幻獣召喚士

湖南 恵

プロローグ

「はぁっ、はぁっ…」

 吐く息が荒い。時々痰がからみ、ベッと吐き出そうとするのだが、唾液が枯れていて思いどおりにならない。


「なんだって俺がこんな目に…」

 そう自問するのは何度目だろうか。

 ヤブをかきわけ、足を早めようとするが、もつれて転びそうになる回数が増えてきた。それでも闇雲に進む。

 かといって、どこか目的地があって進んでいるわけではなかった。


『何者かに追跡されている』

 そう気づいたのは今朝、ねぐら(といっても、ただの岩の窪みに過ぎなかったが)を出てすぐのことだった。

 それから小走りに駆け続け、気がつけばもう太陽は頭の上にある。


「くそっ、なんてしつこい連中だ…」

 追跡者は複数のようだった。

 姿は見せないが自らの存在を隠すつもりはないらしく、ガサゴソという物音をわざと立てているように思えた。


 彼の全身には、じっとりと脂がにじみ、汗が玉のように浮いている。

 こめかみが石で殴られたようにズキズキと疼き、苦痛と、疲労と、理不尽な追跡に対する怒りが、眉間の深い縦じわに表れている。


 彼は人間が〝オーク〟(鬼という意味だが、角があるわけではない)と呼ぶ亜人種デミヒューマンである。


 オークは身長が二メートル前後で太った逞しい体格をしており、猫背で人に比べるとやや腕が長い。

 鼻がひしゃげていること、下顎の犬歯が伸びて突き出ていること、耳が豚のように垂れていることを除けば、人間とは外見上の大きな差がない。


 極めて低レベルではあるが文明もある。

 人間の敵対種とはいえ、そもそも生活圏が違い数も多くなかったので、これまでに大きな争いは起きていない。

 そんな歴史を持っていた。


「なんだって俺がこんな目に…」

 再び彼は思う。

 「やはり〝穴〟に近づき過ぎたのが悪かったのだろうか」と。

 一昨日、彼は狩りをしていた。一頭のイノシシを追いかけ、追い詰め、もう少しで仕留めるところだった。


 獲物は偶然なのか故意なのか、狭い獣道を〝穴〟の方へと逃げていった。

 まずいとは思ったが、その先が崖になっていてもう逃げ場がなくなることを知っていた彼は、気にせずに追跡を続けていった。

 〝穴〟はその崖よりもずっと先のはずだ。


 オークという種族は狩猟が得意とはいえなかった。

 相手が大物なら仲間と数人で協力するのが普通だったし、その方が楽に仕留められることを知ってはいたが、彼は獲物を独占したかった。


 イノシシの肉は美味い。彼らの大好物だ。

 一人で仕留められたら、三、四日は食い物の心配がいらなくなるはずだった。


 そんな彼の欲望に気づいたかのように、イノシシは突然立ち止まった。

 いや、逃げるその先の地面がなくなったのだ。

 地面の代わりに眼の前には巨大な裂け目が広がり、切り立った断崖となっていた。

 左右には鋭いトゲをもったイバラが防壁のように密生していて、とても突破できそうにない。


 絶望的な状況を理解したイノシシは、文字どおり命がけの反撃を試みるべく、オークの方に向き直った。

 獲物が自分をすり抜けて逃走しないよう、万全の注意を払って彼は身構える。

 右手の棍棒で殴り倒せればそれが一番だが、外したとしても組み止めることができさえすれば問題はない。


「さあ、来い!」

とでもいうように、彼が両腕を広げた瞬間、怒りに燃えたイノシシは突進してきた。

 予想どおりの獲物の行動にほくそ笑みながら、彼は棍棒を渾身の力で降りおろす。


「ゴッ!」

 脳天を狙った棍棒はわずかにそれ、イノシシの肩のあたりを殴りつけ、勢い余って地面を激しく叩きつけた。

 だが、獲物の肩を砕いた確かな感触はあった。


