感謝は突然に
この日も学校が終わり、俺は帰宅していた。
昨日に引き続き、落ち着くことは出来なかった。
というよりも昨日よりも明らかに落ち着いていなかった。
仕方のないことだろう。
毎度毎度思うが、慣れた道なのにいまだに慣れていない。
ガスマスクをつけて歩くなんてことはもう無くなるのだろうから、今さら慣れてもしょうがないのだろうけども。
でもまた普通に戻るんだなと思うと、少しホッとする。
これだけ不便な生活をし続けるのは、もうこりごりだしね。
ただ憎い妹のか弱い姿を見られるのは、もしかしたらもう少しかも。
そう思うとちょっぴり残念にも感じる。
でもこういうことは、深く考えてもしょうがない。
こういうのはなるようになるしかないのだから。
「ただいま」
俺はいつものようにばあちゃんに挨拶をする。
「おかえり~」
ばあちゃんのいつもの声で迎えてくれる。
ばあちゃんは夕飯の支度をしているようで、テンポの良い包丁の音が聞こえてくる。
トン、トン、トン、トン。
ザクッ、ザクッ、ザクッ、ザクッ、ザクッ、ザクッ。
そういえば今まで、こういう音もよく聞いていたな。
ガスマスクを着けてることで、耳が聞こえづらくもなっていたのかな。
もしかしたら今まで、聞こえていなかった音や声もあったのかもしれない。
それも聞こえるようになると、嬉しいような嬉しくないような。
またガスマスクを着けていることで、視界が狭くなっていた。
もしかしたら今まで、見えていなかった物が見えるようにもなるかもしれない。
それも見えるようになると、嬉しいような嬉しくないような。
そしてガスマスクを着けていることで、髪がボサボサにもなっていた。
もしかしたら今まで、手入れをあまり出来なかったので、めちゃくちゃになっているかもしれない。
それが手入れ出来るようになるのは、とても嬉しい。
それに不便なこともだいぶ減る。
やっぱり嬉しい。早く取っ払いたいものである。
これが取れたら、あんなことしたり、こんなことしたり――。
「ほら。そんなとこで突っ立ってないで、早く入って来なさい」
考え事をしていたら、時間が経っているのを忘れていた。
さっきから玄関前に立っているわけだから、ばあちゃんからすれば邪魔である。
俺は急いで中に入り、自分の部屋へと向かった。
今日は別にすることが何もなかった。
そのせいですぐに夜更けを迎えることとなった。
正しくは、何もする気が起きなかったんだけど。
そりゃそうだ。
明日が待ち遠しくて仕方がないのだから。
ニュースが本当であれば、明日にはレスウイルスは消える。
そしたら出来るようになることがたくさんある。
それらをやりたくて仕方がないのだ。
そうだ。今日は充電の日って事にしておこう。
そうすれば明日が楽しいかもしれない。
ということでこういうときは寝るに限る。
この一週間、暇なときは寝てばっかりな気もするけど、気にしない、気にしない。
明日を早く、そしてより気持ち良く迎えるために、必要なプロセスなんだ、これは。
ということでまたまた眠りまぁす。
出来れば邪魔しないでねー。
おやすみなさーい。
コン、コン。
「んあ?」
寝に入ろうとしたら、ドアをノックされてしまった。
なんだよ、こんな時間に。
「へぇ。ひょっふぉひいふぁふぁ? (ねぇ。ちょっといいかな?)」
なんだ。誰かと思ったら摩夕か。
出てあげないのはかわいそうなので、ゆっくりと体を起こして、ドアを開けた。
「はい。どうした?」
開けると、摩夕が少しドアから離れたところで立っていた。
表情を見る限り、ちょっと気分が悪そうにも見える。
「どうした? 具合でも悪いのか?」
当然心配になる。
ヒロちゃんのことがあったばかりだし、もう間もなく終息するといっても、最後の最後でというのはやっぱり嫌である。
「ふううん。ふぁいほうふ(ううん。大丈夫)」
摩夕は首を横に振って否定する。ならいいのだけど。
「それなら今日はどうしたんだ? もう遅いから大した用じゃないなら、明日にした方がいいんじゃないか」
ごもっともなことを言っているが、俺の本心は早く眠りたい。
「ひょ、ひょっふぉふぁっへひょ! (ちょ、ちょっと待ってよ!)」
大きな声で俺を止める摩夕。
久しぶりに聞くような大きさの声だったので、俺も少し驚いた。
「ひょうひゃはいふぉ、ふぁふぇはほ! ひょうひゃはいふぉ、ふぁふぇはほ! (??)」
必死で俺に何かを伝えようとしている摩夕。
どうやら相当伝えたいことがあったようだ。
それを見ると、自分勝手に寝ようとしてしまった自分が恥ずかしく感じる。
「ご、ごめんよ」
「きふぉふへへひょへ(気をつけてよね)」
摩夕はまた頬を膨らませていた。
こうした表情を見せるのは、本当に懐かしいなとつくづく思う。
そしてやっぱりかわいいなぁ。
「へぇ。へぇっふぇふぁ(ねぇ。ねぇってば)」
「あっ。は、はい」
あまりにも懐かしい気持ちに浸っていたら、また我を忘れていた。
「え、えっと……、そ、そんなとこ立っててもしょうがないから、中に入れよ」
俺は軽いノリで摩夕を迎え入れようとした。
すると摩夕は下を向いてしまう。そこまでは嫌なのかなぁ?
