉を発したわけではない。

 彼の言葉はユニの頭の中に直接響き、周囲に聞こえるようなことはなかった。


「まったく、あなたを村に入れる許可をもらうのに苦労したんだから、友好的な態度でいてほしいものだわ」

『そのつもりだがね。

 なんなら〝お手〟だってしてやる覚悟はできてたんだが、村の連中、近寄ってもこないからなぁ。

 おかげで娘っこの小便臭い尻の匂いも嗅げやしないぞ。まったくけしからん』


 ユニは「はぁ~」という深い溜め息をついて頭を振った。

「お願いだから、あたしの評判を落とすような真似だけはやめてちょうだいね」


 無駄口を叩きながら歩いているうちに、村の中心部にあるやくに着いた。

 役屋は村の役所と公民館を兼ねたような、木造萱葺かやぶき屋根のかなり大きな建物である。

 ユニは扉を開けて中に入っていく。

 ライガは入口脇の日陰になった地面に寝そべり、大きなあくびを一つして組んだ前足の上に顎を乗せ、静かに目を閉じた。


 役屋の事務所にはおとなしゅうと呼ばれる村の幹部の一人、イザークという初老の男がいて、机に向かって何かの書類を書いているところだった。

 書類から顔を上げたイザークはユニを認めると、人のいい笑顔を浮かべた。


「やあ、ユニさん、お帰り。首尾はどうだったね?」

「こんにちは、イザークさん。

 首尾はいいとも悪いとも、だわ。肝煎きもいりはいる?」

「奥の応接だよ。

 本を読んでいるか、本を顔に乗せて寝ているかのどっちかだね」

「まぁ、平和でいいわね。

 私は寝ている方に賭けるわ。どう、のる?」

「残念だが賭けは不成立だな。

 どれ、わしが起こしてくるから、あんたは顔を洗っておいで。

 せっかくの美人が血まみれというのはぞっとせんぞ」


 イザークが席を立って応接室に向かうのを後にして、ユニは再び外に出て湧き水を溜めている水桶から水を汲み、顔を洗った。

 腰から下げていたタオルで顔を拭くと、なるほどうっすらと血の色が滲んでいる。


 水にタオルを漬け、固く絞って顔を何度か拭いて血が拭えたことを確認すると、再び役屋内に戻った。

 建物の影で寝そべっているライガは目も開けずにいたが、耳だけはピクリと動いて、ユニの行動を感じ取っているようだった。


 ユニが扉を開けて中に入ると、肝煎のヨゼフもちょうど応接室から出てきたところだった。

 年の頃は七十歳前後か、背は低いが恰幅のよい、いかにも人の上に立つのが似合いそうな男だった。


 肝煎きもいりというのは村長のようなもので、村の代表であると同時に、村の年貢を国に納める責任を負わされた地方役人でもある。

 ヨゼフが自分の事務机の椅子に座ると、ユニは背負っていた背嚢をテーブルの上に下ろし、その中から油紙の包みを取り出す。

 それを持って肝煎の正面に立つと、包みを机の上に置いた。

 ヨゼフは上目遣いにユニを見てから、油紙を解いて中身を確かめる。


 中から出てきたのは、オークの耳だった。ヨゼフの目に歓喜の光が宿る。

「おお、さすがは凄腕と名高い召喚士だ。もう仕留めたのか!」

「いえ、残念ながら。

 それはご依頼のオークではありません」

「……違うオークですと?」

 肝煎の顔に不審と落胆の色が浮かぶ。


「ええ、オークが身につけていたのは革の腰巻だけでした。

 腹を割いてみましたが、胃の中はほとんど空で、数日ろくな食事を摂っていなかったようです。

 おそらく迷い出たばかりのはぐれオークでしょう」

「そうか……。だが、はぐれなら早晩村の家畜を襲うことになっただろう。

 依頼もしないうちに駆除できたのは幸運と言えるか……。

 とはいえユニさん、あんたには悪いが、こいつに報奨金を支払うわけにはいかんぞ」

「それは承知しています。証明書の発行さえいただければ結構です」

「すまんな。

 では、討ち取った場所と時間、状況を教えてくれ」


 ヨゼフは机の引き出しから上質の羊皮紙を取り出すと、ユニの説明を聞きながら慣れた様子でペンを走らせる。

 型どおりの書類を書き上げ、署名をすると、オークの耳を墨の染み込んだ海綿に押しつけ、証明書に〝耳型〟を写した。


 オークの耳の模様は一つとして同じものがないとされており、耳型が押された証明書を大きな村にある役所などに持ち込めば、引き換えに国から報酬が支払われる仕組みとなっていた。


「依頼の件はまた明日から捜索に当たります。

 このはぐれオークのおかげで匂いの痕跡がめちゃくちゃになっていましたから、再スタートですね。

 それで昨日も一通りお聞きしましたが、もう一度確認させてください。

 ご依頼のオークは確かに鎧をつけていたんですね?」


「ああ、村人が何人も、――その中には私の息子もいるが、目撃している。

 鎧といっても胸と胴を覆う程度の簡単なもので、多分革製だろうということだ」

「人の鎧を奪って身につけているのでは?」

「それが不思議なんだが、オークの体に合っていたそうだ。

 人間の鎧では奴らには小さすぎるだろう?