 イノシシは短い悲鳴をあげ、どっと倒れ伏した。

 口からは荒い息とともに血の混じった泡を吹いている。

 それでも牙をガチガチと鳴らし、敵が近づいたなら噛みつこうという闘志を目に宿していた。


 もう一撃、今度こそ頭蓋を叩き割ってやろうと、彼が再び棍棒を振り上げた瞬間、突然それは起こった。

 足元がすくわれ、ふわりと体が浮いたような感覚があった。

 陰嚢いんのうが冷水を浴びせられたようにきゅっと縮み上がる。

 一瞬の無重力状態のあと、彼とイノシシ、そして彼らの足元の地面だった岩と土砂が一緒くたになって崩れ落ちていった。


 彼が目覚めたとき、そこは見知らぬ森の中だった。

 落ちたはずの崖もなければ、土砂も棍棒もなかった。

 もちろんイノシシの姿も消えていた。


 起き上がった彼は、自分が無事であることに気がつき、驚いた。

 相当の高さから落ちたはずなのに、全身にズキズキとした痛みはあるが、骨折やねんをしている様子はないようだ。

 軽い混乱からどうにか立ち直り、彼はとりあえず周囲を探索することにした。

 その結果わかったことは、ここは故郷の森ではないこと、ただそれだけだった。


 もう日が落ちかかっていたので、その日は近くで見つけた岩の窪みをねぐらと定め、彼は泥のように眠った。

 そして昨日、オークは日の出とともにねぐらを出て、一日をついやして周囲の様子を探り、水と食料を探し回った。

 見知らぬ森で迷わないよう、ねぐらをベースとして方向を決め、一定の距離を行っては戻るの繰り返しという、効率の悪いやり方だったが仕方がなかった。


 時々小動物の気配を感じたが、姿を見ることはできなかった。

 美味くはないが、毒でもなさそうな木の実を見つけて貪り食ったが、とても腹の足しにはならなかった。

 いくつか水たまりも見つけた。濁ってボウフラが湧いていたが、喉の渇きには逆らえず、すすって呑んだ。

 水浴びもしたかったが、それほどの大きさの水たまりではなかった。


 意外なようだがオークは水浴びを好む。

 別にきれい好きということではなく、彼らは種族の特徴として体臭が強い。

 狩りで走り回れば大量の汗をかき、その悪臭はたちまち周囲に拡散する。


 嗅覚にすぐれる獲物にこっそり近づくなど至難の業で、〝オークは狩りが下手へた〟という世評もこれに由来する。

 そこで少しでも体臭を薄めるために水浴びは必要不可欠であり、彼らの習性となっていた。


 日も落ちて、すっかり暗くなったころ、大した成果をあげられず空腹を抱えたまま彼はねぐらに帰った。

 そしてまた夜が明け、再びねぐらを出て森の中を歩きながら、今日はウサギ罠を作って仕掛けてみよう、などと考えていた矢先に追跡者の気配を感じたのだ。


 明らかに自分をつけている大型の獣の気配だった。それも複数。

 彼は走った。

 オークの足はあまり速くないが持久力に優れている。小走りでなら一時間や二時間、走り通すことができる。

 捲くことはできなくても、ずっと走り続けていれば、敵も疲れて諦めるだろう。


 ところが、もうかれこれ三時間は走っているのに一向に追跡者は諦めてくれなかった。

 それどころか、彼をからかうかのように、わざと大きな音を立てたり、「ハァハァ」という吐息が聞こえるほど接近したりした(そのくせ姿は見えないのだ)。


 先に諦めたのは彼の方だった。空腹で体力が落ちているのに、とてもこれ以上は走り続けることができなかった。


 それでも早足になって、できる限り敵の追跡を逃れようとしたが、もうどうしたらよいのか、どこに向かったらよいのか見当もつかず、ただただ恐怖と疲労と怒りだけが溜まっていくのだった。