ただ俺にはその姿が、何か具合が悪いという風には見えなかった。
「大丈夫だよ。さっきは悪かったって。別に中に入れること自体は問題じゃないし、ウイルスももう消えるんだから、気にすることもないと思うよ」
「ふが? (そう?)」
「そうだよ。だから入って来な」
「ふん。ふぁがっふぁほぉ(うん。わかったよ)」
こうして俺は摩夕を中に入れてあげた。
静かな夜だ。
何も音がしないと余計にそう感じるほど、静かな夜だ。
俺は摩夕を中に入れたものの、別に会話するわけでもなく、時間が過ぎていた。
この状況については、別に何かするわけでもゆっくりと過ごしていたので、不便はしていない。
ただ少しだけ摩夕が心配にもなる。
どうして俺のところに急に来たのだろうか?
その摩夕は俺があげた毛布を膝掛けとして使っていた。
そしてそのまま何かするわけでもなく、窓から見える夜空を見ていた。
目的があって来たのだろうが、これだけ話さないということは少なくとも緊急性はなさそうである。
良かった。摩夕がまた何かを失ってしまったり、ばあちゃんが倒れてしまったということになれば、本当に大変だからな。
「へぇ(ねぇ)」
いきなり声をかけられた。
「どうした?」
「ふぁいふぇんはっふぁへ(大変だったね)」
「えーっと……、大変だったって言いたいの?」
「ふん(うん)」
「まぁ、そうだね。でもまよの方が歯を失ったわけだから、もっと大変だったと思うし、力も入らないし、食べられないし、うまく話せないしで不便だったと思うから、それと比べれば大変なんて言ってられないよ」
「ふぇふぉ、ふぁはひはふぇいはふほはへふひぃふぁひょ(??)」
「うーん……。納得してないこともあるかもしれないけど、それはしょうがないんじゃない。俺は特別気にはしてなかったよ」
「ほんふぉ? (本当?)」
「うん」
もちろん本音は強がっている。
兄としての意地だ。
「だけど、俺はこの一週間でお前が妹で良かったって改めて思ったよ」
「ふがあ?」
「だってこれだけ俺に優しくしてくれたからね。そりゃ歯が抜けたからかもしれないけど、やっぱり頼ってくれたのは嬉しかったよ」
摩夕は真っすぐな眼差しを向けている。
そう。こういう何気ない反応もとても嬉しいのだ。
「俺はまだまだ頼りない兄ちゃんだけど、何とか摩夕の力になりたい。その気持ちは今も昔も変わらないよ」
「……」
「これからも兄として頑張るから。今まで頑張ってなかったと思うから、より頑張るから。だから摩夕も少しは俺を頼って欲しいな、なんて」
「へんふぁほぉー(変なのー)」
「えっ?」
「へんふぁほぉー(変なのー)」
摩夕に少しからかわれてしまった。
「な、なんだよ。せっかく頑張って気持ちを伝えたのに……」
でも自分でもかっこつけたいのか、恥ずかしいのでつけたくないのか、よくわからない発言だったと思ってはいた。
「へんふぁほぉー。ふふふ(変なのー。ふふふ)」
でもこうやって笑ってる姿を、最近は見ることがなかったので、その表情だけですごく嬉しくなる。
今であればはっきりと言える。
摩夕が妹で本当に良かったと。
「ありがとな。今までいろいろと」
「ふふふ(ふふふ)」
摩夕はまだ笑っていた。
そんなにさっきの言葉が面白かったのか。
「ふぁひはふぉう(??)」
すると突然摩夕が笑うのをやめてしゃべった。
今、なんて言ったんだろう?
