想起される幼少期
俺が摩夕の部屋に入って、十分ほどが経過した。
現時点で入ってからの会話というのは、まったくない。
こういう時というのは、なかなか話す内容が浮かんでこない。
もう少し兄として、いろいろと機転を利かせられれば良かったのだが――。
ただ摩夕が少しでも元気になってくれればとは思っていたので、それだけを理由としてここに居座っていた。
幸い、ばあちゃんから呼ばれることもなかったので、ここから離れずに済んでいた。
でもそろそろ声をかけた方がいいのかなぁ?
あまりにも時間が経ってしまうと、摩夕もそのうちうざいって思うかもしれないし。
「なぁ、まよ」
こんなことを思った結果、俺は摩夕に声をかけるのだった。
「ふぁひぃ? (なに?)」
摩夕は弱々しい声で返事をする。
まだ落ち込んでいるというのがよくわかる。
「さっきから下を向いてばかりいるけど、大丈夫か?」
俺は気遣いなく、率直に聞いてしまった。
気にはなっていたが、あんまり触れない方が良かったかも。
「……」
やっぱり返事は出来なさそうだ。
これでまた重苦しい空気が流れてしまった。
またしばらく時間が経った。物音一つしない静かな空間だ。
そういえば下から音とか声が聞こえてこないけど、ばあちゃんは大丈夫なのだろうか?
また苦しがってたら大変だ。
というか、もし声をあげられないほどだったとしたら――。
「なぁ、まよ。ちょっとだけ下に下りて行ってもいいか?」
「ふぇ?」
「いや。ばあちゃんが苦しんでたら大変だからさ」
「ふぅ……」
摩夕は唸るような声を発した。
もしかして嫌なのか?
「大丈夫だよ。一回見に行くだけだし。大丈夫だったらすぐに戻ってくるからさ。だから安心して」
「……ふん(……うん)」
すごく不安はありそうだが、摩夕は首を縦に振ってくれた。
俺としてはもちろん摩夕も心配だ。
しかしばあちゃんのことも心配だ。
両方のフォローをしてあげないといけないのは、自分の立場としては当然である。
俺はゆっくりと一階に下り、ばあちゃんの様子を見に行った。
「ばあちゃん?」
「何だい?」
すぐに返事が返ってきた。
いつものゆっくりとした安心できる返事だ。
ばあちゃんはキッチンで、何やら作っている。
パワフルだ。すごく元気そうだ。
「ばあちゃん。大丈夫なの?」
「大丈夫だよ。少しゆっくりしたし、ヨーグルトも食べたからね。これでちゃんと動けるようになったと思うよぉ」
「そうなんだ。良かった」
俺はばあちゃんの回復ぶりに絶句していた。
あれだけ苦しんでいたのが嘘だったのではないかと思うほど、元気に動いている。
田舎の人というのは、すごいなぁ。
「それより、まよちゃんは大丈夫なのかい?」
「あっ、えっと……」
正直少し忘れていた。
「だ、大丈夫だよ。少し元気をなくしてるけど、普通に話せてるしね」
「普通にって、歯が治ったのかい?」
「えっ?」
いや、違うよ。そこまでじゃないよ。
たまにばあちゃんは、こういうことを口にするときがある。
俺の言い方が悪かったとも思うが、いろいろと察して欲しい。
「違うよ。まだ歯は戻ってない。戻ってないけど、元気になってるって意味」
「そうかい。それは良かったよぉ」
「と、とりあえず俺は戻るよ。まよがまた戻って来てって、さっき言ってたしね」
「そうなんだねぇ。行ってあげなぁ」
「はいよー」
こうして俺は再び二階に上がった。
元気になってくれて良かったと思う反面、少しドキドキしてもいた。
二階に戻り、再び摩夕の部屋の前に着いた。
「まよー、戻ったぞ……」
いつものテンションで中に入ろうとした時だった。
スー、スー、スー。
中から何かが聞こえる。
そしてこの音の正体をすぐに理解することが出来た。
これは泣いている。間違いなく摩夕が中で泣いている。それで鼻をすすっている。
俺はそれを察した時、手をドアノブに掴んだ状態で、下に下げていた。
入るべきか? それとも遠慮するべきか?
