あり得ない時間

「まよ! どうしたまよ!」


 俺は必死で階段を下りて行った。

 何度かつまずいて転げ落ちそうになったが、そんなこと気にしてる場合ではない。

 俺はあっという間に一階のリビングに着いた。


「まよ! どうしたんだ!?」

「ほぉがあひゃんがぁぁああ!」


 俺は摩夕の言葉に耳を傾ける余裕がなかったが、その様子を見て、俺はすぐに緊急性の大きさを理解した。


「ばあちゃん! ばあちゃん大丈夫!?」


 テレビの前で、ばあちゃんがうずくまっていたのだ。

 表情は見えないが体を震わせており、何か異変が起きたことは確実だった。


「ばあちゃん! 大丈夫!?」

「うっ……、ぐっ……」


 俺の問いかけに返事が出来ないほど、ばあちゃんは苦しんでいる。


「まよ! いったい何があったんだ!?」

「があひゃんがぁぁああ、ほふへぇんほはぁはぁがひぃはひっへひっふぇ、ふぉほはふぁはほふぇふぁっひゃふぉ。ふぉふぃいふぁん、ふぁふぅふぇへ(??)」


 しまった! 摩夕は歯が抜けていてうまく話せないんだった。

 正直、まったく理解が出来ない。

 こうなるとばあちゃんに、また同じ質問を繰り返すことしか方法が思い浮かばない。


「ばあちゃん! 大丈夫!?」

「うぅ……」


 ばあちゃんはか細い声で唸っており、明らかに苦しそうだった。

 見るとお腹を押さえている。

 食当たりか?


「ばあちゃん! お腹痛いの?」

「うぅ……、うん」


 ばあちゃんは必死で首を縦に振る。

 すごく苦しそうで、とてもとても見ていられない。


「どうする? 救急車呼ぼうか?」


 こうなるとそれくらいしか方法がない。

 これでばあちゃんが楽になってくれれば、なんだって構わない。


「今、救急車呼ぶよ! 摩夕はばあちゃんのそばにいてあげて!」

「ふん! (うん!)」


 俺は救急車を呼ぶために、急いで電話のところに向かう。

 ばあちゃん、もう少し耐えてくれ。

 そう思って受話器を取った時だった。


「だい……、じょう……、ぶ……、だ」


 ばあちゃんの声が聞こえる。

 俺は受話器を置いて、急いで駆け寄った。


「だい、じょう、ぶ、だ、よ」

「ばあちゃん! 何が大丈夫なんだよ!? そんな状態でそのままにしておいたら、下手したら……」

「ほん、とうに……、だいじょう、ぶだよ。もう、年だ、から、こういう……、ことも、あるんだよ」


 そんなの聞いたことがない。

 無理だけは本当にしないで欲しい。


「少しずつ、お腹も、治って、きてる、から、もうちょっと、待ってれば、きっと、治るよ」


 ばあちゃんは譲らない。

 だからそんな強がる必要はまったくないのに。

 ただ体は少しずつ起こせるようになっていた。

 この状況に従うのは少し変な気もするが、ばあちゃんが嘘をついているようには思えない。


「救急車は、呼ば、なくて、いい。ただ、そこの、ソファに、ちょっとだけ、座らせて、おくれ」

「わ、わかった。まよ、ばあちゃんの右肩を持ってあげてくれ。俺が反対側を持つから」

「ふん(うん)」


 摩夕はうなずいた。その顔は今にも泣きそうである。

 責任を少なからず感じているのだろう。

 俺と摩夕はゆっくりとばあちゃんを持ち上げて、ソファに座らせた。


「ありがとう。これで、だいぶ、楽、には、なると、思うよ」

「無理すんなよ。もししんどくなったらすぐ俺に言うんだぞ」

「うん……。ありがとう」


 ばあちゃんは先ほどよりも、顔色が良くなっているように見える。

 ひとまずその様子を見て俺は安心した。


「……」


 ダッ、ダッ、ダッ、ダッ。


 安心していたので突然の物音に驚いた。

 今の音は、階段を上がって行く音だろうか。

 そんなことを思ってふと見ると、摩夕の姿がない。

 上がっていたのは彼女で間違いだろう。

 それにしても、何も言わずに上がって行ってしまうなんて……。

 ただ今はそんなことを思ってられない。

 摩夕のことが気になりつつも、俺はばあちゃんの介抱のために全力を注ぐのだった。


―――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 しばらくするとばあちゃんの言う通り、具合はどんどん良くなっていった。