 だがオークが自分たちで鎧を作ったとは思えんし……」


「武器は槍でしたっけ」

「ああ、それも変な話だ。

 オークといえば棍棒が相場だ。金属製の武器を使うオークなんぞ聞いたことがないわい」

「目撃した村の人たちはよく無事でしたね」


「逃げたんじゃよ」

「まぁ、そりゃそうでしょうけど。逃げ切れたのは運がよかったですね」

「違うよ、オークの方が逃げたんじゃ」

「え?」


「人の姿を見た途端、オークの方が一目散に逃げ出したそうなんじゃ」

「どういうことですか……?」

 禿げ上がった頭をバリバリと掻きむしり、「はぁっ」という短い溜め息をついた後、ヨゼフはにやりと笑って話を締めくくった。

「それを調べるのもあんたの仕事だろうよ、なぁ召喚士さん」


 役屋を出るともう日が落ちて薄暗くなっていた。

 寝そべっていたライガがのっそりと身を起こし、ユニの傍らに寄り添う。

『早かったな』

「証明書をもらうだけだったからね。みんなはどうしてる?」

『昨日と同じ林の中で寝るそうだ。母さんヨミが面倒を見ているから問題ないだろう』

「別にあんただって母さん奥さんのとこで寝てもいいのよ」

『そうもいかんさ。お前さんを護るのは俺の役目だ』

 ライガはフンと鼻を鳴らす。


 役屋の裏にある肝煎の屋敷。その片隅にある納屋がユニたちの宿舎だった。

 元はうまやだったようだが、今は農具を格納している倉庫である。

 その片隅を片付け、土間の上にたっぷりの干草を敷いて寝床にしてある。

 見た目は粗末だが、なかなかに快適な宿泊場所だった。


 備え付けのランプに火を灯し、髪を解き、衣服を脱いで楽な部屋着に着替える。

 乾いて清潔な服は気持ちがいい。疲労したユニの心にぽっと明かりが灯るように元気が生まれる。

 ライガの方は干草の上にどっかと寝そべり、体重を利用して具合のいい窪みを作っている。

 満足のいく寝床ができると鼻面を干し草にもぐり込ませ、フンフンと匂いを点検している。


 血で汚れた上着と、汗に濡れた下着を桶に汲んだ水に漬け、サイカチの実の鞘(石鹸のような効果がある)を入れてゴシゴシと揉み洗いをする。

 水を替えてすすぎ、きつく絞って張り渡した紐にかける。


『なぁ、いつも言っていることだが、なにもお前がオークの留めを刺さなくてもよくはないか?』

「そうかもしれないけどね、汚れ仕事を全部あんたたちにやらせるってのは、趣味じゃないのよ。

 まぁ、危なさそうな時には手を出さないから……」

 そう言いかけたところに納屋の外から近づいてくる足音が聞こえ、ライガとユニが同時に顔をあげる。


 木戸をトントンとノックする音がして、エレナが入ってきた。

「ユニさん、夕食をお持ちしました」


 エレナは肝煎の孫娘で、ユニの世話係をしてくれている。

 今年十六歳になるという、快活で愛らしい娘だった。

 初日は巨大なオオカミが恐ろしいらしく、壁にへばりつくようなカニ歩きで食事を置くと一目散に逃げていったのに、三日目ともなると慣れたのか、こわごわとだがライガの側にも近づくようになっていた。