 太陽が頭上に昇り、疲労の蓄積が限界に近づいてきたころ、彼はあることに気づいた。時おり吹く風に水の匂いが混じるようになったのだ。

 水といっても沼のよどんだような匂いではなく、もっと清冽な匂い――。

「川だ!」

 間違いない、近くに川がある。


 敵が泳げなければ、川を渡って追跡を振り切れるかもしれない。

 少なくとも追跡者の姿は確認できるはずだ。

 それに水を浴びることで、少しは体臭を洗い流して追跡を難しくさせるかもしれない。

 大きな川だったら流れに乗って泳ぎ、一気に下流まで逃走するという選択肢すらある。


 突然現れた希望の光に、彼の足は早まった。

 やがて匂いだけではなく、流れの音がはっきり聞こえるようになった。


「もう少しだぞ、ハハハ。

 ……畜生!」

 醜い顔に浮かんだ笑みが、突然凍りついた。

 彼の行く手には確かに川があった。ただし、深い渓谷の底に。


 自分が一昨日のイノシシと同じ境遇に陥ったと知った彼は、慌てて振り返った。

 と同時に左右から巨大な影が襲いかかってきた。

 一頭は彼の右手首に噛みつき、恐ろしい力で引きずり倒そうとした。

 もう一頭は飛びかかった勢いで体当たりをしたあと、背後に回り左足に噛みついた。


「オオカミ……だと?」

 だが、襲ってきた獣は彼の知るオオカミよりもはるかに大柄で、体長は彼と同じか、下手をするとそれ以上と思われた。

 慌てた彼は、右手に噛みついているオオカミを殴りつけようと自由になる左腕を振り上げた。


「!」

 今度は正面から飛び出してきた、やや小柄な(それでも二メートルに近い体長だったが)二頭が左腕と右足に噛みついてきた。

 狼の牙は彼の分厚い皮膚をやすやすと噛み破り、ピンク色の肉がむき出しとなり、溢れ出る血がオオカミの毛皮を紅く染める。


 振り払おうとするたびに激痛が走り「ゴリッ」という気味の悪い音を立てる。牙が骨に達しているのだろう。

 それでも彼が立っていられたのは奇跡としかいえなかったが、長い両腕を左右に広げた格好で狼をぶら下げた姿は、はりつけにでもあっているようで滑稽ですらあった。


「倒れたら食い殺される!」

 混濁した頭では、もうそれしか考えられなかった。

 立っていればどうにかなるわけでもなく、半ば意地のようなものだったが、それも束の間だった。


「ドンッ!」

 背中に激しい衝撃を感じ、彼は顔から地面に叩きつけられた。

 これまでの四頭とは比べものにならない巨大なオオカミがのしかかり、太い前足で彼の頭を押さえつけていた。

 顔を横にしたまま地面に押さえつけられ、身動きのとれない彼の視界に、オオカミではない何者かの姿が映った。


 ゆったりとした幅広のズボンを膝下あたりから足首まで布で巻き、革のごついブーツを履いている。

 オークは目だけを動かしてなんとか新たな敵を確認しようとしたが、彼を見下ろす相手の顔は逆光で暗く、よくわからなかった。


 だが、目の前の相手が小柄な人間であることだけは理解できた。

 やがてその人間は片膝をつき、左手で彼の喉を抑えた。

 小柄な割には結構な力があり、声が出せなくなった。


 そして人間は右手を腰の後ろに回して刃物を抜いた。

 ナイフと呼ぶには大きすぎる、包丁ともナタともつかない片刃の刃物は鈍い光を放ち、よく研がれていることが窺えた。


 人間はその刃物を彼の首筋にあてがい、なんのためらいも見せずに頸動脈を引き切った。

 切られた瞬間、不思議だが彼は痛みを感じなかった。

 ただ耳の付け根あたりが熱くなって、急にドクドクとした脈動を感じた。

 噴き出した鮮血が目に入り、視界が真っ赤になった。

 人間は彼の顔を覗き込むようにして、何かを確かめているようだった。


「女…?」

 人間の年齢はよくわからないが、どうやら若い女のようだった。

 なんの感情も浮かべずに、彼の顔を覗き込んでいる人間の女。

 それが彼の見た最後の光景だった。



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※ 作品世界の地図については外部にアップしていますので参考にしてください。


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