 俺は慣れない手つきでお茶を淹れて、ばあちゃんのところに持って行ってあげた。


「はい。どうぞ」

「ありがとう」

「本当に大丈夫? さっきまであんなに苦しんでたから心配だよ」

「もう大丈夫だよぉ。こんなことは前にもあったしね」

「そうなんだ」


 しゃべり方が普段通りに戻ったので、それがさらに俺を安心させる。

 本当にばあちゃんは強いなぁ。

 そう思うと同時に、俺はちょっとのことで学校を休む体質であったため、こういう人を見ると自分が恥ずかしく思えてくる。


「暖かいうちに早く飲んだ方がいいよ」


 俺は、必死でばあちゃんにお茶を勧めた。

 うまく淹れることが出来たかわからないお茶を悠々と飲んでいるところを見ると、本当に大丈夫そうだ。


「それよりもまよちゃんは大丈夫かい?」

 唐突に聞かれたので、俺は驚く。

 そう言われればあれから下りてこないし、ばあちゃんの具合のことを聞きにも来ないな。


「俺が見て来ようか?」


 ぶっちゃけすごく心配になったわけではない。

 でもまったく心配ではないかと言われれば嘘になる。


「それじゃあお願いしようかねぇ」


 ばあちゃんからの許しも得たので、二階へ上がることにした。


「あっ、でも無理はしないでね。また苦しくなったら、すぐに言ってね」


 気遣いを忘れそうになっていた。危ない、危ない。


「うん。わかったよぉ」


 いつもの優しい声に俺は安心する。

 これならちょっと離れても大丈夫かな。

 俺はそう思って、二階へと上がって行った。



 二階に上がった俺は、さっそく摩夕の部屋に着いた。

 ドアは閉まっており、中からは物音一つ聞こえてこない。

 もしかして、寝てしまったのだろうか?

 だとすれば開けるのは悪いから、開けない方がいいのかなぁ?

 ただばあちゃんも心配しているし、そのばあちゃんが大丈夫だったという報告もしなくてはいけない。

 そうした意味ではやっぱり開けた方がいいのだろうか?

 俺はしばらく摩夕の部屋のドアを前にして、沈黙したまま固まっていた。

 そんな状態が三分ほど続いた時だった。


「はひっふぇひいひょ(??)」


 正直あまりにも声が小さかったので、最初はばあちゃんが俺を呼んでいるのかと勘違いしたほどだ。

 でもよく耳を澄ませば、やっぱり聞こえてくるのはドアの向こうからだし、この声質は摩夕で間違いなかった。


「まよ、何か言ったか?」


 よく聞き取れなかった俺は、もう一度摩夕にお願いをする。


「はひっふぇひいひょ(入っていいよ)」

「入って良いんだね?」


 俺はそう聞こえた。


「ふん(うん)」


 摩夕から了承されたので、俺はゆっくりとドアを開けた。


「失礼します」


 摩夕は部屋の左側にあるベッドの柵に寄り掛かって、体育座りをしていた。

 その姿は、一昨日の離乳食を持って行った時と非常によく似ていた。

 その時は落ち込んでいたことを考えると――。

 そう悟った俺は手短に用件だけ伝えて、さっさと帰ろうと思った。


「あの、摩夕」

「……」

「ばあちゃんだけど、大丈夫だったよ。なんかしばらくしたら腹痛も治ったみたいで、今は元気になってるから安心して」

「……」

「ばあちゃんは摩夕の顔を見たいらしいよ。元気になったから見たいんだと。だからちょっとだけ下りてきたら」


 嘘を言ってしまった。

 ばあちゃんはそんなこと、一言も言っていない。

 でもこの様子をあまりにも見てられなかったため、俺は嘘を言ってでも元気を出してもらいたいと考えていたのだった。


「……」


 しかし摩夕は反応を示さない。何を言っても無意味な気がするほど反応を示さない。

 この状況ではやっぱり諦めるしかないのかもしれない。

 俺は黙ったまま、そっとその場から立ち去ることにした。


 トッ、トッ、トッ、トッ。


「ふぁっふぇ(待って)」


 突然呼び止められた。

 俺は体の向きをとっさに変える。


「どうした?」


 そして慌てて摩夕に声をかける。

 摩夕はまだ入って来た時と同じ体育座りのままである。

が、少しだけ顔を上げているようにも見えた。

 しかしここからまた沈黙の時間が流れる。

俺のことを呼んだはずだが、気のせいだったのだろうか?


「呼んだか?」


 俺が念のため確認する。

 しかし反応はない。

 本当に勘違いだったらしい。

 そう思って俺は出て行こうとする。


「ふぁ……っふぇ(待……って)」


 またしても小さな声で俺を呼ぶ声がした。

 ぶっちゃけ小さすぎて、何を言ってるのかさっぱりわからなかった。

でも二度目なので、俺を呼んでいたことは間違いないだろう。


「どうした?」


 しかしやっぱりこの後、反応がないのだ。

 これでは対応に困ってしまう。

 いったいどうすれば?

 うーん……。


「じゃあ、気が済むまでここにいてあげようか?」


 俺はとっさにこの答えが出てきた。

 何というか放っとけなかったのだろう。


「ただばあちゃんがまた具合を悪くするかもしれないから、たまに下に下りるけど、別に良いよな?」


 この質問に摩夕はそっと首を縦に振った。


「わかった。じゃあ気が済むまでいるよ」


 こうして前まで不仲だった妹と一緒の部屋で過ごすという、あり得ない時間が始まった。

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