「ああ、ありがとう。なんかすまないね」

 ユニはそう言いながら小さなテーブルに置かれた食事に向かうと、ガツガツと食べ始めた。

 麦と何かの穀類が混じったおかゆとジャガイモのスープ、厚切りのベーコンと卵焼きにたっぷりのキャベツの酢漬け。

 塩気の強いベーコンとトロトロの黄身がからまって、涙が出るほど美味うまかった。

 なんといっても自分で作らなくてもいい食事は美味い。さらに後片付けをしなくていいなら、なおさらというものだ。


 時折咳き込みながら、ものすごい勢いで夕食をかき込むユニを嬉しそうに見ながら、エレナがおずおずと尋ねる。

「あの、オオカミさんのご飯はどうされているのですか?」

 ライガが耳だけをピクッと立てる。


「ゴホッ……、ああ、ライガはもう外で群れのみんなと済ませているから気にしなくていいよ」

「ライガ…さんって、オオカミさんの名前ですか?」

「そうよ」

 エレナがおっかなびっくりでライガに近づく。


「あの……、触っても大丈夫でしょうか。噛みませんか?」

 ユニが答えるよりも先に(というか、口に食べ物を詰め込んでいて喋れなかったのだが)、ライガが体を起こすとエレナの方に頭を向けた。

 目を閉じたままエレナの腰のあたりまで頭を下げ、「さあ、撫でろ」と言わんばかりの態勢で、ばっさばっさと尻尾を振る。


 一瞬腰の引けたエレナだったが、意を決したようにオオカミの頭を撫で、耳の後ろのあたりを掻くと、ライガは満足そうに喉を鳴らし、鼻面をエレナの脇の下に突っ込んだ。

 自然にオオカミの頭を抱きかかえるような格好になったエレナは、すっかり優しげな笑顔になり、ライガの首筋や顎の下を掻いたり撫で回したりした。


「まぁ、本当におとなしいのね……」

「え、ええ。オオカミといっても彼らには知性があるし、人に危害は加えないのよ」

 ユニは無理矢理に笑顔を浮かべているが、唇の端がひくひくと引きつっている。


「えー、そうなんですか。

 じゃあ、あたしの言葉も分かるんですか?」

「うーん、その辺は複雑なんだけど……。

 彼らは人間の言葉を理解できないんだけど、あたしが聞いたり話すことはわかるのよ。

 だからエレナちゃんが今、ここで話していることは私を通して理解しているの。

 でも、もしあたしのいないところでエレナちゃんがライガに話しかけてたとしたら、その時は何も通じないのよ」

「それじゃ、ユニさんはライガさんの言葉がわかるんですか?」

「そうね、言葉っていうより頭の中で考えていることがお互い通じるって感じかしら」


「それって、なんか羨ましいですね。

 召喚士さんって、みんなそうなんですか?」

「うん、召喚の契約を結んだもの同士は完全な意志の疎通ができるの」

「へー、すごいんですねー。

 ……あたしもユニさんみたいになれるのかしら」

「あはは、それは難しいかも。こればっかりは生まれつきだからね」

「ああ、そうですね。鈴が鳴らないとダメなんですよね」


 きれいにたいらげた食器をお盆に乗せて、エレナが納屋を出ていった数秒後、

「……変態! へんたい! ヘンタイ!