俺が気にしていると、今度はお尻のポケットの方に手を伸ばしている。
どうしたんだろうと思って見ていると、中から何かを取り出した。
「ふぁい。ふふぇへんふぉ(はい。プレゼント)」
摩夕は俺に何かプレゼントしようとしていることはわかった。
それは彼女の表情を見れば確実だった。
中から取り出したのは、手作りのミトンの手袋だった。
簡単に作ったものではあるが、一生懸命作ったというのは一目でわかった。
元々摩夕も女子なので、編み物はまずまず得意ではあったし、ばあちゃんがよく編み物をするので、作ることは出来るとは思う。
ただ力が入らない状況だったので、編み目を均等にすることには苦労した印象を受ける。
また道具をたくさん使うので、口にくわえるような動作も必要になった場合、歯がない状態ではうまくくわえられないだろう。
そうなるといろいろと整理をするのも大変だったはずだ。
そうした苦労をしてまで、俺にプレゼントしようとしてくれるなんて……。
俺は少しだけウルッときてしまった。
「あ、ありがとう」
ぶっちゃけ面と向かって言うのが恥ずかしくて、視線を外したまま感謝を言うしかなかった。
「ひふぁ、ふへへひぃへひょ(??)」
そんなことを思ってると、摩夕がまた何か言ってきた。
言い方から想像するに、何かを頼んだようだけど。
「ひふぁ、ふへへひぃへひょ(今、つけてみてよ)」
摩夕は突然俺の手を握って、促してきた。
いや、待って!
そんな握られ方したら、さすがに意識しちゃうって……。
「わ、わーった、わーった! 今つけるから、手を離してくれ」
半ば強引に摩夕には手を離してもらった。
とりあえずこれで少しはドキドキを抑えられそうである。
それにしても摩夕も、変なことを覚えたもんだ。
俺は手袋をつけてみる。
その様子を摩夕はワクワクしながら見ている。
お願いだから似合わなくても、がっかりはするなよ。
「どう? 似合ってる?」
「ふん。ふぁふぁひぃい(うん。かわいい)」
似合ってるのは嬉しいが、あんまりかわいいとか言わないで欲しい。
「着け心地はすごくいいよ。もうすぐ寒くなる時期だし、これから使わせてもらうね」
「ふん。ふぁひはほう(うん。ありがとう)」
摩夕はニッコリしてくれている。
もちろん恥ずかしいとか余計な気持ちもあるけど、とにかく良かった。
「じゃ、そろそろ寝るか。もう遅いしな」
「ふん(うん)」
「今日はその毛布持って行っていいからさ」
「ふぁひぃふぁほう(ありがとう)」
摩夕は俺の毛布を頭からかぶり、そっとドアの前まで歩いて行った。
俺はいろいろと付き合ってもらったので、ドアの近くまで来て見送ることにした。
「じゃ、おやすみな」
「ひょっふぉ(ちょっと)」
俺が返そうとすると、摩夕は俺を呼び止めた。
「何?」
すると再び俺の手を握ってきた。
いや、手袋してたけど、ドキドキするんだってば!
「ほんふぉおひ、ふぁひはほう。ほひいひゃん(??)」
そう言うと摩夕は笑顔で手を振って、ドアを閉めるのだった。
あぁビックリした。
あいつもいろんなことを覚えたもんだな。
それにしても、最後にわざわざ手を持って、何を言ってたんだろう?
「ほんふぉおひ、ふぁひはほう。ほひいひゃん」
あの表情からすると、感謝を述べたかったのかな。
だとすると、最初の「ほんふぉおひ」は……、「本当に」だろう。
そして、「ふぁひはほう」は……、「ありがとう」だろうな。
じゃあ最後の「ふぉひぃいひゃん」は……?
ふぉひぃいひゃん……?
うーん……、今、気にしても答えは出ないか。
とりあえずもう寝よう。
希望ある明日を気持ち良く迎えるために。
俺はそう思って、布団の中に入った。
摩夕がくれた手袋を外すのを忘れたまま。
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