しかしその状態で固まってしまっていれば、中にいる摩夕には当然誰かが入ってこようとしていることがわかってしまう。
「……ひぃいひょ(……いいよ)」
しまった。完全に申し訳ないことをしまった。
でももう戻ることは出来ない。
そう判断した俺は、先ほどよりもゆっくりとドアを開けた。
先ほどの場所から摩夕は動いていなかった。おそらく一切。
しかし顔を下に向けて、体を震わせていた。
「まよ……」
この後、俺はなんて声をかけていいのかわからず、その場で立ち尽くすしかなかった。
情けないし、申し訳ない。
おそらく今の摩夕から見えるであろう俺の姿は、ただただ棒立ちをしている気弱な男性にしか見えないだろう。
でもそんなことを思ってる場合ではない。このまま放ってはおけない。
いくら憎いといったって、苦しんでいる人を見逃すことは出来ない。
ましてそれが自分の家族ならなおさらだ。
正直、過剰に言えば過保護かもしれない。親バカならぬ、兄バカかもしれない。
でも、何かしらの責任を感じて泣いているであろう妹を、このまま放っておくことなど絶対に出来ない。
だから……。
トッ、トッ、トッ、トッ。
「大丈夫だよ、まよ」
スー、スー、スー。
摩夕はまだすすり泣いている。
「大丈夫だよ。大丈夫。ばあちゃんはもう治ったからさ」
正しいかはわからないが、今のところの状況を素直に教える。
スー、スー、スー。
それでも摩夕は泣きやまない。
「まよ。どうして泣いてるの?」
無理なお願いかもしれないが、聞いてみる。
スー、スー、スー。
それでも泣き続けている。
さすがに俺も困り始めていた。
これではらちが明かない。
一体どうすれば……。
そう思った俺は、いろいろと泣いている理由を予想してみる。
候補はいっぱい出てきた。
人間の想像する力は、とても柔軟だと思う反面、それが影響して判断能力を狂わすものだ。
それをはっきりさせるためには、とにかく聞き続けるしかない。
はっきりいって、まったく名案でないことはわかっている。
それでも解決につながるのであればと思い、当てずっぽうでも聞いてみることにしよう。
「俺が来てくれなかったことに怒ってるの?」
スー、スー、スー。
「ばあちゃんのことを救えなかったことが、悔しいの?」
スー、スー、スー。
「ふん(うん)」
摩夕が返事をした。
一番ベタな理由だった。
「そんなこと言ったって、まよは上手く話せる状態じゃないんだから。気にすることはないよ」
「ふぅ……(うぅ……)」
摩夕はまだ下を向いている。
そこまで責任を感じることないのに。
「それに本当は俺が一番に行かなきゃいけなかったのに、俺は気付かずに寝てたんだから。本当に兄として情けないよ」
そう。一番情けないのは俺なんだから。
疲れていたとはいえ、もっと周りの事に気を配らなければならなかったのに、それをしなかった。
ひょっとしたら、俺がもう少し敏感に反応していれば、ばあちゃんは苦しむところまで行かなかったかもしれない。
今回は大問題にはならなかったが、これが生死を左右するようなことだったらと思うと本当にゾッとする。
「まよは責任を感じなくていいんだよ。俺がすべて悪いんだから」
なんか俺が泣きそうになってきた。
誰も救えていないことが、余計に情けなく感じる。
「ばあちゃんに顔を見せてやりな。多分まよの顔を見ると、安心するからさ」
「ひふぁは、ひひゃが(??)」
「うん?」
「ひふぁは、ひふぇひゃふがひ(今は、見せたくない)」
摩夕は首を横に振っている。
「今は見せたくないの?」
「ふん(うん)」
「そうか……」
やっぱり力になれなかったから、顔向けは出来ないと思っているようだ。
「なぁ、まよ。俺はお前に兄らしいことしたか?」
急に浮かんできたことだ。
「……」
「もし、何もしてなかったとしたら、俺は最低の兄だよ。まったく責任を果たせてないんだからさ」
「ふがぁ……」
「今回だってお前が叫ばなかったら、ばあちゃんが苦しがってたことさえ気付けなかった。本当は俺がしっかり監視してないといけなかったのに、情けないよ」
「……」
「それに、俺はいざとなった時にまよに助けられもした。妹のお前に迷惑をかけ過ぎてるよな」
「ふぉんがごぉふぉふぁいほぉ(そんなことないよ)」
摩夕が少し顔を上げて、首を横に振った。
「ほうふぁっふぇふぁひゃふひふぇふへへ。ほへふぇふふひぃはふぅふぇふぇふへは。ふぁふぁひふぁ、ふぉへふぉふふぇひふぁっはひょ(??)」