 くぉの……ド変態!」

 睨みつけるユニの怒りを無視して、ライガは組んだ前足を入念に舐め回しながら涼しい顔で聞き流している。


『ヘンタイ?

 何を言っている。俺はお前の言う〝友好的な態度〟を精一杯演じていただろうが』

「よく言うわね!

 あんた、エレナの胸とか脇とか、あああああ、あそっ……、とにかく!

 いろいろいろいろ匂い嗅ぎまくってたでしょうが!」

『それがどうした?

 匂いを確かめるのはコミニュケーションの基本だぞ』


「本音は?」

『うむ、若い娘の匂いはいいものだ』

「ゴッ!」

 ユニの拳がライガの鼻面を殴りつけた。

『はっ、鼻はやめろっていつも言ってるだろ!

 ホントに痛いんだからな』


      *       *


 外は小雪が舞っていたが、夜空は晴れわたっていて、青白い月が煌々と輝いていた。

 村の中央に建てられた掘建て式の大きな小屋の中は、囲炉裏にくべられた薪が炭状になって安らぎを感じさせる赤い光を放ち、少し煙いが快適な暖かさに包まれている。


 車座になって座っているのは、若い夫婦が六組。母親たちはいずれも生まれて間もない赤子を抱えている。

 上座には長老らしき年寄りと、村の幹部とおぼしき大人が数人、和やかに談笑している。

 そこへ二重になった分厚いむしろの扉を持ち上げ、外から中年の男が一人入ってきた。


「やあ、遅れてすまん。うちの羊が産気づいての、ちょいと難産だった」

「おお、それは大変だったな、で、無事産まれたのか?」

「おおともよ。三頭だ」

「そりゃあすごい、春から縁起がいいじゃないか」

 男は少し妬ましさも混じった称賛の声を、にこにことした笑顔で受け取り、長老の隣の席に座る。


「皆も揃ったことだし、そろそろ始めようかの」

 長老がしわがれた声を発すると、一同はかしこまって頭を軽く下げた。

「外はまだ凍てついておるが、暦の上では今日から春じゃ。

 この一年、産まれた新しい命に祝福を与え、すこやかに育つよう、これより王の名において法に定められた儀式を執り行う」


 軽い咳払いとともに、お定まりの科白を述べると長老は立ち上がり、赤子を抱いた若い母親の前で膝をついた。

 すやすやと眠る赤子の顔を覗き込み、ゆっくりと右手を額の上にかざす。

 その手には小さな金属の棒が握られている。

 よく磨き込まれた棒には細かな彫刻が施され、その先には、全体に同じく複雑な模様が刻まれた小さな鈴が下げられていた。


 赤子の額の上で鈴はゆらゆらと揺れ、やがて動きを止める。

 子どもを抱いた母親と、その背後に立っていた父親は、ほっとした表情でうやうやしく頭を下げた。

 長老は隣の親子の前に座り直すと、再び赤子の額の上に鈴をかざす。


 同じ動作が続く間、誰も無言ではあったが、その場には暖かな空気が満ちていた。

 毎年執り行われる、この一年に産まれた村の子どもたちをことぐ春の儀式である。

 最後の母子の前に長老が膝を進めると、一座の空気に緩みのようなものが生まれ、身じろぎするきぬれの音が聞こえた。


 儀式が終われば別室で用意されている膳と酒が運び込まれ、若夫婦たちに振る舞われる手はずになっていた。

 たっぷりの肉と乳で煮込まれたシチューとドブロク。

 この貧しい開拓村ではめったに口にできないご馳走である。

 長老は最後の赤子の額に鈴をかざし、少しの時間をおいて、やれやれと立ち上がろうとした。


 その時、風もないのに鈴がゆらゆらと揺れはじめると「リーン」と澄んだ音をたてた。

 一瞬、その場の空気が凍りついた。

 隣の部屋から料理を運び込もうと中の様子を窺っていた中年の女が目を見開き、手にした膳がカタカタと音をたてる。


 その音で正気に返ったのか、長老や幹部たちは顔を見合わせた。

 凍りついたような驚愕の表情は、囲炉裏の暖かな火に溶かされたようにゆっくりと消えていき、代わりに歓喜の表情が浮かんだ。


「おおおおおおお!」

 長老が言葉にならない叫び声を上げると、周囲の幹部たちは抱き合ってお互いの背中をバンバンと叩き、涙をにじませて笑いあった。

「こっ、こんなことが本当にあるのか!」

「俺は生まれて初めて見たぞ!」


 若夫婦たちは顔を見合わせてうろたえていた。

 母親たちはやや複雑な表情を浮かべていたが、夫たちは晴れやかな笑顔で、互いにうなずきあっている。

 ただ、鈴が鳴った赤子の母親だけは、ぶるぶると体を震わせ、子どもを抱きしめながら何も言わず、大粒の涙をぼろぼろとこぼしていた。

 後ろに立っていた夫は、喜んだらいいのか妻を慰めたらよいのか、判断がつきかねる風であった。


 嵐のような興奮が少し収まると、長老は夫の前に立って声をかけた。

「言うまでもないことじゃが、この赤子は神に祝福された子じゃ。

 この村から祝福の子が出るのは大変な名誉だということはわかっておるな?」

「……は、はい、ですが……」

「バート、お前のところはもう男の子が二人と女の子が一人おる。

 跡取りが取られるわけでもあるまいし、国から出る支度金は相当なもんだ。上の二人を学校に行かせることもできるだろう。

 とにかく、この子が無事に育つよう、決して目を離すんじゃないぞ。

 無論、村としても目付の女をつけることになろう。よいな」


 曖昧にうなずく夫を無視して、長老はしゃがみこんで母親の肩に手を置いた。

「ノラよ、そう嘆くでない。

 六歳になるまでは、存分に可愛がってやればよいのだ。

 この子が王都に行けば、お前たちに支度金が下りるだけじゃない、その年の村の年貢も軽減される。

 それがどんなに大きなことか、分かるな」

 ノラと呼ばれた母親は何も答えず、ただ子どもを抱きしめて涙を流すだけであった。


      *       *


『どうした?』

 フンという暖かな鼻息が頬にかかる。

 ユニは我に返った。視界には薄暗い天井と巨大なオオカミの鼻面。目尻が涙で濡れている。


「……なんか夢を見た」

『悪い夢か?』

 ライガが安心したように顔を組んだ前足の上に戻す。

「よくわかんないけど時々見る夢。

 あたしが赤ちゃんの時だから覚えているはずがないんだけど、お母さんが何度も泣きながら話して聞かせたことだから、自分の記憶みたいになってるのかもしれない……」

『母親が恋しいのか?』

「どうだろう。もう顔もよく覚えてないし……」


 いつの間にか両手で自分の肩を抱いていたことに気づいたユニは、両腕をライガの首に回す。

 オオカミの首は抱き抱えることができる太さではない。ユニは腕をゴワゴワとした硬い毛並みの中に潜り込ませる。

 外側の硬い毛と違って、皮膚に近いところは温かで柔らかい毛が密生している。

 気持ちのよい毛布に潜り込んだような気分で頭をライガの首になすりつけると、なんともいえない安堵感に包まれる。


「ごめん、起こしちゃったね。もう少し眠るわ」

『ふん、世話のやける』

「……」

『…どうした?』

「しっぽ、うるさい」


 ばっさばっさと振れていたオオカミの尻尾がピタリと動きを止め、再び闇と静寂が満ちていった。

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