何を言ってるのかはわからなかったが、否定をしているということは理解が出来た。
そのために何かを伝えようとしてくれている。
一生懸命何とか伝えたいという気持ちで。
だからこそ理解してやれないのが、より悔しい。
「ごめんな。本当にごめんな」
俺がやれることと言ったら、これだけである。
「なぁ、まよ。覚えてるか?」
「ふぁひぃが? (何が?)」
「ばあちゃんに引き取られた時だよ」
唐突に思い出した。
「あの時お前はものすごく喜んでたけど、親父が最初に猛反対してたから、少し怖がってたよな」
「ふん(うん)」
そう。俺たちは決して簡単に今の環境になったわけではない。
親父の反対が元々は強く、俺たちのことをなかなか引き渡す気がなかったのだ。
「でもばあちゃんが頑張ってくれて、それで二人で応えようって相談してさ、親父に懸命に立ち向かったよな」
「……ふん(……うん)」
「本当にあの時は怖かったと思うのに、力を貸してくれてありがとな」
「ふぅうん(ううん)」
摩夕が首を横に振る。
「ふぁふぁひほほぉうほふぉ……、ふぁひはほぉう(??)」
摩夕が感謝を述べた。言い方と真剣な目からそう推測した。
その言葉は、全部はわからない。
ただ最後の言葉はおそらく「ありがとう」だろう。
俺はこれほどまでに感謝されている身だとは、本当に知らなかった。
こうなった時に限ってようやく気付く。
今まで俺は摩夕のことを邪魔者扱いしていたけど、本当は――。
「ありがとう。気持ちは伝わったよ」
摩夕は少しだけ笑った。
ただ悔しそうな顔にも見えた。
それもこれもすべてデントレス病のせいである。
「またさ、治ってからさっきなんて言ってたか教えてよ。それまでさっきの言葉がなんだったかっていうのは予想してみるからさ」
「ふん、ふん(うん、うん)」
「伝わらないのが悔しいのはわかるけど、これは運命のいたずらなんだから。そう思って次回までのお楽しみってことにしておくよ」
「ふん(うん)」
切り返しが良かったのか、摩夕が少し元気になった。
少し緊張を緩和するような感じに聞こえたのかもしれない。
「とにかく今日のことは気にするな。現にばあちゃんもお前のこと心配してたしな」
「ふぉうはほぉ? (そうなの?)」
「そうだよ。もう元気になってるんだから驚くよー。田舎の人ってのは本当に元気だって改めて思ったしね」
「ふぇー(へぇー)」
「とにかく早く顔を見せてやりな。まよの笑顔を見たら、ばあちゃんもっと喜ぶと思うからさ」
「ふん。ふぁはっひゃ(うん。わかった)」
少しずつ摩夕に笑顔が戻ってきた。
本当にホッとする。
とりあえずこの感じを見る限り、俺の役割は終わったと言えるだろう。
「じゃあ、もういいな。ばあちゃんのことも心配だから、俺はそろそろ戻るぜ」
俺は一階に戻ろうとした。
「ひょっほぉ(ちょっと)」
と思ったが、摩夕に呼び止められた。俺は顔だけ振り返った。
「なに?」
「がーほーぐぉー(過ー保ー護)」
摩夕はそう言って、いたずらっぽく笑った。
なんだよ。せっかく励ましてあげたのに、茶化されちゃうのかよ。
元気になったと思ったら、もうこれだよ。
俺はそう思って苦笑する。
まぁでも我が妹らしいな。
素直に感謝を述べずに、嬉しさを隠すようなその様子。
いつも通りの感じに、また安心する。
「がーほーぐぉー(過ー保ー護)」
いや、わかったよ。何度も言わなくても、理解してるよ。
「がーーほーーぐぉーー(過ーー保ーー護ーー(??))」
あれ? なんかさっきから摩夕の表情が引きつっているような……。
「がーーほーーぐぉーー! ((??)」
……これは、予想が外れているな。
過保護とは言っていないな。
その証拠に摩夕を見ると、頬を膨らませてプンプンしている。
「申し訳ありません。理解出来ておりません」
そう言うと摩夕がゆっくりと立ち上がった。
そして俺の正面に立って、突然手と膝を床についた。
いわゆる四つん這いという状態だ。
すみません。これだけでは、まだわかりません。
そう思っていると今度は立ち上がって、イスもないところで座る動作をした。
いわゆる空気イスという状態だ。
正直これだけ見ると、普通にイスに腰掛ければいいじゃないかと思ってしまうのだが、きっとそれでは表現できないようなことなのだろう。
「がーーほーーぐぉーー! ((??)」
そして最初の発言に戻る。どうやら全部伝えたいことは伝えたらしい。
ただこれでもまだ、皆目見当もつかない。
摩夕はいったい何を言いたいんだろう?
摩夕の表情を見ると、先ほどよりもさらに頬を膨らませてプンプンしている。
申し訳ないと思いつつ、少しかわいくて、ほのぼのするなぁ。
そんなことを思っていると、摩夕は再び四つん這いになった。
と思ったら、またしても空気イスをする。
「がーーほーーぐぉーー! ((??)」
これを続けることに意味があるのだろうか?
そう思うとまた摩夕は四つん這いをして、その後また空気イスをする。
「がーーほーーぐぉーー! ((??)」
そしてこの言葉。
これを延々と繰り返す。
俺は余計なことは考えずに、冷静に摩夕の動きを見てみることにした。
四つん這い、空気イス。
四つん這い、空気イス。
四つん這い、空気イス。
「がーーほーーぐぉーー! ((??)」
「……?」
プンプン!
四つん這い、空気イス。
四つん這い、空気イス。
四つん這い、空気イス。
「がーーほーーぐぉーー! ((??)」
「……?」
プンプン!
四つん這い、空気イス。
四つん這い、空気イス。
四つん這い、空気イス。
はっ……!
俺はその動作をぼんやり見ていて、あることに気がついた。
この動きは、もしかして……。
俺はその時、昔のことを思い出していた。
それは俺が小学生の頃の話だ。
摩夕はまだ幼稚園生だったが、その時代はある遊びをしていたことがあった。
それはおうまさんごっこ。
両親の仲が悪くなり始め、お互いに遊べなくなってきた中でやってあげていた、とても簡単な遊び。
俺が馬になり、摩夕がそれにまたがる。
そしてそのまま俺が馬のように走ってあげるというもの。
特に道具が何もいらず、すぐに出来るという理由でよくやってあげていたのだ。
「おにいちゃーん。おうまさんやってー」
「うん。いいよー」
「わーい。それじゃあ、よいしょっと。それじゃあ、しゅっぱーつ」
「ひひーん!」
こんなくだらないことをしながら、過ごしていた。
あの時はすごく楽しかった。
そして今、俺は十年以上の時を経てあの時のことを想起していた。
四つん這いからの空気イス。
四つん這いは俺がやっていたおうまを意味し、その上にまたがっている自分の姿を空気イスという形で表現している。
その証拠によく見ると、空気イスをしている摩夕の股は、しっかりと開いている。
「もしかしてお前……」
その言葉を口にした途端、摩夕は元気よく立ち上がった。
そして俺に向かって、その目を輝かせた。
その表情が余計に小学生の頃を思い出させる。
もしかしたら、歯が無くなってしまったことで、少し子供に戻ってしまったのだろうか。
その影響で兄である俺への憎しみや反抗する気持ちが消えて、ただ無邪気な妹として振る舞っているのだろうか?
ただ今は、そんなことはどうでもいい。
こうなるともう外せないぞ。
大丈夫だよな。合ってるよな。
「がーーほーーぐぉーー(あーーそーーぼーー)」
「お前、遊びたいのか?」
「ふん! ふん! (うん! うん!)」
摩夕は飛び上がって喜んでいる。正解だよーって。
ホッとしたが、それ以上に本当に驚いた。
摩夕からこんな言葉を聞いたのは何年ぶりだろうか?
素直に嬉しい。
でも、正直少し遠慮する。
だって今時おうまさんごっこだなんて――。
ただ理解出来なかったことに責任を感じているし、具合の悪い摩夕のためを思えば、遊んであげるのが兄としての務めだろう。
そして何より本音は、俺だって遊びたいのだ。
「しょうがないなぁ。やってやるよ」
俺はわざとだるそうな態度をとる。
「ふがーい、ふがーい(わーい、わーい)」
摩夕はそんな俺の表情などまったく気にすることなく、ピョンピョン飛び跳ねている。
その姿もまた、懐かしさを感じる。
「じゃあさっさとやるぞ」
俺はそう言って四つん這いになる。
「はい。乗れ」
「ふぁーーい(はーーい)」
摩夕は元気よくまたがってきた。
いい年した高校生の兄妹がおうまさん遊びをしている。
誰かに見られてたら大変だ。
「ほへひゃあ、ひゅっふぁーふ! (それじゃあ、しゅっぱーつ!)」
摩夕の元気な声を背中で受ける。
「ひ、ひひーん!」
俺はゆっくりと歩き出した。
ぶっちゃけ、昔こんなことをよくやってたなと思う。
でもとても懐かしかった。そして楽しい。
摩夕の病気が治ったら、思う存分遊んでやるか。
そう心に誓いながら、俺は摩夕を背中に乗せ続けた。
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